六十五
パンナと仄香の面会が実現したのは、玲人とオカショーとの二回戦に及んだカフェでの出来事から五日間が過ぎた後のこと。
時は、昼のピークを過ぎ、ランチタイムのオーダーがギリギリとなるあたりで、場所はI市駅にほど近いイタリアン系のファミリーレストランだった。
パンナは、キャメルのダッフルコートにベージュのタートルネックを首元に覗かせ、ピンクのニット帽、ボトムは股上の浅い黒デニム。
同伴の玲人はというと、紺色のチェスターコートに、インナーにはオレンジと黒のチェック柄の布帛シャツ、ボトムにアシッドウォッシュの細めのデニムという出で立ちであった。
二人が並んで歩いて、目的地の前にたどり着くと、すでに仄香とピンクが店の入り口前で待っていた。
仄香は、ダークブラウンのロング丈テーラードジャケットをボタンを交わずに羽織り、ライトグレーのニットパンツ、インナーにはアイボリーの衿無しシャツと涙型のアクアマリンをチャームにしたネックレスを下げていた。
この格好からは、超セレブのオーラは感じられず、ファミレス常連のママさんのように見えた。
そして、ピンクだが、薄い紫とピンクのチェック柄のハーフコートに、ピンクのニットパンツという全身ピンク衣装に、さらに気合いが入ったピンク化粧が重なり、より一層『ピンク魔神』と化していた。
「こんちわ」
パンナが二人に声を掛けると、仄香は目を大きくして硬直し、ピンクは、ブラックジャックに出てくるピノコが『あっちょんぶりけ』をした時のような、両頬を両手でハサミこむ仕草をした。
「玲人! 何で、アナタが梨菜ちゃんと……」
「え……ああ……」
玲人は、頭の後ろを掻きながら、言い訳を考えた。
「何となく……成りゆきで……」
「けっこう、いい仲だよ」と、パンナは玲人の腕を掴み、ピタリと身を寄せた。
「まぁ……アナタたちったら……」
仄香は、頬を紅潮させた。
「私は、梨菜ちゃんだったら大歓迎よ。玲人のこと、よろしくお願いね」
ピンクは、『あっちょんぶりけ』のまま、仄香の方を見た。
「ちょ……ちょっと、おふくろ、何の話してるんだよ!」と、玲人の声が裏返った。
「玲人、仄香さんのこと、おふくろって呼んでるんだ」
パンナが今にも吹き出しそうに頬を膨らませた。
「悪いかよ……」
玲人が、口を尖らせた。
「何か、意外と言うか、ウケると言うか」
パンナは、ケラケラと笑った。
玲人は、下唇を突き出して、あさっての方を見た。
ピンクの『あっちょんぶりけ』が玲人に移った。
「このとおり、まだ子供なのよ。梨菜ちゃん、玲人をいい男にしてあげてね」
仄香が、パンナにペコリと頭を下げた。
『あっちょんぶりけ』が仄香に戻った。
「何だよ、いい男って……」
「任せて、仄香さん。私が、玲人のことを、あっちの方も、こっちの方も、いい男にしてあげるから」
『あっちょんぶりけ』が、パンナの方に。
「何だよ、あっちの方こっちの方、って……意味わかんねえし」
「玲人、ちゃんと梨菜ちゃんの言われたとおりにするのよ」
『あっちょんぶりけ』は、再び仄香の方に。
「オレ、イジられ役かよ……」と、玲人が肩を落とした。
「ピンクの動きがウケるから、ちょっと使わせてもらっただけだよ」
パンナは、玲人の肩を叩いた。
「え?」と、矛先が自分に向けられるまさかの展開に、ピンクの目が中央に寄った。
「ほんと。桃ちゃんの動きが可愛いから、私も調子に乗っちゃった。ゴメンね、桃ちゃん」
ピンクは、ゆっくりした動きで頬に当てていた両手を下ろした。
「何だよ、オレのことはスルーかよ」と、玲人が目を潤ませた。
「さあ、中に入りましょう」
仄香の掛け声で、一同は店の中に入った。
『予約席』の札が置かれた六人掛けのソファとテーブルに、四人は羽織っていたアウターを脱いで、それぞれが腰を下ろした。
