七十三
アメリカ留学から帰ってきたオカショーは、真っ先に梨菜の住むアパートに足を向けた。
今の彼には、焦り、心配、不安に加え、国境を越えたコミュニケーションが可能な仕組みであるはずのSNSに対する怒りで満ちていた。
留学期間中は、梨菜に対して、幾度となく送ったメッセージが既読すらされずに不調に終わっていたのだ。
つまり、最後に別れてから、梨菜とは一切のやり取りができていない状態だった。
オカショーは家に帰り着くなり、荷物だけ放り投げて、両親に対してろくに会話も交わさず、飛び出していた。
梨菜の住む街に向かう電車に乗りこみ、K町駅に着くと、オカショーは『駆け込み乗車』ならぬ『駆け込み下車』で、駅から飛び出した。
駅から梨菜のアパートまでは、普通に歩いて十分程度。
そこを、オカショーは四分でたどり着いた。
すぐに呼び鈴を押すが、誰も応答しなかった。
オカショーの肩が落ちた。
ふと、スマホの時計を見た。
十三時四十一分。
今日は平日。
長期的に休みを貰っている自分は自覚が無いが、世間一般の子供は、学校に行っている時間帯である。
梨菜が帰ってくるのに、少なくとも、あと一時間以上はあるだろう。
ここで、待ち続けるか、それとも……
オカショーは、すぐに決断し、梨菜の学校に行くことにした。
体育の授業が行われていないグラウンドは、春の強めの風が砂塵を巻き上げ、見ているだけでくしゃみを誘った。
校舎からは、教員による論説やら、音楽の授業の歌声やら、音色やら、騒ぎ声やら、笑い声やらが、微かに漏れてきた。
学区は違えど、本来ならオカショー自身もあの中に入って、授業を受ける立場だ。
校門の前で、しばらく待っていようと思ったが、気持ちが落ち着かないので、学校の敷地をグルリと一周してみることにした。
この行動に、特に目的は無かった。
もしかしたら、梨菜に関する何らかの痕跡が見つかるかもしれない、などという期待感も無かった。
ただ、梨菜がどんな学校に通っているのかを知りたい、行動の根拠はただそれだけであった。
ここで得られるのは、学校施設の構造に関することだけだろう。
それでも何かをしていることで、暴れそうになっている感情の鎮静と、待ち時間の消化としての効果はある、とオカショーは考えた。
かなりゆっくりと歩いて、元の正門に戻ってきて、スマホの時計を見たら十四時二十三分で、まだ三十分以上は授業が終わりそうになかった。
仕方がないので、もう一周することにした。
今度は、もっとゆっくりした足取りで。
正門に戻ってきて、スマホを確認。十四時四十七分。
オカショーの感覚で、終業は十五時と設定していたので、もう一周するには残り時間が微妙な感じと言うことで、じっと待つことにした。
目標の十五時になったが、終業チャイムが鳴る様子は無く、さらに十分待つが、終わりそうな気配は無かった。
結局、十五時三十五分にチャイムが鳴って、最初の下校生徒が現れた。
そして、ぞろぞろと生徒たちが外に出てきた。
長身の梨菜ならすぐに見つかるだろうと、じっと眺めていたが、ついには見つけられなかった。
校舎内の生徒は、ほとんど残っていない雰囲気だった。
かなり注意していたつもりだったし、割りと目につきやすい場所に立っていたので、向こうから気づかれると思っていたのだが、見逃してしまったと判断し、再び梨菜のアパートに向かった。
ドアの前に立ち、呼び鈴に指を伸ばした。
部屋の中に呼び出し音が響く音が外に漏れてきた。
しばらく待ったが、反応は無かった。
もう一度、呼び鈴に指を伸ばそうとしたら、カチリとドアを解錠する音がした。
オカショーの胸が躍った。
ドアが少しだけ外に開き、その隙間の高い位置から、梨菜の大きな瞳がオカショーを見おろしていた。
「今日、帰ってきたんだ」と、オカショーは緊張気味に笑顔を見せた。
「そう……」
梨菜は、弱々しく頷いた。
「入って……」と、ドアが大きめに開かれた。
オカショーは「おじゃまします」と言って、中に入った。
梨菜は、サックスブルーのニットウェア姿で、自分の部屋にオカショーを案内したら、ベッドの上に腰を下ろした。
何となく、立っているのもつらそうな感じだった。
オカショーは、机に収まっていた椅子を引き出して、梨菜と向き合うように座った。
オカショーが、梨菜の部屋に入るのは、初めてではなかった。
机とプラスチック製の衣装ケースの他は、ベッドくらいしか家具が無く、女子らしい可愛い装飾もあまり見られない質素な部屋だが、整理整頓だけはキチンとされていた。
