六十二
美園仄香は、社有の乗用車から降り、停車位置がきちんと駐車場区画に収まっていることを確認した。
駐車台数は二十台程度の規模だが、すでに五台の乗用車がまばらに駐車済み。
内、一台は九人乗りのミニバンで、小さな子供を三人連れた大所帯の家族が、騒々しく降車している真っ最中だった。
五十代と思しき男女(夫婦であるかどうかは不明)と、三十歳前後に見える男性が一人、先を行く子供たちを目で追いながら後に続いた。
男性の連れ合いとされる女性の姿は無い。
子供たちの行動に戸惑いが見られないあたり、この場所には、何度か来ているような雰囲気を感じる。
(お母さんに会いに来たのかな)
(どんな事情があるのかはわからないけど)
平日の午後。
今の家族も含め、自分より前に、自分と同じ目的の来訪者たちが、この場所に五組いる。
この二十台規模の駐車場が広いのか狭いのか、自分を含めて六組の来訪者たちが多いのか少ないのか、世界の本質を知るべく情報を自由に入手可能な『権限者』である仄香でも、それは判断できなかった。
『N市拘置所』
建物の入口に掲げてある石彫の重厚な表札を見て、仄香は軽くため息を漏らした。
所内に入ると、十五帖程度の広さの待合室があり、背もたれの無い黒いビニール張りのソファが三列並んでいて、先客たちが思い思いの区画を陣取っていた。
誰かと接触せずに仄香が座れそうな場所は、微妙に見当たらなかった。
仕方がないので、出入り口付近で立って待っていると、紺色の制服を着た年老いた男の係官が仄香に近づいてきて、窓口で番号札を取るように指示してきた。
係官が指差す待合室の奥の角にガラス戸の小さな窓口があり、同じ制服の担当係官が向こう側に座っているのが見えた。
仄香が窓口の前まで行くと、係官は黙って青色のプラスチック製の丸い形の札を仄香に渡した。
札には『6』と掘り込まれ、墨入れがされていた。
「こちらに、あなたのお名前と住所、被告人の名前とあなたとの関係を書いて下さい」
係官にA5サイズの用紙とボールペンを渡され、仄香は記入を始めた。
『関係』のところで手が止まり、ちょっと思案してから『社員』と記入した。
手続きを終えて、待合室の元いた出入り口付近に戻ろうとすると、すぐそばのソファに腰を落ち着けていた高齢の男女(ここでも夫婦という特定はできない)が疎らに空いていた隙間を詰めて、仄香が座れそうな面積を確保してくれた。
仄香は笑顔とお辞儀で、その気づかいに感謝の意を示した。
仄香が空いたソファに腰を下ろして、まもなくして先ほど窓口に行くように指示した係官が、定刻午後一時になったので本日の受付は締め切られたことと、番号札を読み上げた組から入場するよう案内があった。
番号は、当然に『1番』から読み上げられた。
『1番』は、仄香に席を空けてくれた高齢の男女だった。
二人はおもむろに立ち上がり、奥の部屋に入っていった。
三分ほど経過して、次の『2番』が呼ばれた。
『6番』の仄香が呼ばれるのは、もう少し先のようである。
「あんな状態は、今までに見たことがない」
昨日のオカセイとの会話を振り返った。
「生気が無いというか、若さを感じられないというか、とにかく、あの子が今までに見せたことがない表情ですよ。普段のヤンチャな雰囲気は、どこにもありません。いったい、あの子の身に何が起きたのか、まったく見当がつきません」
仄香は、両目を閉じて、オカセイの話に耳を傾けていた。
「将にも検査を頼みました。拘置所に連れていって、ガラス越しに、できるだけの検査を試みましたが、原因を見つけることはできませんでした」
「まさおさんは、ダイちゃんの状態が問題だと感じておられるのですね」
「明らかに問題だと思います」と、オカセイは即答した。
「どんな点が問題だと思いますか?」と、仄香が尋ねた。
「逮捕と拘留されたという状況が起因する、単なる気分の落ち込みかもしれませんよ」
「逮捕と拘留の経験は初めてじゃありません」と、オカセイは反論した。