配置は、パンナと玲人、仄香とピンクが並び、パンナと仄香が正面に向き合った。
「こんな所で良かったかしら?」と、仄香がパンナに尋ねた。
パンナは、首を縦に振った。
「普段使い感が満載で良いと思います。周りに、あまり気を使わなくても良いし」
「超高級店で、ドンチャン騒ぎってのもありかなと思ったけど」と、仄香の目が笑っていた。
「あ、仄香さんは、私がそういうことするイメージで見てたんだ」
パンナは、目を細めて、ちょっとだけ口をすぼめた。
「そういうイメージで見てたわよ。違うの?」と、仄香が強気で攻めてきた。
「いえ……たぶん、合ってると思います……」
パンナが肩をすくめてテヘペロをした。
仄香はニンマリと笑った。
最初に、剥きエビとアボカド、シーザーと、二種類のサラダが大皿で運ばれてきた。
ピンクが着席と同時にオーダーした、すぐに出てくる『つきだし』である。
四人の前には、小皿が数枚用意されており、これから出てくる料理は、共有の大皿から自分が食べたいモノを採る形になる。
つまり、『同じ釜の飯』ならぬ『同じ大皿料理』を食う仲間、ということになる。
オーダーは、すべてピンクが手際よく、幅広く、各々の好みを配慮し、各々が「これこれ」と、箸を伸ばしたくなるような気の利いたモノが含まれていた。
次々に料理が運ばれ、あっという間に、テーブル上のスペースは埋め尽くされた。
「これ以外に、フリードリンクもあるのね。スープバーも付けたから」
ピンクが、バーのある辺りを指差した。
「あそこに並んでるモノは、全部フリーなのね。ここに並んでるモノ以外に食べたいモノがあったら、勝手に注文してくれていいのね」
そう言いながら、ピンクは、仄香の前にグラス入りの赤ワインを置いた。
「仄香さん、今日は飲むんですか?」と、パンナは目を丸くした。
「飲むって、ほどの量じゃないわ」
仄香はグラスを手にして、一口だけ唇を着けた。
「アナタたちは未成年だからダメよ。ビール味のジュースもダメ。アナタたちを酔わせて帰すようなことをしたら、私は取締役会の懲罰審議にかけられてしまうわ」
「その前に、私が逮捕します」
パンナが攻め駒を手に入れたような得意顔をした。
「仄香さんが飲むようなワインって、すごく高級なモノなんでしょうね」
「このレストランで扱ってるレベルよ」
仄香はワインを含み、口の中全体に行き渡るように対流させた。
「一杯、四百八十円。私はお酒のツーじゃないから、良いとか、悪いとか、高いとか、安いとか、その違いがわからないわ。でも、この飲み物は好きよ」
各々が好きなモノを食べ、好きなモノを飲み、好きなコトを話し、好きなコトで笑い、食欲がそこそこに満たされたら、次に訪れるのは、帰属欲求のとりわけ共有感の開拓に手を着けようとする段階となる。
このプロセスは、特に仄香の側が力の入り方が強い状況にあった。
なぜなら、パンナを呼び出しているのは、彼女の方だからだ。
パンナは、そこを意識し、自らが歩み寄るようなことはせず、相手がどのようにきっかけを作ってくるのか、様子を窺うようにしていた。
「梨菜ちゃん」と、仄香は王将の真ん前に飛車を打ち込んでくるような大胆さを装い、真正面からパンナの目をじっと見つめた。
これは酒が入った勢いもある。
仄香は、ここまでにグラスワインを四杯あけているのだ。
(仄香さんが、最初から飲んでたのは、この勢いを作るためか……)
パンナは、そう理解した。
自分では真似できない、大人のやり方だ。
改めて、この交渉における仄香の本気度合いを認識した。
「私ね、アナタのことが大好きなの」
仄香は、直球で挑んできた。
「いきなりですね……」
