六十四
カフェから外に出て、玲人と別れた後、帰途につこうと、生垣で築かれた四辻に差しかかる手前で、パンナの足が止まった。
「出てきなよ」と、四辻に向かって呼びかけた。
「本当はね、もっと前からキミのことに気づいてたんだけどね」
すると、生垣に身を潜めていたオカショーが、ふわりと現れた。
今の姿といえば、胸に『岡産業株式会社』の刺繍が入った灰緑色のツナギであった。
「『強化』されたそうですね。つまり、以前のあなたとは違うと」
「私は、私だよ。何か用?」
「落ち着いて話をしたいと思って……つまり、真面目な話……」
パンナは、キョトンとした後、フフと笑った。
「何か、おかしいですか? ボクは、真面目に言ってるのに……」
オカショーは、頬を膨らました。
「さっきね、仄香さんとピンクにも誘われたんだよ。落ち着いて話をしようって。キミと同じように、お互い真面目に向き合って」
パンナは口元を緩め、透き通った瞳で、オカショーの顔を見つめた。
オカショーは、両腕に持っていた荷物を一時に取り上げられたような、気の抜けた顔をした。
「あの……どこか、入りませんか? つまり、こんな所で立ち話も何ですから」
オカショーは、ヘソ出しキャミソールとホットパンツという軽装のパンナを気づかった。
陽も西に傾き、冷たい風が首周りに巻きついてきた。
「今まで、カフェにいたんだよ」
パンナは、玲人と一緒にいたカフェを指差し、クスクス笑った。
「そうでしたね……」と、オカショーは肩を落とした。
「でも、また入ってもいいよ」と、パンナが言うと、オカショーは、今度は鼻を指で弾かれたような顔をした。
二人は、カフェのドアを開けた。
ウェイトレスがパンナの再来店に目を大きくした。
「二人です」
パンナは平然と伝えると、ウェイトレスは躓きそうになりながら、テーブルへ案内した。
「さっきのそこでいいです」
パンナは奥の隅のテーブルを指差した。
テーブルは、すでにキレイにされていた。
玲人と向き合った時と同じように、パンナは奥側のソファに体重を預けた。
「私は、ミルクティーとミックスベリータルト」
注文も、まったく同じ。
オカショーは、ホットコーヒーを注文した。
テーブルの上に並んでいるのは、玲人といた時と、何ら変わりはなかった。
「最近は、美園玲人と仲良くしてるみたいですね」
オカショーの嫉妬を含んだ問いかけに、パンナは「何だかね」と、すげなく答えた。
「成り行きかな」
「今も、一緒にいたみたいで」
「うん」
オカショーは、奥歯を噛み締め、拳を固くした。
「熱くなってるね」
パンナは、クスクス笑って面白がった。
「一応、私たちは『元カレ』と『元カノ』の関係ということになるんだろうから」
「あなたときたら、いつだって、ボクをからかってばかりで……」
「ひとつ」
パンナは、オカショーの言葉を遮って、右手の人差し指を目の前に突き立てた。
「今の私は矢吹パンナ。キミの『カノ』は羽蕗梨菜。私の中では、すでに『時代』が違う」
「ちょ……」
オカショーが反論しようとするより早く、パンナは人差し指と中指の二本を立てた。
「ふたつ。『集団無視』のイジメにあってた頃の私には、選択肢が無かった。イジメの原因が、私にあったことも認めるけどね。その時に、私が唯一、しがみつけたのがキミだったわけだけど、勘違いしないでほしいのは、そのことが悪いと言ってるわけじゃないってとこね。悪いのは、キミの兄のオカダイだよ。私は、あの男に言われるまま、されるままになったね。オカダイがした行為の責任を、キミに求めるつもりは無いけど、あの時の女としての最悪の仕打ちを受けたことの大元の原因は、キミにあったということ」
「それは」
オカショーが、たまらず立ち上がった。
パンナは、それを封印するかのように、容赦なく三本目の指を立てた。
「みっつ。キミは、民間企業に身を置く立場。それに対して、私は、司法に身を置く立場。大胆な構図で例えるなら、民衆と役人の関係だよ。決して敵対する関係ではないけど、結託できる関係でもない。お互い、同じ立ち位置じゃないってことは承知してるよね」
「ボクは……」
