八十五
特別治療室に、梨菜の『幻影』を載せたベッドが運び入れられ、昏睡状態となっている梨菜の『本体』と、同じ向きに並べられた。
仄香が作り上げた『幻影』は、梨菜の見た目の姿と同じにしか見えなかった。
つまり、それは、忠実な『再現』による完成体ではなく、仄香の判断が入った改善措置が施されている、ということを意味していた。
例えば、本来の梨菜ならば、白髪が生えてくる体質であったはずが、『幻影』では今の見た目の髪の色と同じになっている点。
他には、特徴的だった『彫り物』や黒子のような後発の装飾要素などは消え、梨菜を苦しめ続けてきた女性部分の疾病も、当然に修復されていた。
有利香は、『幻影』の全身をくまなく確認し、その完成度の高さに感心した。
それだけ、仄香の想いの強さを反映していると言えた。
ヒトの『意志』が入るまでは、『幻影』は単なるモノにすぎない。
自律神経は『意志』とは無関係に機能する仕組ではあるが、『幻影』における自律神経は、本体に宿る『意志』の存在が認められてから発動する構造となっている。
それは、すなわち『覚醒』と呼ばれ、『意志』と『幻影』が一体となるプロセスを示す。
今の梨菜の『幻影』は、後の生命体候補として、人工機器による支援により維持されている。
有利香の役割は、仄香が精魂こめて作成した『幻影』に、梨菜の『本体』に宿る『意志』を『伝承』し、後の『覚醒』のプロセスへと繋ぐことである。
だが、ここで要求水準として課題となるのは、その確実性と安全性にある。
途中で不測の事態に陥っても、本来の送り先に間違いなく届けること。
この正確な繰り返しが、『伝承』を成功に導くのだ。
実は、有利香自身も、『マジック・アイ』の持つ情報構造を、完全に解明できているわけではなかった。
結局は、彼女も入力から得られる出力結果のみを求め、内部機構を意識しないという、いわゆる『ブラックボックス』としている扱いは、他の研究者と横並びであった。
だが、有利香を特別な存在としているその根拠は、彼女自身が身体交換を伴う『伝承』を実現させた、唯一の成功事例とされているに他ならない。
仄香が、以前に有利香の身体に関わる情報を欲しがったのは、この点が理由であった。
「まあ」
有利香は、梨菜の残した笑顔を見て、彼女もまたニッコリと笑顔を浮かべた。
「素敵な笑顔。苦しかったでしょうに……でも、アナタらしいですね」
有利香の声は、梨菜と最後に会った時の静香の声に変わっていた。
「約束しましたよね。アナタに見てほしい未来を見てもらうために、今日まで準備してきました」
有利香はそれだけ梨菜に伝えると、キリリと顔を引き締め、「お願いがあります」と、誰かに伝えるような大きめの声を発した。
「犬飼クンと玲人クンを治療室へ呼んで下さい。長時間の処置となりますので、腰掛けなどもお願いします」
特別治療室には、高感度マイクとビデオカメラが設置されており、外部のオペレーターに声が届くようになっている。
また、位置的に特別治療室から最も遠い『センター長室』にも、その声と映像は届いている。
仄香は、その『センター長室』にあるディスプレイから、治療室の様子を眺めていた。
「呼んできて」
即座に、仄香がマイクで指示を出した。
まもなくして、犬飼と玲人の二人が入室し、有利香は梨菜の『本体』の隣に立たせた。
後を追って、二脚の椅子も運び込まれ、二人は眠っている梨菜を横から見るように腰を降ろした。
(『蓄積型』二人を風上に置いて……)
仄香の瞳に、緑のターゲットスコープと赤い四角形が写っていた。
(大量の情報を風下に『転送』するのね)
「仄香さん」と、有利香は呼んだ。
仄香は、つまみ食いしていた豆菓子をノドに詰まらせたような顔をした。
「アナタは、きっと、このプロセスを『再現』するつもりですね。そして、私が用意している、その後の『覚醒』のプロセスも……アナタが『再現』することで、一連のプロセスは全て繋がり、私や篠原博士がいなくても、アナタ一人で『不老不死』プロセスが実行できるようになるでしょう。でも、私は、そのことを妨げません」
有利香は、胸に手を当て、祈るように目をつぶった。
