七十六
アカデミーのミーティングルームにて。
水野警視監による『無茶ぶり指示』を受け、緊急治療に要した二週間後に、ようやく梨菜との面接が実現できた佳人は、若干の緊張感を抱きつつも、面接相手に大いに好奇心をくすぐられていた。
「羽蕗梨菜さん」と声を掛けると、梨菜は即座に「はい」と快活に返事をし、ピンと背筋を伸ばして、キラキラと輝く大きな瞳で、佳人と視線を合わせた。
「良い返事だね」と、佳人が褒めると、梨菜は引き締めていた口元を緩め、ほんのりと頬を桃色に染めた。
「ボクは水田佳人。このアカデミーの研究員で、水野警視監からキミのことを任された。よろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
梨菜は、丁寧にお辞儀をした。
「ボクのことは、みんな佳人って呼んでるからね。キミも、そう呼んで良いから」
「わかりました、佳人さん」
誠実で良い子だ、というのが、梨菜に対する佳人の第一印象だった。
「正直なところ、ボクも戸惑ってるんだ。梨菜さんが、ここに住むなんて話になって、慌てていろいろ用意したけど、そろえたモノがキミに適しているかどうか、わからない」
「私のために……」と、梨菜がペコリと頭を下げた。
「ご迷惑をかけてしまいました。そして、ワガママを聞いて下さって、ありがとうございます」
「ワガママ?」と、佳人は首を傾げた。
「ボクが気になっていたのは、キミの意思を無視して、水野警視監が一方的に決めた話じゃなかったのかっていう点だったんだけど、今のキミの口から出た『ワガママ』という言葉から、もしかしてキミの希望でここに来た、ということなのかな?」
「はい」と、梨菜ははっきりと答えた。
「このアカデミーの目的について、キミはどこまで知ってるのかな?」
佳人のその質問に対して、梨菜は思考を巡らせた結果、こう答えた。
「これまで研究目的とされていたことについてはわかりませんが、これからは、きっと私のことを研究することが目的になると思います」
「ええ?」
この回答に、佳人の方が驚きの声を上げた。
「何だ、その話は?」
「水野警視監が、そうおっしゃっていました」
梨菜は真面目な顔で、そう答えた。
「私に、研究に協力してほしいと」
「それに、キミは承知した、というわけだね」
「はい」と、梨菜はこっくりと頷いた。
「私に関するデータを、とにかく取れるだけ取りたいと、おっしゃってました」
「そういうのってね」
佳人は眉をしかめながら、梨菜を見た。
「実験材料にされてるってことだよ。キミはイヤじゃないのかな」
梨菜は、佳人から視線を逸らし、目の動きを右回りにグルリと回して、もう一度、佳人を見つめた。
「イヤ……じゃないです」
「ここに住んで、研究過程でもキミに関する情報……おそらく、プライバシーも含めた情報を吸い上げられて、それでも平気かい?」
「平気です」
梨菜はためらわずに返答し、佳人に向けて、ニッコリと微笑んだ。
その瞬間、佳人の胸がキュッと締まった。
「水野警視監は、私の命を助けて下さいました。その水野さんが、佳人さんの言うことを聞くように、とおっしゃいました。だから、佳人さんの指示に従いますし、隠し事はいたしません」
「うーむ……」
佳人は、まじまじと梨菜を見つめた。
「キミは、変わってるね。いや、バカにしてるんじゃなくて……スゴイなって意味で」
「……」
梨菜は、笑顔を崩さなかった。
「わかった。キミが決心した協力行動に対して、ボクも、いや、当アカデミー所属員全員が、誠実に対応することを、キミに誓うよ」
「ありがとうございます」
梨菜は、再びペコリと頭を下げた。
「キミの眠っているとされる能力だけど」
佳人は、両手を擦り合わせながら、上目使いで梨菜を見た。
「ちょっと……確認させてもらえないだろうか……つまり、それは……」
佳人が話し終わる前に、梨菜は右手を佳人の前に差し出した。
「『権限者』のヒトは、触ることでわかるんですよね」
佳人は、ゴクリと唾を飲んだ。
「驚いたな。もう、知ってたんだ」
「どうぞ……佳人さんには、私の全部を知っててほしいですから」
