六十一
「突然、消えた」
二人は、部屋の隅々まで見渡すが、パンナの姿はどこにも見当たらなかった。
「いや」と、オカダイは立ち止まった。
「突然、消えたと今言ったけど、そもそもあの子は突然、現れたのよ。透明になれるカーテンがそこにあって、それを開けたみたいに、いきなりあの子が、目の前に立っていたの」
「じゃあ、また透明になるカーテンを引かれちゃったんだ……」
森脇は、ガックリと肩を落とした。
「矢吹さんとチューできると思ったのに……」
オカダイは、鼻をフンと鳴らした。
「私たちを逮捕しに来たのなら、ここで放置していなくなったりしないでしょう。矢吹嬢は、いなくなったんじゃなく、私たちに見えなくなったのよ」
「ボクたちに見えなくなったって……じゃあ、どこかに隠れたんだ」
「あの大きな女子が隠れる場所なんて、こんな狭い部屋に無いわよ。何か秘密がある。アナタ、油断したらダメよ」
オカダイは周囲を見回しながら、ゆっくりと背後の壁に向かって後退した。
壁に背を着ければ、背後を取られることはない、そう思っていたのだが、あと三十センチくらいまで近づいたところで、両肩に何やら柔らかいモノが当たったように感じた。
オカダイの胸が大きく波動した。
(この感触は……)
オカダイが思考を巡らそうとしたところへ、今度は右手首を強く掴まれた感じで、強引に真上に引き上げられた。
そして、何も無いと思っていた背後にパンナの姿が現れた。
オカダイは、ゆっくりと後ろを振り向いた。
細い目をして、オカダイを見下げるパンナと視線が合った。
パンナは、さらに左腕をオカダイの首元に回し、きつく引き寄せて、彼の両肩に当たっていた豊かな両胸を一ミリの隙間もなく密着させた。
「いつの間に、そこに……」
「キミがさっき言ってたとおり、キミに私の姿が見えなくなってたんだよ。キミの視覚情報を、私が修正したからね」
「そんなことが……」
オカダイに話す時間を与えず、パンナはすぐさまに「封印」と詠唱した。
「アナタ、いったい何を……」
パンナの一文字に閉じていた口元がつり上がった。
「火花」
オカダイの全身が白く光り、バチンと激しい破裂音が響いた。
オカダイは白目を剥き、口をだらしなく開けたままにしていた。
パンナが首に回していた腕と、掴んでいた右手首を解放すると、オカダイの体は、骨を抜かれたように床の上に流れ出した。
「逮捕完了だね」と、パンナは、満足そうに笑った。
「ダイちゃん!」
森脇は、泣きそうな悲鳴を上げた。
パンナの視線が、今度は森脇を捉えた。
森脇は、とっさに両脇を締めて、警戒した。
またもや、パンナの姿が視界から消えた。
「ボクは、抵抗したりしないよ」
森脇は誰の姿も見えない空間に声を投げた。
「キミの方がずっと強い。そんなことはわかってるじゃないか。ボクは、大人しくキミに従うよ。だから、乱暴なことは……」
静まり返る部屋の中。
森脇は、息を飲みこんだ。
背後からカサッと小さなモノを蹴ったような音がした。
思わず、そちらを振り向いた。
ふいに、両頬を手の平で押さえこまれるような感触に見舞われた。
森脇の両目が大きく開いた。
そして、口の辺りがフワッとした柔らかいものに包まれ、やがてネットリとした湿り気を帯びた感触に変わった。
(この感触は……)
視界にパンナの顔が入ってきた。
パンナは、森脇の唇に自らの唇を押し当てて、激しく吸い上げるような濃厚なチューをしていた。
うそー!
