八十一
成瀬功治は、『南高』の生徒会役員用の応接室にて、面談相手とテーブルを挟んで向き合い、拍子抜けしていた。
棚田豊国彦が生徒会長に就任し、選挙公約に挙げていた『南北平和協定』の交渉相手と想定していたのはオカダイだったのだが、急遽、リーダー変更の連絡が入り、代わってその役を務めることになったのは、入学したばかりの一年女子だったからだ。
しかも、その特徴的な風貌には、成瀬の胸を躍らせる、ある種の緊張感を呼ぶ効果があった。
ピンクの化粧、ピンクのメッシュ、ピンクの装飾品、とにかくピンク尽くしの女子が、瞳をキラキラさせ、成瀬を興味深そうに見つめているのだ。
「蛭沢桃です」と、ピンク女子は名乗った。
「こちらの新しい生徒会長さんは不在ですか」と、成瀬は尋ねた。
「あれは、そもそもオカダイが『北高』の生徒で、協定締結の倫理が成り立たないから、仕方がなく立てた『名ばかり』の会長なのね。管理能力も交渉能力も無いに等しいから、決裁は全て私が判断するのね」
ピンクが答えると、成瀬は「そうなんですか……」とうなずいた。
「今の成瀬先輩の態度は……」と、ピンクは目を細めた。
成瀬の両肩がキュッと細くなった。
「非常に不愉快なのね」
「え?……えっ……何か、気に触ること……言いましたか?」
成瀬は、忙しく全身を動かした。
「私がリーダーを務めることは、最初に伝えたはずなのね。それなのに、生徒会長がいるのか尋ねてきたのね」
「それは、えっと……」
成瀬が言い訳を考える前に、ピンクは拳でテーブルを叩いた。
「私が一年女子だからって、力不足だってことが言いたいのか?」
「そんなことは……全然……」
成瀬は、早い動きで首を横に振った。
「一年生は生徒会長に就任できないから、こういう体制になっているだけなのね。成瀬先輩も外交員だったら、相手の外見じゃなく、立場と権限で態度考えるのね」
「し……失礼しました」
成瀬は、こめかみから流れ落ちる汗を拭き取りながら謝罪した。
「では、成瀬先輩の用件をお願いします」
ピンクは、事も無げに成瀬を促した。
成瀬は、学生鞄からクリアファイルを取り出し、収まっていた文書をピンクの側に向けて、テーブルに置いた。
「こちらの要望ですが、『南北平和協定』の締結をお願いしたくて……」
ピンクの手が、スッと協定書に伸びた。
書面はA4サイズの用紙に両面印刷で三枚分の文量で、最後のページは南北校各代表による署名欄となっていた。
ホッチキス留めされた同じモノが二部刷られてあり、二部とも、すでに『北高』の署名欄には、棚田豊国彦の記名と押印、ページの境目には割印がされていた。
「ふーん」と、ピンクは書面の内容をパラパラと眺め、すぐにテーブルの上に戻した。
「協定内容の素案については、事前に岡さんに送付していたのですが……」と、成瀬。
「でしょうね。内容の確認もせずに、どこかにやってるのね。私は、初めて見たのね」
「新たに代表となられた蛭沢さんには、協定内容をよく読んでいただいて、両校の関係改善となる取組に対して協力をお願い……」
「第十二条にある双方校生の入退場に関する禁止事項の一つに」と、ピンクが成瀬の話を遮った。
「え?」と、成瀬は目を丸くした。
「南北の学生としての入退場に関しては、生徒会長もしくは代表者の承認を得たものを除き、なるべく行わないよう努めるものとする、とあるのね」
「えっ? えっ?」
成瀬はソワソワしながらテーブル上の協定書を開き、該当箇条を確認した。
「これは、完全に禁止するべきなのね。『北高』と『南高』は、同市内にあっても、所詮は別の学校なのね。不要な干渉を許さず、完全に分断してしまえば、自校の治安のことを考えるだけで済むから、平和になるのね」
「なるほど……」と、成瀬は頷いた。
「あと、第十九条の協定有効期間だけど」
ピンクの口に合わせて、成瀬は書面に向けた視線を慌ただしく移動させた。
「期間の更新は、双方から異議の申し立てが無ければ、さらに一年間継続するものとし、以後も同様とする、と自動更新が盛り込んであるけど、次期の生徒会長も棚田先輩が再任する前提になってるように見えるのね」