「体調が悪くて、学校休んでた」と、梨菜は言った。
「二時前くらいに一回来たんだよ」と、オカショー。
「その頃は、病院に行ってた」
そこはかとなく、梨菜の口調には、イラ立ちと気だるさが滲み出ていた。
「さっき帰ってきて、横になってたとこ」
「風邪かな?」と、オカショーは尋ねた。
梨菜は、首を横に振った。
「最悪」
「そうか……じゃ、今日のところは帰るよ」
オカショーが立ち上がろうとすると、梨菜が身を乗り出して、それを制した。
「私の話を聞いて」
梨菜はまっすぐにオカショーを見つめた。
「わ……わかった……」と、オカショーは言って、椅子に腰を戻した。
しばしの沈黙の後、梨菜は「キミのお兄さん」と話を切り出した。
「え?」と、予想外のキーワードが登場して、一気にオカショーは冷静さを失った。
「かなり、ヒドいヒトだね」
「ウチの兄が、羽蕗さんに何か……」
梨菜は、怒りに満ちた視線をオカショーに向けたまま、右手を差し出した。
「言葉で説明したくないから、キミの方から理解して」
オカショーは、おそるおそる梨菜の手を握り、『走査』を発動させた。
「ええ!」
オカショーは『走査』を始めて、いくらもしない内に悲鳴を上げ、梨菜から手を離した。
「最後まで理解して!」と、梨菜は叫んだ。
オカショーは、もう一度、梨菜の手を握り、『走査』を再開した。
そこから得られた情報は、あまりに醜く、おぞましい姿の黒い男子たちが、よってたかって梨菜を食い物にしたという内容だった。
何度も。
何度も。
永遠とも思えるような繰り返し。
悲痛な叫び。
汚染されていく身体。
禁断症状。
想像を絶する傷みと恐怖。
そして、絶望。
梨菜の想いの全てを受け取った時、オカショーの全身は痙攣を呼ぶ猛毒が全身に回ったかのように、震えが止まらなかった。
「私ね、三月の終わりに妊娠がわかったの」
梨菜は、オカショーに構わず、告発を重ねてきた。
「キミのお兄さんが、どこかのお医者さんに中絶手術をさせて、痛みを抑えてくれる『治癒』をしてくれたんだけど、すぐに『行為』が再開されて、二度目の妊娠がわかった」
梨菜は、淡々と経緯を語った。
「その処置を、またキミのお兄さんが進めて、つい三日前に、それが終わったとこ……痛みは消してくれてるけど、他の変な病気とかが感染したのか、今日は朝から具合が悪い」
(これは何だ?)
オカショーは下唇を噛み締めた。
(いったい何が起きた?)
(ボクは、魔界に引き込まれたのか?)
「まだ話は終わってない!」
オカショーが混乱しているところへ、さらに梨菜は叫び声を上げた。
「は……はい……」
オカショーの返事はかすれた。
両目から涙があふれ、その顔はクシャクシャになっていた。
「変なカードを見せられて、それから神経が敏感になるような症状が起きるようになった。幻覚が見える時もある。あと、そのカードを見ないでいられなくなった。麻薬とか、ドラッグとか、よくわからないけど、それと似たような感じなのかな。キミのお兄さんにカードを貰ってるよ」
「ああ……それも原因がわかってる……兄の仕業だよ」
オカショーはすすり泣きながら答えた。
「あと、もう一つ」
梨菜は、着ていたニットウェアの裾に手を掛け、頭の方へ脱ぎ始め、上半身を露出させた。
成長途中で未熟に膨らんだ胸が、オカショーの前に現れた。
オカショーは、思わず視線を逸らした。
「ちゃんと見て! 私の全部を理解して!」
梨菜の声は、怒鳴り声に変わっていた。
オカショーは、梨菜の上半身に視線を向けた。
「ここ」と、梨菜は左上腕を指差した。
そこには十字架を象った『彫り物』が刻まれていた。
「それから、こっち」
梨菜は、今度は後ろを向いて、背中を見せた。
十字架と薔薇の彫り物が一面に描かれていた。
「すべて、キミのお兄さんがしたことだよ」
「う……うう」
言葉にできなかった。
オカショーの認知できる許容範囲は、とうにパンクし、全く思考が働かない状況になっていた。
「ボクは、どうすれば……」
かろうじて、言葉にできたのはこれだった。
梨菜は目を細めて、オカショーを見た。
「それを考えるのはキミの役目。私から改めて言わせてもらうよ。私の、この最悪な状態を、キミが何とかして」
梨菜の言葉から汲み取れる感情は、冷徹なものだった。
オカショーは、震える声で「わかった……」と返答した。




