七十八
仄香は、十数名のスタッフを従えて、梨菜や篠原教授が居住している区画の入り口付近に集結した。
スタッフは、全員が岡産業株式会社の社員で、『攻撃側面』を備える『疑似権限者』だった。
だが、彼らの行く手には、佳人と二名の研究員が立ちはだかっていた。
「ネエさん」と、佳人は言った。
仄香は、彼から見れば叔母にあたる関係だが、仄香のいかにも若くみえる外見に対する配慮から、そう呼んでいた。
「やめて下さいよ。こんなのは間違ってる」
仄香は、佳人のその言葉に対して、アーモンド型の目を細めて、フンと鼻で笑った。
「アナタは、静香の指示で動いてるだけ。何が正しくて、何が間違ってるかの倫理を、理解していないでしょう?」
「じゃ、ネエさんが倫理だと?」
佳人は、毅然と反論した。
「さあね」
仄香は顎を上げて、顔の向きを若干右に動かし、左への横目線で、佳人を見つめた。
身長差は、佳人の方が十センチ程度高く、仄香は佳人を見上げる形にもなっていた。
「今まで、できるだけの協力はしてきたけど、政府予算だけで研究を継続するのは、もう限界だと感じたの。昨日の岡産業株式会社の株主会で、私が代表取締役会長に就任したのよ。今後は、『マジック・アイ』に係る事業展開が、経済活動の中心となっていくわ。市場規模は底無しに大きいと期待できるし、こちらの立場では、資金調達面で何の不自由も起きないのよ」
「ネエさんが、そういう行動を取ることは、すでに『予測』してたし、『計画』の範疇だったよ」
「そう……で、アナタの役割は、私のジャマをすることなのね」
「ボクの役割は、ここを守ることだよ」
ふうと、仄香は長いため息を漏らした。
「『計画』の趣旨が、まったく理解できないわね。静香が、この先の『予測』で何を見てるのか知らないけど、いかにも、この私が悪モノになりすぎてるんじゃないかしら。私は、ただ……」
仄香は、佳人から視線を逸らし、瞳に涙を浮かべた。
「梨菜ちゃんと仲良しになりたいだけなのに……」
「そんな理由は無いでしょ」
佳人は、容赦なく仄香の主張を切り捨てた。
「ネエさんが、『不老不死』プロセスを完成させようとしているのは知ってますからね。ネエさんの狙いは篠原教授なんでしょう? ボクは騙されませんよ」
ふうと、仄香は再び長いため息を漏らした。
瞳に溜まっていた涙は、すでに消えていた。
「別に、誘拐をしようなんて考えてないわ。私の提案について、ちょっとお話がしたいだけよ」
「ダメです。ネエさんを通すわけにはいきません」
「アナタもこっちに来れば良いのに。研究題材は同じなんだし、お互い協力して、発展を目指しましょう」
「それも考えましたけどね。ボクの上司が、西藤静香所長であり、大学院も所長のおかげで通わせてもらってるんで、指示に従わないわけにはいかないんです。ボクに言わせれば、何で二人のネエさん同士でいがみ合ってるのか、そこがわかりませんよ。二人とも同一の……」
「うるさい! それ以上は言うな!」
仄香が、佳人の口を塞ぐように、大きな声を上げた。
「アナタのことは、もう良いわ。好きにしなさい。私はね、『不老不死』の完成を焦ってるわけじゃない。今の行動の目的は、梨菜ちゃんよ。私は、梨菜ちゃんとお話がしたいだけなの。わかったら、そこをどきなさい」
「そうは、いきません」
佳人は、研究員の一人に顎で指示を出し、その研究員は急ぎ足で近くの壁にある防火シャッターのボタンを押しに行った。
居住区の前に、アイボリー色の防火シャッターがするすると降りてきて、正面に壁を作った。
「お話の機会も与えてくれないって、ことね」と、仄香は下唇を噛んだ。
「所長命令なんです。それとも、ボクを排除して、この先に進みますか?」
佳人は、相手の攻撃体制に備えて、身構えた。
仄香は、さらに長いため息を漏らしたかと思うと、佳人にクルリと背を向けた。
「身内であるアナタを傷つけるなんて、この私にできるわけがないでしょう」
仄香は背を向けたまま、佳人に言った。
「ネエさん……」
「今日は、私の負けで良いわ。明日から、しばらく日本を離れるの。アナタにも、お別れを伝えておくわ」
仄香は最後に言うと、エントランスに向かって歩き始めた。
その後を追って、社員たちも引き上げていった。
* * *
「矢吹パンナさん」と、静香はその名を読み上げた。
「このような発想は、私としては想像を絶しますが、あなたの今後の行動を妨げるモノではありません」
「ありがとうございます」と、梨菜はペコリと頭を下げた。
「いろいろ、質問して良いですか?」と、静香は尋ねた。
梨菜は、また頭を下げた。
「設定として、母親がキライで、自分の名前もキライとしていますが、実際の梨菜さんは、どうなんですか?」
「私を生んでくれた本当のお母さんについては、好きもキライも無いです。五歳くらいまで育ててくれましたから覚えていますけど、印象に残ったような思い出とかはありません。結局は、私を置いて、どこかへ行っちゃったヒトなんて、どうでも良いんです。私が、お母さんと認めているのは、血縁でなくても一生懸命に仕事をして、私を育ててくれて、月に一回ちゃんと会いに来てくれるヒトのことです。私は、今のお母さんが大好きで、尊敬しています。そのお母さんが、私の名前を可愛いって言ってくれたんです。だから、私は自分の名前が大好きです」
静香は、梨菜の答えを聞いて、ニッコリと微笑んだ。
「つまり、矢吹パンナさんは、羽蕗梨菜さんとは、真逆の設定ということなのですね」
「わかりやすいでしょう?」と、梨菜はいたずらっぽく笑った。
「確かに、わかりやすい設定です。それと、別の質問ですけど」
静香は、梨菜のお腹の辺りに視線を向けた。
「最近、体の具合はどうですか? 子宮の状況が良くない様子なのですが」
梨菜は驚いた顔をしたが、すぐに苦笑に変わった。
「やはり見抜かれましたね。静香さんには隠し事ができないようです。おっしゃるとおり、あまり体調は良くないです。心配かけまいと、佳人さんには内緒にしてましたが」
静香は、ゆっくりと首を横に振った。
「あまり放置できる状況ではありません。高校入学まで、あと四ヶ月ありますから、それまでは私が治療しましょう」
「静香さんがですか?」
梨菜は、またまた驚いた。
「意外に思うかもしれませんね。私と、あと妹の仄香もですが、医師でもあるのですよ。梨菜さんの容態は、短期間で治癒できるものではありませんが、私ができるだけの治療をして差し上げます。高校生活が始まってしまうと、通院しにくくなると思いますので、その先も対処できるよう、治療の仕組みを考えておきます」
「ありがとうございます……たくさん親切にしていただいて……」
梨菜の両目から涙が落ちた。
「梨菜さん……」
静香は、優しく梨菜を抱擁した。
梨菜は、静香に身体を預けた。
「あなたには、見てほしい未来があるのです。この私が、きっとあなたを来るべき未来まで、導いて差し上げます」
「私の命は短いのですか?」
梨菜は鼻をすすりながら尋ねた。
「……今は、わかりません」
静香は梨菜から視線を逸らし、抱擁している両腕に力をこめた。
「この私が、きっと……あなたに、見てほしい未来が訪れるまで……きっと、この私が……」
静香は、何度も、何度も、あたかも自分に言い聞かせるように、そう繰り返していた。