「それは、もちろん、その予定です」と、成瀬は強気で言った。
「協定内容は、基本倫理について定めてあるだけなので、時の代表者が誰であろうと左右されるモノじゃないから、問題は無いと思うけどね」
ピンクは言って、フフと笑った。
「では、第十二条を指摘されたように修正して……」
成瀬が言いかけると、ピンクは「その必要はないのね」と制した。
「ウチの生徒を『北高』に行かせないというルールは守るのね。だから、その書面で良いのね」
ピンクは手元に用意していた桃色のポーチから、万年筆と印鑑ケースを取り出し、署名欄に筆先を置いて、そこでピタリと手を止めた。
「同意する条件として、お願いしたいことが二つあるのね」
ピンクは、上目づかいで成瀬を見た。
「何でしょう?」と、成瀬の声は緊張で震えていた。
「一つは、オカダイのこと。アレは、『北高』の生徒だけど、こちらで預かるのね。本人に卒業する気があるのかどうか知らないけど、血迷って授業受けたいって言い出した時だけ通わせるのね。その方が、そちらも助かるのではないかと」
「助かります」と、成瀬は即答した。
「その代わり、女子を斡旋するのね。お金のためなら何でもする系のオカダイが気に入りそうなヤツ。そういうのを四人ばかり」
「四人ですか……」と、成瀬の目が大きくなった。
「それぐらいいれば、『北高』に行くなんて言い出さないと思うのね」
「あ、そういう基準ですか。なるほ……」
「二つ目は」
ピンクはまた成瀬の口を遮ったかと思うと、万年筆を動かし、生徒会長の名義で署名し、同名の印鑑を押印した。
そして、二部作成のため、同じ動作を繰り返した。
「キレイな字を書きますね」
成瀬は、ピンクの整った筆跡を見て、感心した。
ピンクは、成瀬の言葉を素通りして、ポーチから輪ゴムで括ってあるカードサイズの小さな封筒の束を二つ、完成した協定書の上に置いた。
一つは、灰色の封筒。
もう一つは、桃色と区別されていた。
「これを買い取ってほしいのね」と、ピンク。
「これは?」と、成瀬が尋ねた。
「FA」
「これが……」と、成瀬の手の震えが大きくなった。
「これの話はオカダイから聞いてたと思うけど」
「初めて見ました」
「こっちが無料配布用のレベル1」
ピンクは灰色の方を指差し、次に桃色を指差す。
「こっちがレベル2。五千円で販売されているのね。効果はレベル1が一週間くらい。レベル2以上は個人差はあるけど、一ヶ月くらいなのね」
成瀬は、灰色の方の封筒の束に手を伸ばそうとした。
「取り扱いに注意するのね。ちょっと見ただけで、すぐ入るから」
成瀬の手がピタリと止まり、そそくさと手を引っこめた。
「買い取りですか?」
「桃色のカードを一枚二千円で。五十枚あるのね」
「十万円ですか?」
「支払いは、来月の定例会の時で良いのね」
「……生徒会の運営費からは、とても捻出できません」
「さっきも言ったけど、桃色のカードは一枚五千円の価値があるのね」
「売ってこいと……」
「それを判断するのは、そちらなのね。『南高』の流通状況は、すでに飽和状態。遅かれ早かれ、放っておけばオカダイが『北高』にも拡大を図ったのね。その制御を、そちらに託すというのね。毎月のノルマとして、定例会の場でのみカードは渡すことにするのね。『北高』での流通を許すか、許さないかは、そちらが判断するのね」
「うう……」と、成瀬はうめき声を上げた。
「ちなみに」と、ピンクは続けた。
「レベルが高いカードほど、買取額が高くなっていくのね。平和維持には、お金がかかっちゃうのね。まあ、販売した場合は、利益が大きくなっていくんだけど」
「持ち帰ります」
成瀬は、封筒の束と締結済の協定書一部を学生鞄に入れ、応接室を後にした。
* * *
そして、さらに一年が経過した。
森脇恭二は、廊下の先を歩くオカショーに追いつこうと、息を切らせながら小走りした。
その気配を感じて、オカショーの足が止まり、後ろを振り向いた。
「キョーちゃん、どうしたの?」
森脇はオカショーに追いつき、ふうと深呼吸をして、ひとまず落ち着いた。
「ショーちゃんは、昨日休んでたから知らないかもしれないけど……」
「生徒会長選挙のこと?」と、オカショーが話題を繋げた。
