七十七
「羽蕗さんのカリキュラムを変更してほしいんだけど」
水野警視監が、佳人の耳に投げ入れるように話しかけた。
「開始して、まだ二日目なんですが」と、佳人は唇をへの字に曲げた。
「警察官基礎研修を追加したい。総時間は七百二十時間。期間は六ヶ月以内で」
「何でまた、そんなことに……」
「本人が、ヤル気満々なんだ」
「梨菜さんが希望してるんですね」
「うん……まあ……」と、水野は言い淀んだ。
「ボクが勧めたらね、彼女がやるって言ったんだ」
(それって、誘導したんじゃ……)
佳人は、いかにも不満そうな目で、水野を見つめた。
「六ヶ月ってことは、月あたり百二十時間……って、中学卒業に影響出るかもしれませんよ」
「土日も入れちゃっていいよ。本人、やる気だから」
水野が軽く言うと、佳人の唇のへの字の山が、さらに高くなった。
「イヤです」
佳人の露骨な拒否に、水野が思わず「おお!」と声を上げた。
「このボクの指示を拒否るとは、キミもやる男になったな。感動したよ」
「ボクの休みが無くなります。一応は院生なんで、課題だってこなしていかないと……」
「もっともらしい理由だな。まあ、羽蕗さんが研修を受けてる時間帯はキミはフリーになるから、課題はそういうところでやっつけたまえ」
「むう」と佳人は唸った。
「ボクの苦労なんか、水野さんにはどうでもいい話でしょうからね」
「羽蕗さん、可愛い子だよね」と、水野がしみじみ言った。
「そうですね」と、佳人も頷いた。
「あんなにキレイで、賢くて、真面目な良い子が、どうしてあんな不幸な目に遭わなきゃいけないんだろうかって思うよ」
「梨菜さんは過去を振り払って、前向きに自分の未来を考えています。本当に強い子ですよ。ボクもできるだけ手助けしてあげたい、と思っています」
「じゃあ、決まった」と、水野がニンマリと笑った。
佳人はしまったと、口に両手を当てた。
「彼女の幸せのために、お互いがんばろう。ボクもときどき様子を見に来るよ」
「わかりましたよ」
佳人は苦笑して、肩をすくめた。
「ボクもやるって決めたんだから、最後までやり抜きます。彼女のために」
「佳人クンは良い男だ。よろしく頼むよ」と、水野は言って、佳人に向けて拍手した。
「それと、篠原教授から梨菜さん用の『覚醒』アプリが届きました。明日、実行する予定ですが、立ち会われますか?」
「もちろんだよ」と、水野のテンションが上がっていた。
「いよいよだね。楽しみだなあ」
水野は、『どんなときも。』をハミングしながら、アカデミーを後にした。
* * *
それから一年後。
水野は、ミーティングルームで梨菜と向き合って座り、驚きのあまり、口を開けっばなしにしていた。
ときどき様子を見に来ると言っておきながら、実は『覚醒』に立ち会って以来、ほぼ一年ぶりの再会だった。
梨菜は、さらに身長が伸びて、百七十六センチになっていた。
そして、日増しに加速してきた旺盛な食欲と、筋肉トレーニングが効果的に働いた影響で、体重は五十キロ台後半となり、筋肉質だが、グラマラスな体形へと、変身を遂げていた。
「驚いたなあ」と、水野は言いながら、ふくよかに膨らんだ梨菜の胸の辺りに、正直に視線を向けた。
「あんなに線が細かったのに、こんな風になったわけね。成長ってスゴイなあ」
梨菜は、ふわっと口元を緩ませ、微笑みを見せた。
あどけなかった笑顔が、今では優艶さが滲み出るようになっていた。
「今日はね、キミの進路について相談に来た」
水野は胸ばかり見ていた視線を梨菜の瞳に向け、リボンの掛かった小さな薄い包みを差し出した。
「今度の五月二十八日で、キミも十五歳だよね」
「誕生日を覚えていて下さって、ありがとうございます」