「不満と怒り。あの子から当たり前のように発せられていた感情が、全く無くなってしまっているのです。長くあの子と接してきて、それは有り得ないことだと思いますよ。まるで、気力を失っているようなんです。それに、あの子を捕らえたのが、『権限者』専門の捜査官だったそうで。何かされてる可能性もあると思います」
(梨菜ちゃん……)
仄香は、唇をキュッと結んだ。
「美園会長、誠にお手数をおかけしますが、あの子に一度会ってくれませんか。会長の目で、あの子の状態を確認してほしいのです。あの子に何があったのか、会長なら、きっと解明できると思います」
「6番のかた」と、係官が呼ぶ声で仄香は立ち上がり、奥のドアの前へと進んだ。
待合室には、仄香以外には、もう誰も残っていなかった。
ドアの向こう側には、空港の搭乗口にあるようなベルトコンベアと金属探知のためのゲートが見え、それらの設備の手前に係官が立っていた。
この金属探知機の存在は、オカセイから聞いていたので、仄香はアクセサリー類は何も身に着けずに来ていた。
ベルトも革製で、バックル部分がプラスチックのモノを着用しており、係官に小さなカゴを用意され、「金属製の小物類はこちらに入れて下さい」と言われた時は、貴重品の入った小型のハンドバッグと腕時計だけを預けた。
これで通過できる自信があったが、金属反応の警告音が、けたたましく鳴り響いた。
「靴だと思います」と、係官が指摘した。
「く……靴ですか?」
仄香が履いていたのは革製の銀色のパンプスで、金属部品が表に見えているようなデザインではない。
係官がビニール製のサンダルを仄香の足元に置いてくれたので、仄香は大人しく従い、パンプスを脱いで、サンダルに履き替えた。
すると、ゲートは静かなままで、通過することができた。
「やっぱり靴でしたね」と、係官が鼻の穴を広げて言った。
仄香は、苦笑した。
次に通されたのが、またもや待合室だった。
出入口にあった部屋より広く、ソファも背もたれ付きの立派なモノが並んでいた。
さらには、部屋の一角に売店があり、菓子や飲料水、新聞に雑誌、文房具などが売られていた。
室内には、先ほど駐車場で見かけた三人の子供連れの家族と思しきグループがおり、相変わらず子供たちのはしゃぎ声で騒々しくしていた。
子供の一人が売店で買ってもらったと思われるチョコ菓子を、封を開けずに大事に持っていた。
『5番』が呼ばれ、家族たちは窓口に向かった。
「これを差し入れに」と、お父さんらしい人が言い、子供が大事に持っていたチョコ菓子を渡した。
係官が現れ、一同を奥に続く通路へ連れていった。
続いて『6番』が呼ばれ、仄香は窓口に向かった。
ハンドバッグから封筒を出し、中に収まっていた書類と入れ物にしていた返信封筒を窓口に差し出した。
書類の見出しは、岡産業株式会社からオカダイに発せられた『同意書』になっていた。
「これを本人に渡したいのですが」
「差し入れですね」
係官にそう言われて違和感があったが、差し入れとして申し入れた。
係官に誘導され、薄暗い通路を奥に進むと、とあるドアの前で係官が立ち止まり、中に入るよう手招きした。
仄香は係官に頭を下げて、入室した。
部屋の中は、灰色のカウンターの前に折り畳み椅子が三脚あり、カウンター上のアクリルガラス越しに、向かい側にも同じくらいの広さの空間が見えた。
仄香は、真ん中の椅子に腰掛け、ブラウスの襟元が乱れていないか指先で探った。
今日は、地味なグレーのスーツを装ってきた。
ブラウスも純白で、タックなども一切入っていないシンプルなものだった。
係官が、カウンターの上に千円札くらいの大きさのデジタルタイマーを置いた。
「面会時間は十五分です」
表示画面が『15:00』となっており、カウントダウンは、すでに始まっていた。
まもなくして、向かい側の奥のドアが開き、ゆっくりした動作でオカダイが入室してきた。
普段は、無造作に伸ばしたままにしている長い髪を、今は後ろでキレイに纏め、病的な乳白色をしていた肌も赤みを帯び、いつもには見られない健康的な雰囲気を漂わせていた。