「昨日は、関東新工場の竣工式に参加しててね、選挙には出られなかったんだけど、棚田先輩が敗れた話は聞いてるよ」
「そうなんだよ」と、森脇は鼻息を荒くして言った。
「当選した女子が、またスゴくてね」
「矢吹パンナさん、だったね。変わった名前のヒト」
「そうそう。それがね、超Aランクの美女なんだよ。百八十超の長身で、スタイルが良くて、巨乳で、これまでAにしてた女子を、全員降格させたいくらいの」
「へえ」
女子の評価にうるさい森脇が冷静じゃなくなってるのを見て、オカショーは感心した。
「また、選挙演説の内容もスゴくてね、壇上で水着姿になったんだよ」
「何でまた、そのヒトは、そんなことを?」
「背中と左腕に、『彫り物』があるのを見せたんだよ」
「え……」
オカショーの顔が蒼白になった。
「十字架と薔薇だった。自分がどんな人間かを全部知ってもらうためだって言ってたよ」
《一切、隠しごとはしないことにする》
《私の全部を理解して!》
以前に、梨菜に言われた言葉が、オカショーの頭を過ぎった。
「まさか……そんな……」
「ん? ショーちゃん、どうしたの? 顔色が……」
「キョーちゃん!」と、オカショーは森脇を見つめた。
「そのヒトの写真見せて? あるんだろ?」
「そりゃ、まあ……」
森脇はスマホを出し、写真データからすぐに検索して、オカショーに見せた。
「間違いない……」
オカショーは、スマホに映る写真を食い入るように見つめた。
「一緒の学校に入学してたんだ……名前を変えて……同じクラスにならなかったとはいえ、一年間も気づかなかったなんて……」
「ショーちゃん、大丈夫?」と、森脇が心配そうに尋ねた。
オカショーは森脇にスマホを返し、下唇を噛み締めた。
「矢吹さんは、今、どこにいるの?」
「たぶん、生徒会会議室あたりだと思うけど」
「今から、会いに行く」
「ええ!」
森脇が驚き声を上げるより早く、オカショーは会議室に向かって走り出していた。
会議室の前の廊下に多くの人だかりがあり、一際、大きな体格の男子の隣に、長身の矢吹パンナが並んで立っていて、周囲の群衆に笑顔を振りまいているのが見えた。
オカショーは声をかけてみるが、周りにいる女子たちの黄色い声や拍手といった騒音にかき消された。
「ショーちゃん……」
追いついた森脇が背後から声を掛けた。
その時、一瞬だけ、つむじ風のように沈黙が起き、パンナの視線がオカショーの方に向いたタイミングが訪れた。
オカショーは、そのタイミングに合わせて、声を張り上げた。
「羽蕗さん!」
群衆とパンナの注意が一斉にオカショーに向けられた。
「はぶき? やぶき?」
森脇は動揺していた。
「ボクです。岡です。一緒の学校だったんですね」
オカショーがパンナに伝えると、再び群衆たちのざわめきが始まった。
「すいません」
パンナは、オカショーに向けてお辞儀をした。
「これから、生徒会役員の委嘱式なんです。生徒会に御用がおありでしたなら、また明日、お越しください。わざわざ来ていただいたのに申し訳ありません」
パンナは群衆と共に会議室の中に吸い込まれていった。
オカショーは肩を震わせて、その場に立ち尽くしていた。
「あのヒトだ……戻ってきたんだ」
オカショーの口元が緩み、両目からは涙が流れていた。
「ショーちゃん……矢吹さんと知り合いだったんだ」
森脇が、呟くような小声で話しかけた。
「何か理由がありそうだ」と、オカショーは言って、右手の甲で涙を拭き取った。
「生徒会には、『監視組織』があるんだよね?」と、オカショーは森脇に尋ねた。
「あるけど、ヒトの揚げ足ばかり取ってるような連中の集まりだよ。あんなのに加わると生徒会と敵対することになって、矢吹さんにキラわれちゃうよ」
「いいんだ」
オカショーは、森脇に向かってニッコリと笑った。
「キラわれようと、ニクまれようと、どんな関係でも良いんだ。ぼくは、あのヒトと、何がしかの関係を持っていたい」
「ショーちゃん……」
森脇は、真顔でオカショーを見つめた。
「とにかく、また会えた。良かった……」
オカショーは流れ出る涙を、何度も手の甲で拭っていた。