梨菜はペコリと頭を下げ、包みを受け取った。
「順調にカリキュラムを消化できたんで、中卒の認定は問題ないと思う。警察官の基礎も無事に修了できたし。で、その後の話なんだけど……一応、キミの考えを聞いておこうかな」
水野は口をつぐんで、梨菜の目を見た。
「わたしは……」と、梨菜は、そこで息を継いで、こう繋げた。
「水野警視監のような職務に就きたいと思っています。そのため、まずN市内の進学校に入学し、M大学の法学部を目指そうと考えています」
「何? キミは、ボクになりたいのか?」
水野は、嬉しそうな笑顔を見せた。
『水野になりたい』ではなく、『水野のような~』で、そこはツッコミどころだが、梨菜は構わず「はい」と返答した。
「M大学進学なら、I市立高校でも良いんじゃないかな。あそこも進学実績があるし、キミの自宅からも通いやすい」
水野の、いかにも軽率に思えた発言に、梨菜は目を細め、眉をしかめた。
「イヤです」
「!」
まさかの梨菜の拒否に、水野は驚いた。
「あの街には戻りたくありません」
水野も目を細めて、梨菜を見つめ返した。
「やっぱり気にしてたか……佳人クンにね、羽蕗さんは、過去を振り払って、前向きに自分の未来を考えてるって聞いたんだ。それを、まともに受け取ってたんだけどね」
「……」
梨菜は、水野から視線を逸らし、少し考えてから、もう一度、水野と目を合わせた。
「水野さんは、『北高』で私に何をさせたいのですか?」
「潜入捜査」と、水野は即答した。
今度は、梨菜の口が開いたままになった。
「キミも被害者の一人だよね。捜査の対象は、岡大だ。あの男を逮捕したい」
「……まさしさんの……お兄さん……」
梨菜の肩が震えていた。
「あの男は、『始まりの権限者』と言われてる。あの男が持つ特殊能力のおかげで、『マジック・アイ』に関する研究が始まった。そして、『マジック・アイ』を自在に利用できる人間を『権限者』と呼ぶようになった。アカデミーを発足させた大元となった存在だが、あの男の場合、悪用がヒドイ。取締法がまだ整備されていないのを良いことに、やりたい放題だ。羽蕗さんのような被害者がまた出ないように、あの男には粛正が必要だ」
「……それを、私自身にやれと……」
梨菜は、吐き出すように言った。
「そうだ」と、水野の目がキラリと光った。
「オカダイは、高校の中だけで行動している。教員の中には、あの男に買収された者がいて、捜査の手がなかなか及ばない状況になっている。法が整備されるには、まだ時間が掛かりそうだが、あの男の倫理に反する行為には、歯止めが必要だ。そこで、キミの出番というわけ」
水野は、先ほど梨菜に渡した包みを指差した。
「開けてごらん」
梨菜は、飾りの付いていたリボンを外し、包材を解いた。
中からは、茶色の表紙の手帳が表れた。
やや縦に細長く、開いてみると、中から金色の記章と、以前に制服着用で撮影された自分の写真が収まっていた。
「警察手帳……」と、梨菜はつぶやいた。
「ボクの力ね」と、水野は『どや顔』で言った。
「管轄内の人事は、全てボクが決定できる。特別な決定も含めてね。この仕事は、キミにしかできないと思ってる。入試は、まだ先だけどね。キミには、ぜひ引き受けてほしい。こういうの、どう?」
「……」
梨菜は目をつぶって考えた後、やがて笑みを伴って、水野の目をまっすぐに見つめた。
その瞳の奥に、燃え上がる炎が見えていた。
「私に、その仕事をしろとおっしゃるなら、もっともっと強くなって、徹底的にやります。あの男が、立ち上がれなくなるくらいに」
火が付いたな……
水野は、梨菜の返事を聞いて、満足した。




