五十八
森脇恭二は熱めのシャワーを浴び、ホカホカの体にガウンを羽織って部屋に入り、窓際のソファでタバコを燻らしている男に向かって、「ご機嫌ななめだね」と声を掛けた。
ボサボサに長く伸ばしている黒髪。
細長いバナナのような面持ち。
コケた頬。
紫帯びた薄い唇。
直角三角形の尖った鼻。
茶色いリング状になったクマのできたキツネのような目。
そして……
「私、今、ムカついてるのよ」
この『おネエ』なしゃべり方。
『オカダイ』こと岡大は、池部山の騒動から二日間寝込んで、ようやく外出できるまで回復したところであった。
そして、真っ先に向かったのが、女子の出入りの多い森脇の部室だった。
その後は、森脇の『サービス事業』に付き合わされる流れで、ホテルの一室に待機していた。
オカダイは、『おネエ言葉』を愛用しているが、決して同性愛者とかではなく、性的指向は女子とのエッチが好きな男子であった。
「あのオバさんが来てから、面白くないことばかり……もう、目が死んだかと思ったわよ」
瞬きもできない麻痺状態で、大量の砂埃が目の中に入りこんできた時の状況を再び思い浮かべ、オカダイは何度も身震いした。
「美園会長か……」
森脇は、仄香の容姿を想像し、ニンマリと微笑んだ。
「ボクは好みのタイプだよ。熟女のはずだけど、年齢を感じさせない魅惑的な体形と肌の張り。あの美貌は、文句なしのAランクだね」
「まぁ、性的な対象にできるなら、上玉だけどね……」
オカダイも、その点は認めた。
「そんなこと有り得ないわね。あのオバさん、私のこと人間扱いしてないわ」
「でも、岡産業は急成長してるって話」と、森脇が盛り上げようとする。
「ダイちゃん、会社の株を持ってるって言ってたよね。実入りも良くなってそうじゃない」
「ふん」と、オカダイは口を『へ』の字に曲げた。
「そうでもないのよ。あのオバさんに、まんまとハメられたのよ」
「え、ハメられた?」
森脇は、経営のことがわかるわけではないが、そこは雰囲気を読んで、相槌を打った。
「株式公開された時に、売って儲けるとか言ってたじゃない」
「公開の話は無くなったわ」と、オカダイは、下唇を噛んだ。
「事業提供物の性質上、そんなに情報をオープンにしたくないっていうのと、第三者の投資家に経営介入されるリスクを負いたくないっていうのと、資金調達も必要が無いっていう理由から、会長判断で立ち消えになったのよ。じゃあ、持ってたって意味無いわって思ってたら、オバさんが買い取ってあげるって話を持ちかけてきたの」
「へぇ。株、いくつ持ってたの?」
「二万株」
「いくらで買い取るって言われたの?」
「一株千円よ」
「じゃあ、えっと……二千万円! スゴイじゃない!」
「公開を想定して試算してたんだけど、一株五百円くらいを見こんでたから、良い話だと思っちゃうじゃない」
「思う思う」
森脇は、興奮気味に頷いた。
「で、ダイちゃんは売ったんだよね」
「売ったわよ。オバさん、二千万円を即金で払ってくれたわ」
「良かったじゃん」
「非常勤だったけど、私の役職も解任されてね。退職金で、さらに一千万円貰ったわよ」
「合わせて、三千万円か……良いことずくめじゃない。でも、さっき何で怒ってたの?」
「ふうぅぅ」と、オカダイは大きなため息を漏らした。
「今年の役員たちの報酬明細を見たのよ。みんな、スゴイ金額だった。ああ、腹が立つわ。オバさんが連れてきた松川っていうオバさんなんか、一億超えてるのよ。将だって、三千四百万だったわ。まだ高校生のくせに、年収で私の手切れ金超えちゃっててさ……私、整理されちゃったのよね。親族でありながら、私は岡産業とは何の関係もない人間になってしまったわ。まぁ、元々、会社のことなんか何もしてなかったけどね」
「じゃあ、これからどうするの?」
「どうもこうも無いわよ。私は、私の好きなことをするだけ。資金は充分にあるし、この地域周辺は、矢吹嬢の手が回って不能状態になっちゃってるから、他の土地に行って、『FA』のサービス事業を再開させるわ。私も、あのオバさんに負けないくらいの事業を展開してみせる。どう? 前向きでしょ」
「うまくいくと良いね」と、森脇はオカダイを励ますように笑顔を見せた。
「アンタも手伝いなさいよ」と、オカダイは森脇を横目で見た。
「え? ボクは無理だよ。親元で暮らしてるから、この街から出るわけにはいかないし」
「そうだ。ピンクちゃんも呼ぼうっと」
