六十七
うっすらと灰色の霧がパンナの視界を覆い、何も見えなくなった。
パンナには、この霧の意味が理解できていた。
(やっぱり、マズったかな……)
(あの時、犬飼クンと離れてた時間が長かったからなぁ)
(後から補修はしたつもりだったけど、もう手遅れなのかも……)
灰色の霧は晴れ、優しい笑みの仄香の顔が、再び視界に現れた。
(仄香さんは、キレイだよね)
(頭が良くて、自由で……)
(私も、仄香さんみたいな大人になりたかったな)
「梨菜ちゃん、疲れちゃった?」と、仄香は問いかけた。
パンナは、ニッコリと微笑みを返した。
「きっと違うと思います」と、パンナは話し始めた。
仄香は、何も聞き返さなかった。
「『不老不死』の話題を展開することで、私が『交渉』で何を得るべきかが見えてくると思っていましたが、むしろ、仄香さんの方が、そのプロセスに関する情報を欲しがっていて、それに関する情報を握っていたのは、こちらだったみたいで。つまり、この話題の延長上に交渉要素は無さそうです」
「有利香の考えていることが、アナタに想像できる?」と、仄香は尋ねた。
パンナは目を閉じて考えた。
「『不老不死』を仄香さんが展開した場合の経済的なのか、倫理的なのか、その両方かもしれませんが、その影響は世界レベルに及ぶことは間違いないです。そういうのを阻止しようとして、静香さんが秘密として守り抜いてきてたわけですよね。おそらく、それが政府の方針なんです。機密保持を維持するための目的として、静香さんの『計画』が存在しているのだと思います」
「これだけは、伝えておきたいんだけど」と、仄香が話を入れてきた。
「私が『不老不死』を展開したい理由は、事業利益のためだけではなく、科学の可能性追求と社会貢献よ。悪用される可能性ばかりを懸念して、発展のために歩もうとする足を止めるという選択肢は、私には無いの」
仄香は、右手の握り拳に力をこめた。
「悪用に対して、対策が必要なのは、取り締まりの仕組みなのよ。可能性を潰すことじゃない」
「仄香さん、熱いですね」と、パンナはクスクス笑った。
仄香も、つられて笑った。
「ゴメンね。話に割り込んじゃって」
「でも、静香さんに『計画』を変更しなくてはならない事態が起きた」
パンナが、話の続きを始めると、仄香は唇をキュッと引き締めた。
「どんな事態かはわかりません。私の想像ですが、元々は政府の指示によって、静香さんは『計画』を作り、行動をしていたのだと思います。それを、静香さんの判断で『計画』を変更することはできないと思います。ということは、政府の方針に何らかの変更があったのではないかと……」
「うん……そうね……」と、仄香の口が動いた。
「政府のこともだけど、姉の静香のことも、きっと私の方が、アナタより理解していると思うわ。静香はね、時の政府の言いなりになるようなヒトじゃないの。そして、支配権限を維持させたいという目的から、政府側も『不老不死』の仕組みを欲しがっていると見るべきだわ。さっきも話したけど『不老不死』はね、『再現』、『伝承』、『覚醒』の三つのプロセスが揃わなくては完成しないのよ。つまり、今の状況は、私と静香によって管理されているわけで、政府であろうと、手も足も出せない、ということなの」
仄香は、そこで息を継ぐ代わりに、ガラスコップで最初に運ばれていた冷水を口に含んだ。
もう、飲酒はおしまいのようである。
パンナは、少しだけ安心した。
「力を持つ者が強いのは、当たり前の理論よ。静香は、時の政府が持つ限定的な強制手段に屈しないわ。アカデミーを始めたのも、終わらせたのも、静香の判断よ。そして、もう一つ言うとね、静香もだけど、私も徹底して慎重派なのよ」
そこで、パンナはプッと吹き出した。
「今、笑ったわね」と、仄香は、すかさず指摘した。
とはいえ、顔は、仄香自身も笑っていた。
「すいません……慎重派と聴いて、静香さんなら納得できますが、仄香さんとなると……けっこう、これまで、行動が大胆でしたし……慎重というイメージから遠い感じが……」
「大胆で、慎重なのよ」と、仄香が言って、二人してケラケラ笑った。
「行動は慎重だし、これで几帳面なのよ……あ、また笑う……この間の人道公園での騒動ね、ほら、あのミキミキって子が、派手にあちこち燃やしてたでしょ。芝生広場なんかも真っ黒にしちゃってさ。あの後、ウチの整理班に修復させたのよ。跡形も残らないように元通りに直したわ。真っ暗な所で、大変な作業だったんだからね」
「あれは、そっちが仕掛けたんです。私は、悪くありません」
二人は、またしても大きな声でケラケラ笑った。
「梨菜ちゃん、大好きよ。ずっと前から、ホントに大好き。仲良しになれて、すごく嬉しいわ」