「私は、『不老不死』プロセスの意義に懐疑的な立場であり、使用規制を成立すべきと考え、完成を阻止する『計画』を策定し、実行してきました。そして、梨菜さんの治療は、あくまでも梨菜さん自身の遺伝子を蘇生させる方法で進めるつもりだったのです。でも、今は、その考えを改めています。その理由は、玲人クンにメッセンジャーを頼んだときに、私は梨菜さんが想像以上に深刻な状態に陥っていることを知りました。もはや、細胞や遺伝子を蘇生させたところで、梨菜さんを救うことはできないと判断しました。そこで、私は……梨菜さんを救いたい一心で……たった、それだけの理由で……研究者として、あるまじきことですが……本来の『計画』を恣意的に変更したのです……」
有利香は、そこで口を噤んだ。
しばしの沈黙の後、仄香はマイクに口を近づけた。
「ありがとう、姉さん……」
仄香の頬を一粒の涙が流れ落ちていた。
「二人で梨菜ちゃんを助けましょう。そして約束します。『不老不死』は、絶対に濫用しないってことを」
「その管理は、アナタに委ねます」と、有利香は頷いた。
「それでは、始めるのだわよ」
有利香の声は、元に戻っていた。
* * *
有利香が特別治療室から退室して、一時間程度が過ぎた。
有利香のプロセスは十時間超にも及び、終了した時には、協力者の『蓄積型』二人も含めて、疲労でフラついていたため、開放した病床に三人並んで横になっている。
仄香も、プロセスの一部始終の『記録』に夢中になり、今は疲労のため、センター長室のソファで寝息を立てていた。
今、梨菜のそばにいるのはピンクだった。
ずっと、梨菜の母親の越美のそばに付き添っていたのだが、その役を汐見レナに代わってもらい、ここに来ていたのだった。
梨菜の入院騒動から、毎日出入りしている『北高』の生徒会メンバーと接している内に、かなり仲良くなることができ、お互いが協力して、時々は梨菜のすぐそばにいける『権利』を、公平に分かち合うなどしていた。
そして、ピンクの番が回ってきたのだった。
ピンクは、『幻影』の側の梨菜の右手を握り締めた。
「羽蕗さん」
ピンクはその名を呼び、頬をファンデーションとは異なる桃色に染めた。
「本当の名前で呼ばせていただくのね。私ね、レナちゃんや、ミキちゃんとも仲良しになったのね。南北校の生徒会メンバーで、交流会を結成する話をしてるのね。だから、会長の羽蕗さんが早く目を覚まして、一緒に交流会立ち上げの式典をするのね」
ピンクの握り締める手が少し熱くなった。
「今度こそ、本当に助け合える友だちになろうね。早く目を覚まして」
その時、『本体』側の梨菜に装着されていたベッドサイドモニタから「ポーン」と大きな音が鳴った。
《血圧、心拍数が低下しています》
《血圧、心拍数が低下しています》
液晶画面に大きく表示されている血圧を示す数値が、最高値57、最低値32、心拍数が41となっている。
ピンクは、家にある血圧測定器での、自分の測定値を思い浮かべた。
(上の数値は、確か100ちょっとか、時々、100を切ってるくらい)
(下の数値は……60ちょっとくらいだったと思う)
(今の羽蕗さんの血圧の上の値は、私の下の値より低い)
(これは、何を意味しているのだろうか?)
(私は、医者じゃないからわからない)
(仄香さんなら、わかるに違いない)
そして、モニタの下側に写っている時々波を打っている線。
(これは、何となくわかる)
(心臓がドクンとした時のリズムだ)
ピンクは、自分の胸に手を当ててみる。
ドクン、ドクン。
梨菜の線と見比べる。
ドクン、ドクン、ドクン
_A____A____
ドクン、ドクン、ドクン
_A_____A___
少しずつ、羽蕗さんの方が遅れてるよ。
ドクン、ドクン、ドクン
__A_____A__
ドクン、ドクン、ドクン
____A______
羽蕗さんの一回分で、私は二回動いてるよ。
ドクン、ドクン、ドクン
A_______A__
どんどん、ゆっくりになってるよ。
ドクン、ドクン、ドクン
_____A_____
止まっちゃうよ。
羽蕗さん、止まっちゃうよ。
ドクン、ドクン、ドクン
___A_______
ピーーーーーーー
警告音が鳴りっぱなしになる。
ピンクは唇を震わせ、ただ茫然とモニタを見つめていた。
「い……いや……そんなのいやなのね……羽蕗さん、私を置いてかないで……」
そして、見る見る内に、両目から涙が溢れ出し、滝のように頬の上を流れ落ち始めた。
「いやああああああああああああああああああああ」