パンナは受け流そうとするが、受けたボールはアルコールの力も加わった豪速球。
それを、まともに打ち返すなど到底無理な話で、パンナはただ見送る以外、選択肢は無かった。
「ここにいる桃ちゃんもそうだけど、可愛くて、賢い女子が大好きなのよ。私ね、そういう子たちと仲良しになりたい。それが、私の願いなの」
第二球も、容赦ない直球勝負。
隣の玲人とピンクは、こちらの様相など気にも留めずに、楽しそうにおしゃべりを続けている。
状況的に、仄香との一騎討ちは、避けられなくなっていた。
「梨菜ちゃんも、私と仲良しになってね。私がアナタに伝えたいのは、ただそれだけよ」
パンナは唇を一文字に閉じ、小さな顔の割に大きめの黒い瞳で、仄香のアーモンド型の目を見つめ返した。
仄香は、ツー・ナッシングを奪ったピッチャーのような『どや顔』をパンナに向けた。
パンナは、ソファに深く腰を着け、まっすぐに吹き付けてくる豪風に、ひたすら耐えていた。
「梨菜ちゃん」と、休む間もなく仄香は攻撃体制に入った。
「アナタの、これからの行動を当ててみましょうか」
「え?」と、パンナの目が大きく開いた。
「仄香さん、『予測』が使えるようになったんですか?」
仄香は、『予測』が使えない、というのは、アカデミー時代からの認識だった。
仄香は、フンと鼻で笑った。
「そんなモノ、私が使えるわけないでしょう」
「ですよね。私が玲人を連れてきた時に驚かれてましたから」
「アナタには、これから私が何を言おうとしてるのか、ある程度、わかってるんでしょ?」
「いいえ」と、パンナは答えた。
「あら、意外ね」
「必要と判断した時以外は、使わないようにしています。未来は、わずかな『干渉』で変化するおそれがありますから」
「そういうところも賢いわね」
仄香はテーブルの上に両肘をつき、その手の平の上に顎をのせて、少女のようにキラキラした目で、パンナを見つめた。
「『権限』を使わなくたって、アナタのことは、よくわかるのよ。まず、玲人を連れているというところから見ると、アナタの背景には、有利香が存在するわね。私との面会を承諾してくれたのも、有利香の指示に寄るものじゃないかしら」
パンナは、口を噤んだまま、大人しく仄香の話に耳を傾けていた。
「おそらく、アナタは有利香の正体を知らないどころか、会ったこともないと見たわ。やり取りは、全て玲人を介してる。そんな関係でありながら、なぜアナタが有利香を信じ切っているのかは、この際は置いといて、アナタに対して、有利香が指示した内容は、こうじゃないかしら」
仄香の目が鋭く光った。
「私と『交渉』してこい」
パンナは、ニッコリと微笑んだ。
ただ微笑んだだけである。
仄香に対して、何も意見はしなかった。
「さらに言うと、有利香が、私を通して何を求めているのか、それは、アナタ自身もわかってないんじゃないかしら」
仄香は、姿勢を前屈みにして、少しだけパンナに顔を近づけた。
「私から何をいただくべきか」
パンナは、黙ったまま微笑み続けていた。
「でもね、梨菜ちゃんは、何も心配いらないわよ。私の要求は、私と仲良しになってほしいというだけ。私の事業のために協力しろとか、仕事をしろとかを求めたりしない。この桃ちゃんと同じように、一緒にどこかにお出かけしたり、おしゃべりしたり、ときどき落ちこんでるときに励ましてくれたり、ただそれだけでいいの」
仄香は、そこで「はぁぁ」と息を継ぎ、斜め上を見つめた。
パンナは、ひたすら仄香を正面から見つめていた。
「私ね、大きな会社の経営者になっちゃったけど、研究員の一人でもあるの。いろんなことを学んで、考えて、作り出していくんだけど、難題にぶつかったり、悩んだりすることも多いわ。そんな時に、打ち明けたり、相談できたり、喜びを分かち合えるお友だちがいたら、どんなにいいか……私はね、桃ちゃんともだけど、アナタとも仲良しになりたい」