仄香は、流れ出てくる涙を指先で盛んに拭き取りながら言った。
「私、こう思うんです」と、パンナは仄香をまっすぐに見つめた。
「今日のこの場で、『交渉』というか、私と仄香さんとの話し合いで導かなくてはならないのは、協力関係だと思うんです。冷静な有利香さんが、『計画』を変更せざるを得ないくらいの非常事態が起きようとしているのなら、お互いが協力しあって、非常事態を乗り越えていかなくてはならないのではないかと。仄香さん、これから何が起きて、どんな問題が起きるのかわかりませんけど、どうか力を貸していただけませんか」
「もちろん、OKよ」と、仄香は即答した。
「梨菜ちゃんのためなら、何だって協力するわ」
「私も……」と、隣のピンクが話に加わってきた。
「ずっと前から、矢吹さんと仲良しになりたかったのね。でも、いつも突き放されてばかりで……私も、できることがあれば、矢吹さんに協力したいのね……そんなに、色々できないけど……」
パンナは、ピンクの顔をじっと見つめた。
ピンクは、照れくさそうに明後日の方角に視線を逸らした。
「キミの気持ちは、ずっと前からわかってたよ。こちらは、見てて楽しいから突き放してただけなんだから」
「ヒ、ヒドいのね……私の気持ちを知ってて……」
ピンクが、桃色に染まった頬を膨らませた。
大きな笑い声に包まれた。
「来年、M大学の『飛び入学』に挑戦するんだってね」と、パンナが話しかけた。
ピンクは、そっとパンナと目を合わせた。
「頑張ってね、キミならできると思うよ」
パンナの励ましに、ピンクは「むむ」と唸った。
「ぜんぜん、矢吹さんらしくない発言なのね……あやしい」
「何だよ、せっかく優しく接してあげようという気持ちになってあげたのに」と、パンナが口を尖らせた。
「慣れないことは、疑わしい感じがするから、しない方が良いと思うのね。こちらも慣れてないし……」
「何それ? 意味わかんないし」
笑いが連続した。
仄香の涙が留まるところを知らず、ハンカチで頬を拭ったため、メイクが半分ほど落ちてしまった。
「私、相当ヒドイ顔になってるわね。鏡を見るのが怖いわ」と、仄香は笑いながら言った。
「仄香さん、すっぴんでも本当にキレイですよ」と、パンナは素直に褒めた。
仄香は、「私、見た目ほど若くないのよ」と、得意の決めセリフで場を盛り上げた。
「ああ、私……本当に楽しい時間を過ごせたわ。梨菜ちゃん、今日は、ありがとう」
パンナも、屈託のない笑顔を仄香に返した。
「また、誘うわね。今度は、本当に高級店でドンチャン騒ぎしましょう」
仄香は立ち上がり、帰り支度を始めた。
パンナは笑顔を崩さず、座ったままだった。
よく見ると、こめかみの辺りに溜まった玉粒の汗が滴となって、頬から顎に向かって流れ落ちていた。
「梨菜ちゃん?」
不審に思った仄香は、パンナに顔を近づけた。
パンナは何も反応せず、ただ笑顔だけは維持し続けていた。
「梨菜ちゃん、気分でも悪いの?」と仄香は問いかけ、パンナの右肩に手を当てた。
タートルネックのインナーウェアは、身体中の汗を吸い取りでもしたくらいに、じっとりと湿っていた。
仄香は『走査(Scan)』を発動させ、パンナの状態を探ろうとした。
だが、ほんの数秒で仄香は『走査』を中断し、「きゃああ」と大きな悲鳴を上げた。
たちまち店内に響き渡り、その場にいた客、従業員の全員が、仄香に注目した。
「う……うそ……」
仄香は、全身をガクガクと震わせ、何度も唾を飲みこんだ。
「どうしたんだ、おふくろ?」と、玲人が仄香に近づき、今にも倒れそうになっている体を、両手で支えた。
「桃ちゃん!」
気を取り戻した仄香は、すぐさまピンクを呼んだ。
ピンクは、うろたえながらも「はい」と返事をした。
「大至急、救急車を呼んでちょうだい。搬送先は、私の医療センターにするよう伝えて」
仄香の指示を受け、ピンクはすぐに行動した。
「ああ……ヒドいわ……こんなことって……」
仄香は、両手で顔を覆い、しくしくと泣き始めた。
「矢吹さんに、いったい何が起きたんだ?」と、玲人は尋ね、ふらついている母親の体を抱き寄せた。
「アナタは、有利香から何も聞いてないのね」と、仄香は玲人に問いかけた。
玲人は、ぎごちなく「うん」と答えた。
「悪性腫瘍が梨菜ちゃんの全身に転移して……もう、手が付けられないくらい、最悪の状態なのよ。このままだと、あと何日も生きられないわ」
仄香は、玲人の腕を振り切り、動かなくなっているパンナに抱きついた。
「せっかく仲良しになれたのに……もっと早く……もっと早く、気がついてあげれば……ゴメンね……梨菜ちゃん、ゴメンね」
パンナは、指先が微動することもなく、最後に固定された笑顔が崩れることもなかった。