目は半分瞼が閉じたような感じで、歩き方も若さが見られず、指先を動かすのも億劫そうにしながら、仄香の正面にスッと音も無く着席した。
その手には、さっき『差し入れ』として渡した封筒を持っていた。
「いつもの元気は無いわね」と、仄香が話しかけるが、オカダイは、表情をピクリとも変えなかった。
仄香は自らのブラウスの一番上のボタンを外し、立ち上がって、前屈みになった。
すると、ブラウスの襟がハラリと左右に広がり、豊かな胸の谷間が露になった。
オカダイの視線が、抜け目なく仄香の胸元に向けられた。
仄香は、ニンマリと微笑んだ。
「相変わらずね、ダイちゃん。安心したわ」
「何しに来たの……オバさん」
オカダイは、抑揚のない口調で言った。
視線は、まだ仄香の胸元に向けられたままだった。
「アナタのお父様に頼まれたのよ」
仄香は、ブラウスのボタンはそのままで着席するが、開いた襟が戻り、谷間は見えなくなった。
オカダイの視線が、仄香の顔に向いた。
「落ち込みがヒドいから、梨菜ちゃんに何かされたんじゃないかってね。それを調べに来たの」
「あれから、普通になってるの。確かに何かされてるわ」
「普通?」
「何もできなくなってるのよ」
オカダイは、仄香から目を逸らし、下唇を噛み締めた。
「封筒から紙を出して」と、仄香は指示した。
オカダイは、大人しく言われたとおりにし、中に入っていた文書を表向きにした。
「書かれてあることは何も気にしないで。ただ、それを触っているだけでいいわ」
「何これ?」
「新開発の『炭素触媒』が織り込んであるの。ダイちゃんなら、この意味わかるわよね」
「ああ」
オカダイは頷き、紙の上に両手をのせた。
「アナタの状態を調べるだけなら、この位置からの『走査』でもわかるけど、アナタに何をされているのかを知るには、アナタに直接触れるしかないわ。今は、それができないから、後でその紙を私宛に送ってね。ちょっと、そのままじっとしてて」
仄香は、『走査』と『記録』を同時に発動させた。
アーモンド型の瞳には、緑色のターゲット・スコープと赤色の四角形が浮かび上がっていた。
オカダイは、従順に仄香の瞳を見つめ返した。
タイマーが残り五分を示したあたりで、仄香はフウと息を吐いた。
「完璧に『封印』されてるわね。『天然の権限者』に対して、こんなの初めて見たわ」
「治るの?」
オカダイが尋ねた。
あまり、期待はしていない様子。
「やはり、アナタから直に情報を得るしかなさそうね。どんなプロセスで『封印』されたかを知る必要があるわ」
「どれくらいで、出られるんだろう」
オカダイが肩を落とした。
「私、もう犯罪者なのよね……岡産業からも切り離され、これからの私の人生どうなるんだろ……」
オカダイの両目から、大粒の涙がこぼれた。
「珍しく、自分がしたことを後悔してるのね。雰囲気も、すっかり犯罪者だわ」
仄香は、オカダイの落ち込んでいる姿を見て、肩をすくめた。
「こういう所に閉じこめられると、さすがにダイちゃんも落ちこむみたいね。いつもの強気なダイちゃんは、どこに行ったの?」
「自由を奪われ、『権限』を奪われ、強気になれる要素なんて何も無いじゃない」
「アナタの人生は、まだ終わってないわ」
仄香は瞳を輝かせて、オカダイを見つめた。
「私を励ましてくれてるの? 意外ね。オバさんは、私のことをキラってるのかと思ってた」
「キライよ。励ますつもりなんか、まったく無いわ」と、仄香は即答した。
「私の興味はね、梨菜ちゃんがアナタに何をしたかよ。アナタの身体を精密に調べて、解明したいわ。だから、アナタがなるべく早く出所できるよう、最大限の努力をするつもり。そうしたら、アナタは研究員として、私の事業を手伝うのよ」
「まったく……」と、オカダイは舌を鳴らした。
「いつだって、会社第一なのね」
「そりゃ、そうでしょ」と、仄香はふんぞり返った。
軟弱な折り畳み椅子が、キイッと悲鳴を上げた。
「それが経営者ってモンよ」
タイマーは、残り一分を切っていた。