もう一度、佳人は唾を飲みこんだ。
梨菜の、これまでのとてつもなく不幸な経緯については、予め水野から聞かされていた。
それを、自らが直接知ることになる。
佳人の震える右手が、梨菜の右手に近づき、決心したように、その手を握り締めた。
その瞬間、梨菜の幼少期のビジョンが、嵐のように佳人の意識に入りこんできた。
疎まれ。
無視され。
泣かされ。
置き去りにされ。
放置され。
傷つけられ。
怒鳴られ。
閉じこめられ。
まくし立てられ。
だまされ。
裏切られ。
汚染され。
声は誰にも届かない。
助けもなく、支えもない。
流れ落ちた多くの涙は、踏みにじられ。
報われたことなど無かった。
佳人は、たまらず悲鳴を上げた。
突然の大型地震に見舞われたかのように、実際は座っていたにも関わらず、立っていられなくなるような衝撃を受けた。
意識が戻り、梨菜の笑顔が、再び正面に表れた。
佳人の顎から大量の汗が滴り落ち、両目からは、いつの間にか涙がこぼれていた。
「だ……大丈夫だ」
佳人は、流れ出た涙を手の甲で拭い、鼻をすすりながら言った。
「キミの願いは、これから実現できるよ。キミには、これから可能性が芽生えていくんだから……」
「はい。ありがとうございます」
梨菜はニッコリと笑った。
彼女の両目からも玉粒の涙がこぼれようとしていた。
その時、コンコンとドアをノックする音が響いた。
佳人は立ち上がり、ドアの外に出た。
そこには、彼の叔母である西藤仄香が立っていた。
「羽蕗さんに、お客さんが来てるの。エントランスに待たせてるわ」
「え?」と、佳人は驚いた。
「梨菜さんが、ここにいることを知ってるなんて、いったい誰なんです?」
「まさおさんの……岡産業の社長の次男よ」
「ええ! つまり……梨菜さんの……彼氏……」
佳人は、先ほど梨菜から得た情報から、そのことを引き出した。
「以前からね、まさおさんに『天然の権限者』の可能性がある羽蕗さんの話は聞いてたのよ。会う段取りまでしたんだけど、その後に連絡が取れなくなって……そしたら、水野警視監が、偶然ここに連れてきた子が、そうなんじゃないかって話をまさおさんにしたの。ショーちゃん……まさおさんの息子の名前なんだけどね、たぶん、そこから聞き出したんだわ」
「梨菜さんに伝えてきます」
佳人は、ミーティングルームに戻った。
「梨菜さん」と、佳人が梨菜に声を掛けた。
「キミにお客さんだよ。その……まさしさんが、来てるらしいんだ」
佳人が伝えると、梨菜から笑顔が消えた。
「エントランスにいるよ」
「わかりました」
梨菜は、エントランスに向かった。
* * *
エントランスで待っていたオカショーは、淡いライトに照らされた通路の奥から、自分に向かって歩いてくる長身の少女が視界に入ると、クシャクシャの笑顔になった。
「やっと見つけた……」
オカショーは、声を詰まらせた。
「行方がわからなくなって、ずいぶん探したんだよ」
「……」
「パパから、羽蕗さんがここにいるって話を聞いて、急いで来たんだ」
「……」
「迷惑でなければ、少し話をしたいんだけど……」
「……」
梨菜は無表情のまま、嬉しいとも、悲しいとも、何も語らなかった。
「羽蕗さんへの償いは、できるだけのことはしたいと考えてる。お金で解決しようなんて思ってないけど、パパに相談して、それ相当に用意してもらうことになったよ。その……治療費とかも全額負担するってことで……あと、兄のことだけど……羽蕗さんには近づかせないようにするから……」
「……」
梨菜は、なおも無言を貫いた。
そして、おもむろにオカショーに向けて、右手を差し出した。
「今の私の気持ち……」
梨菜は、呟くような小さな声で言った。
オカショーは、おそるおそる、梨菜の右手に触れた。
しばらくして、梨菜の方から手を離し、クルリとオカショーに背を向けて、歩き始めた。
「そ……そんな……」
オカショーは青ざめた顔で、その場に崩れ落ちた。
梨菜は容赦なくオカショーから遠ざかり、やがて通路の奥を曲がって、エントランスからは見えなくなった。