何度も「仲良しになりたい」を繰り返す仄香を見て、パンナは、胸の奥がキュッと締めつけられた。
『走査』を使わなくても、仄香の好意が本物であることはわかる。
これまで、仄香に対して抱いていた敵対心は、あのアカデミーでの、篠原博士と共に逃げてきた一件から植え付けられたものだ。
それは、意図的なものであった可能性も、今では冷静に認識できるようになっていた。
そこで、「はてな?」と、パンナは疑問に思った。
そもそも、敵対関係が、つい最近まで存在していたからこそ、仄香は敵に知られたくない秘密としての行動を取っていたのではないか。
《アナタたちには、もう少しの間、知られたくなかったんだけど》
人道公園の時、仄香が、そう言っていたのを思い出した。
そして、その秘密扱いは、有利香も同様であった、と思われる。
仄香が友好的に接してくるようになった、この状況の変化は、ごく最近に起きたのだ。
それも、有利香の手によって、この状況が作り上げられているのではないか。
だとしたら、有利香が変化させた目的は、何なのだろうか。
「梨菜ちゃんは、何も心配しなくて良いのよ」と、仄香は繰り返した。
よく見ると、目の周りが酒酔いの影響で、桃色に染まっていた。
「酔った席での交渉は」と、パンナが口を開いた。
「当てにならない、と昔のエライ人は言ってましたよ」
「私は正気よ」
仄香は赤い顔をして、きっぱりと言い切った。
「梨菜ちゃん、私と仲良しになってくれたら、私が持ってる秘密を全部教えてあげるわ」
「え?」
パンナは、目を真ん丸にした。
「何度も言ってるでしょ。梨菜ちゃんは、何も心配しなくて良いって。アナタに何もかも教えてあげるから、その中から、有利香が欲しがるものを選んでちょうだい。」
「ええ!」と、パンナは、声を上げた。
「ちょっと……仄香さん、どうしちゃったんですか? やっぱり、酔ってるんじゃ……」
(確かにそうね。こんな展開にするつもりはなかった……)
仄香は思った。
(今日の目的は、ダイちゃんに仕掛けた『封印』に関する情報を入手することだったんだけど、あの時……)
仄香は、レストランの前でパンナを待っていた時のことを思い出す。
(後ろから誰かに手を握られたわ)
(小さな手の平)
(すぐに振り向いたんだけど、誰も見当たらなかった)
(あれからだわ)
(無性に、梨菜ちゃんのことが愛おしくなって……)
「私と仲良しになるのはイヤ?」
仄香は、眉をハの字に落とし、悲しげな顔をした。
「そんなこと……」
パンナは、言葉を詰まらせるが、こう続けた。
「そもそも、私と仄香さんが敵対しなきゃいけない理由を、私自身がわかってませんから……」
「じゃあ、仲良しになってくれるのね」と、仄香は迫った。
パンナは、「私も、仄香さんのことが好きですから」と、小さな声で伝えた。
「アカデミーで、初めて会った時から、キレイな人だなって……ずっと憧れてました。それが、敵対するって状況になって……残念だなって思ってました」
パンナの話を耳にし、にわかに仄香の両目からツーっと涙がこぼれ落ちた。
「嬉しいわ」と、仄香は人差し指で流れた涙を拭き取った。
「桃ちゃんと、梨菜ちゃんが味方についてくれて、私の夢も一歩実現に近づける感じがするわ」
「仄香さんの夢……」と、パンナが興味を示した。
「どんな夢なんですか?」
「仲良し同士ですもんね。もちろん、教えてあげるわよ」
仄香は、瞳を輝かせて、パンナを見つめた。
「永遠に若さを維持できる仕組みを作ること。一言で言えば、『不老不死』ね」
「『不老不死』ですか……」
パンナは、遠い目をした。