オカダイは、森脇の拒否など気にもせずに話を続けた。
「あの子、事務処理能力が割と高いのよね。計算とかも早かったし。前に『FA』の販売記録とかやらせてたけど、誰がどのレベルだとか、クリアしたとか、完璧に把握してたのよ。取りっぱぐれも全然無かったし。ピンクちゃんも、一緒に連れていこうっと」
「残念だけど」
森脇は言いにくそうにしながらも、オカダイの思案の最中に割りこんできた。
「ピンクなら、岡産業に入社したって話だよ」
「何ですって?」
オカダイは鋭い目つきで、森脇を睨みつけた。
森脇は、オカダイの恐ろしげな形相を見て、後退した。
「美園会長に気に入られたみたいで、入社が決まったらしいよ。会長秘書になるって言ってた」
「またしても、あのオバさん!」
オカダイは、激しく歯軋りをし、硬い握り拳でそばにあったテーブルを叩いた。
載っていた灰皿が飛び上がり、白い灰が床にこぼれた。
「どこまでも、私のジャマをするつもりなのね。ムカつくわ!」
美園会長はダイちゃんの野心なんて知らないよ、と森脇は心の中でツッコミを入れるが、理性的な思考が働いていない今のオカダイにそんなことを言えば怒りが飛び火すると思い、心の中にしまいこんだままにした。
「まぁまぁ、ダイちゃん。ここで怒りを爆発させても仕方がないよ」
森脇に宥められて、オカダイはしばらくして落ち着きを取り戻した。
「まぁ、ピンクちゃんのことは諦めるわ。秘書は、アナタがやれば良いんだから」
「いや、ボクは……その……」
「世界市場まで視野に入れて、私の名をビッグにしてやるのよ」
オカダイは自分の考えに夢中で、森脇が拒否したい声など耳に入らなかった。
「今は、じっくりと計画を練る時ね。頑張らなくっちゃ」
「ダイちゃん、ボクは……別に……」
「そう言えばさ」と、オカダイは一方的に、森脇の言葉を遮った。
「アナタ、部屋に女子連れてきてたでしょ」
「え? そこ……」
森脇は、戸惑いを見せた。
「まだ部屋にいると思うよ」
「可愛い子?」と、オカダイは、上唇を右から左へと舐めた。
「最初はBランクを付けてたんだけど、着痩せするタイプだったみたいで、体つきが思ったよりもスゴくて、あれはAランクに修正しなきゃね」
女子の評価となると、ついつい力が入ってしまう森脇は、熱心に自らの評価を伝えた。
オカダイの目に、燃え上がる炎が写った。
「私にも回しなさい」
「ダイちゃん!」
森脇はハッとするが、もはや燃え始めたオカダイを止められる状態ではないことを瞬時に察した。
オカダイは、駆け足で隣の寝室のドアの前まで行き、力強くドアを押し開けた。
薄暗い寝室は、ムッとするような熱気と湿気が満たされていたが、中央に存在感を示しているベッドは、もぬけの殻となっていた。
「女子がいないわ」と、オカダイが言った。
「え?」
森脇も続いて寝室に入り、壁にある電灯のスイッチを入れた。
部屋を明るくしても、いるはずの女子は部屋のどこにも見当たらなかった。
奥にはバスルームへのドアがあるが、大きく開け放たれ、室内灯も点けっぱなしになっていた。
誰かが、潜んでいる気配も無かった。
だが、その時、オカダイのこめかみ付近の血管が、ピクリと跳ね上がった。
「この妙な感じ……何だかわからないけど気配を感じるわ。キョーちゃん、今日の相手は誰だったの?」
「えっと……汐見レナって二年の女子だよ」
「汐見……って、その女子は矢吹嬢の側近じゃなかったかしら」
「こんな子」
森脇は携帯を広げて、オカダイに写真を見せた。
「見たことがあるわ。アナタ、矢吹嬢の囮に引っかかったかもしれないわよ」
「そんな!」と、森脇の顔が青ざめた。
「ボクは、そういうことは、ちゃんと調べて……」
「ちゃんと調べてたんなら、まず手は出さないタイプよ」
オカダイは、ジャケットの内ポケットから『筆』を取り出し、すぐさま『光弾』を練り始めた。
「ダイちゃん! この部屋はボクの名前で借りてるんだ。部屋を荒らしたら、ボクが捕まっちゃうよ」
「矢吹嬢に捕まるのと、どっちが良いかしらね」
「そんな……ここで変なキズが付いたら、ボクの未来は……」
森脇は、頭を抱えて、泣き始めた。
「バカね。アナタ、違法だとわかってて、やってたんじゃないの? 何を今さら」
「やれやれだね」と、女子の声。
オカダイは、思わず息を飲んだ。
まるで、カーテンを開けたように、何も存在していなかった室内に、突然、矢吹パンナの姿が現れた。