パンナは、さらに長い両腕を森脇の背中に回し、体を密着させた。
森脇は身動きが取れず、されるがままにパンナのチューを受け入れた。
(し……幸せすぎ……)
その硬直はしばらく続き、やがて、パンナの方から森脇を引き離した。
森脇は、なおも継続しようとパンナの方に顔を近づけた。
パンナは苦笑した。
「キミは、もう帰っていいよ」
パンナの味気ない言葉を耳にし、森脇は拍子抜けした。
「ボクを逮捕するんじゃ……」
「最初は、そのつもりだったんだけどね、オカダイって大きな魚が釣れたんで、キミはもういいよ。元々、この捜査目的はオカダイを釣り上げることだったんでね。キミは、このまま帰って、キミの人生設計の続きを進めれば良いんじゃないかな。でも、今度、あやしい行動を見かけたら、容赦しないからね」
「矢吹さん……」
森脇は口元を引き締め、両拳を硬く握り締めた。
「ありがとう」と、森脇の両目が潤んだ。
「こわかった……でも、矢吹さんが許してくれるって言うんなら、ボクはきちんと更正して、ボクが目指してた将来の目的に向かって頑張るよ。矢吹さんの優しさに恥じない男になってみせる」
森脇の決意を聞き、パンナは大きく頷いた。
「頑張ってね。もし、キミが言う立派な男になれた時は、ご褒美に、またチューしてあげるよ」
「頑張るよ!」
森脇の両目に炎が上がった。
「きっと立派な男になってみせる。矢吹さんとチューするのにふさわしい男に!」
「そろそろ、ここを出ていった方が良いよ」
パンナは、視線を出口のドアの方に向けた。
「警察関係のコワイヒトたちが大勢ここに来るからね。私が要請した逮捕予定にキミは入れてないんだ。話がややこしくなる前に早く」
「ありがとう」
森脇は、そそくさと着替えをして、部屋を出ていった。
「結局、帰しちゃいましたね」
部屋の隅からレナが忽然と現れ、森脇が出ていったドアの方を向いて言った。
パンナが施した視覚情報の修正によって、彼女の姿も一同から見えなくなっていたのだった。
レナは、騒動の間にちゃっかりと着替えを済ませ、いつでも外に出られる姿だった。
「まぁ、解決したと思ったからね」
パンナは首を横に振って、頸椎をコキコキと小気味良く鳴らしながら、そう答えた。
「レナのお手柄だよ」
「そんなことありませんよ。私は、会長の指示に従っただけです」と言いながら、レナは肩の震えを止めようと、両腕に力を入れた。
「でも、岡先輩が会長に向けて発砲した時は、さすがに悲鳴を上げちゃいました」
「それは想定していたからね。私がオカダイたちに聞こえないように情報操作してたから大丈夫」
「それは、わかってますけど……」
レナは、まだ震えを止められずにいた。
「怖かったです……会長が死んじゃうと思って……」
レナの両目からたくさんの涙が流れ落ちた。パンナの眉が下がった。
「ごめん。レナには心配かけたね」
「無事で良かった……」
レナは涙を手で拭い、笑顔を見せた。
「森脇さんのサービス事業もこれで終わりですね」
「元々、気が小さくて、真面目なヒトだよね。これで、本当に真面目になってくれると良いんだけと」
「絶対、大丈夫ですよ。会長とのチューがかかってるんですから」
「そんなのが、いつまで持つかな」
「あまり自覚してないみたいですが、会長の影響力ってスゴイんですよ。森脇さんは、かならず立派な人になって、会長の前に現れますよ。ご褒美のチューをもらいに」
「何かコワイね、そういうのって」と、パンナは肩をすくめた。
「私は、個人的には、森脇さんとのワークをもう一度、経験したかったです」
レナは、ため息まじりに言った。
「あれ?」と、パンナが意外そうに目を大きくした。
「気に入ってたんだ」
「とても……」
レナは、体験した場面を思い出し、うっとりした顔をした。
「もう無くなってしまうのが残念です」
「悪い子だね」と、パンナが声を張り上げた。
「きゃはあ、テヘペロですわん」
レナはミキミキの真似でおどけ、ペロリと舌を出した。
パンナに、笑顔が戻った。