オカショーは、様々な言い訳じみたキーワードがノドまで上がってきたところで、最後に押し出す力が練り出せず、口を閉じて、下顎を左右に動かす仕草を数回繰り返した後、大人しくソファに腰を落とした。
「と、まあ、この三つが、キミをからかう理由なわけね」
パンナがニンマリと勝ち誇った笑顔を見せた。
オカショーはうなだれ、両ひざの上にのせた拳を小刻みに震わせていた。
「でもね、以前は、キミに対しては敵対心しかなくて、常に噛みついてた感じだったけど、キミが言うところの『強化』がされてからは、感情の荒ぶりが無くなった感じがするね」
オカショーの拳の震えがピタリと止まり、頭を起こして、パンナの顔をじっと見た。
「どういうことですか?」
「何だかね」と、パンナははぐらかすように言った。
「さっき、ピンクから電話があった時も、不思議と突き放す気が起きなかったんだ。つい、この間までは、敵対関係が楽しい、なんて本人に向かって、まともにぶつけてたんだけど、今はそれどころか、あの子に親しみさえ感じるようになったね。ずっと前から、仲の良い友だち同士だったみたいな。心の静寂が維持できるようになったというかね。怒り続けるのに疲れたというわけじゃないけど、何となく許せるようになってきた感じかな」
「では!」と、オカショーは、鼻息を荒くした。
「ボクに対する感情はどうですか? 兄が、あなたにしたことの原因は、確かにボクにもあったと反省してます。言い訳に聞こえるかもしれませんが、あの時のボクは、兄に逆らえない事情があったんです。あの時の、あなたに対する気持ちは本心です。それは、今も変わりはありません。誓って言えますよ」
パンナは、オカショーの顔をまじまじと見つめた。
オカショーは、ゴクリと唾を飲みこんで、その視線を受け止めた。
パンナの大きな漆黒の瞳は奥深く、オカショーがこれまでに溜めこんでいた数々の想いを、いくら投げ入れても、埋め尽くすどころか、底を確かめることすら敵わないように思えた。
「言い訳にしか聞こえないね」
パンナは、はっきりとそう答え、オカショーの高揚していた期待感を粉々に打ち砕いた。
オカショーの肩が大きく落ちた。
「これ見て」
パンナは、キャミソールから剥き出しになっている左肩を指差し、さらに両腕を上げて、頭上で手を組む形で上半身を捻り、つるりとした脇の向こう側にある特徴的な『彫り物』を見せた。
「私の『時代』が変わっても、これは消せなかった。そういう意味では、私は羽蕗梨菜から変われてないってことになるんだけどね」
「つまり、ボクのせい……なんですよね?」
オカショーは、消えそうな声で尋ねた。
「そうだよ」と、パンナは声を強めた。
オカショーは、潤んだ目でパンナを見つめた。
「でも、まあ」と、パンナにいたずらっぽい笑顔が浮かんだ。
「私もキミと同じかな。あの時のオカダイには逆らえなかった。言われるまま、されるままは、私が作り出した状態であったかもしれないね。あの時のオカダイは『鬼』だったからね。この前、思い切り仕返ししてやったし、今はどうでもいいって感じだけど。ある意味、私の人生は、あの時に大きく変わったんだ。それは、キミのおかげとも言えるよ」
「繰り返しますが、ボクの、あなたに対する想いは、今も変わっていません。恐れていた兄の存在は、ボクの中には、もういません。つまり、いろんな立場から、ボクは兄に勝つことができました。今のボクなら、あなたを幸福にできます。つまり、もう一度、やり直すチャンスをいただけますか?」
オカショーは、それだけを言い切ると、パンナに熱い視線を向けた。
パンナは、「ふむ」と頷き、オカショーを少しの間だけ、じっと見つめ返すと、明後日の方角に視線を逸らした。
「キミの想いは、ずっと前からわかってたよ。キミは、真面目で力がある人だからね。きっと、キミと一緒になれば、キミの宣言どおり、私を幸福にしてくれると感じるよ。でもね」
パンナは、そこでトロンとした目をして、口元を緩ませた。
「私ね、もう心に決めてるヒトがいるんだ。だから、キミとは付き合えない」
オカショーの全身が一気にクールダウンした。




