五十七
浦崎警部は、壁掛時計の秒針の動きに合わせて、革靴の爪先をコツコツと床に打ちつけた。
警察本部の小さな面会室に取り残されて、二十分ほどが過ぎていた。
机を挟んだ向かいの椅子は、その二十分前の使用者が粗雑に立ち上がり、退室した時に斜めに向いたままの形跡を残し、机上には開封されたチーズ風味のスナック菓子と気の抜けたペットボトル入りの炭酸飲料がフタを開けたままにされている。
炭酸飲料については、使用者が『気抜け』の状態を好んで、あえてこの状態にしていることはわかっているので、わざわざフタをしてあげる配慮は必要なかった。
今回の面談は、警部の側から申し入れたものであるが、時間指定をしたのは水野警視監の方だった。
警部は、警視監公務によって多忙である状況を想定し、途中退室もやむを得ずと容認していたが、始まって一分も経たない内に出ていかれてしまった。
さてと……待ち時間は、まだ続きそうである。
警部は、壁掛時計から視線を外し、爪先の動きを止めて、今の状況について、もう一度、頭の中で整理してみた。
今回の面談の目的は、あらゆる不条理な事態が自らに流れこんでいる中でも、警部自身が最も不可思議に感じている疑問の答えを、ここで引き出すことができるかどうか、である。
警部は、一つの結論に行き着こうとしている。
その確信を得るには、水野による情報提供が必要だが、必要な情報が得られるかどうかは、おそらくは『計画』しだいと思われる。
計画……?
いつから、そういうふうに考えるようになったのだろうか。
これも、不条理を感じさせる一面だ。
きっかけは、やはり、あの時からだろうか。
あの出版社に行った帰りに通った混雑した駅前通りで、いきなり誰かに手を握られた。
あの瞬間から、変化が起きたと思う。
例えば、何か思案した時に、考えがまとまるようになった。
一口で言えば、賢くなったということになるが、考えの元となる材料が、なぜか得られるようになった気がするのだ。
材料……?
情報のことか?
だとしたら、その源泉は何なのか?
「お待たせしました」と、水野が現れた。
「しばらくの間、ボクに対する用件は保留にするように言いつけました。ゆっくり話を伺えます」
水野は、放置されていたペットボトル飲料の口の辺りを捻る動作をして、フタが開けっ放しになっていたことに今頃気づき、おどけ気味の笑顔を見せた。
「いろいろと報告がありますが、確認したいこともあります」と、警部は語り始めた。
「まず、『FA』の現在の流通状況については、ほぼ終息しています。矢吹捜査官の努力が実ったのでしょう。最近はカードではなく、画像データによるやり取りに変わっていたようですが、首謀者の興味が薄れたのか、はたまた首謀者の身に何か非常事態が発生したのか、流通はほとんどされていないようです。これで万事解決と思いたいのですが、年少の特殊捜査官を学業に専念させられない事態が、まだ続きそうなのが嘆かわしいところです」
「確かにそうですね」と、水野は苦笑した。
「それから、由衣結香の件で出版社に行って、聞き取り調査をしましたよ」
「何かわかりましたか?」
「編集担当者も、原稿のやり取りはメールで行っていたので、本人に会ったことが無いそうです。ただ、原稿料の支払いで本人名義の銀行口座へ振り込む手続きの関係で、本名はわかっています。本名は羽蕗梨菜。作品に登場するヒロインと同じ名前です。この正体については確定していませんが、対象は特定できたと思っています」
水野は、気の抜けた飲料水をクイッと口に含んだ。
「浦崎さんは、誰だと思ってますか?」
「もちろん、矢吹パンナですよ。私の姪ということにされている少女です」
「確信をお持ちですね。『ということにされている』なんて表現も、さらに含みがありそうだ」
「その表現の本質は『事実とは異なる』という意味です。もちろん、あなたにはそう伝わった、と思ってますがね」
「ふむ」と言って、水野は飲料水を口に含み、目を閉じて、地蔵のように黙りこんだ。
警部も、水野の沈黙に合わせて、口の動きを止めた。
「あっ……と」と、ややあって、水野が口を開いた。
「ボクは口を挟みませんから、浦崎さんは話を続けて下さい」
「そもそも」と、警部は口の動きを再開した。
「事の始まりは、岡田美夕の自殺事件からです。あの事件がきっかけで、私は『手引き書』とも言える文書を手に入れ、矢吹パンナとの出会いもそこから始まったのです。私は、彼女に導かれるままに、今のこの事態を知るために必要な知識を習得してきました。それは、ある意味、『計画的』であったと言えます」
水野は何も語らず、口を噤んだまま、従順に警部の話に耳を傾けていた。
「まぁ、羽蕗梨菜が矢吹パンナであろうとなかろうと、これだけは確実に言えます。それは、羽蕗梨菜が作った『手引き書』が、私に変化をもたらすきっかけとなったということです。そして、それを導いているのは、矢吹パンナであるということも」
水野は、なおも黙ったままで、口を挟もうとする気配は全く無かった。
「私は、考え抜いて、ある結論に行き着こうとしています。そのためには、もう少し情報が必要です。それを教えていただきたいのですが」
「んー」と、水野が唸った。
「困ったな。どうも、あなたの状態が、ボクが想定していたのと違うんですよね。ボクも一つ質問して良いですか?」
警部は、首を縦に振った。
「最近、あなたの身に、何か変わったことが起きませんでしたか?」
その質問に対して、警部が真っ先に想像したのが、出版社からの帰りの出来事であった。
「誰かに手を握られました……」と、警部は素直に答えた。
水野の眉間にシワが寄った。
「誰かは、わからないのですね。確かに、それは変わった出来事です」
「大した意味は無いのかもしれませんが……」
「いや、普通じゃないですよ」と、水野は割と関心を示した。
「誰だかわからない人に、意味も無く、いきなり手を握られたなんて経験は、誰もしたことが無いと思いますよ。普通だったら有り得ないことです。その後に、何か変化を感じているのでは?」
「はい……まさしく……」
警部は、うろたえ気味に返答した。
「ふむ」と、水野は頷き、思案に耽り始めた。
「あの……私の方がお尋ねしてもよろしいですか?」と、警部は水野の耳に吹き込むように話しかけた。
「どうぞ」と、水野はすげなく応じる。
「それでは、私が行き着こうとしている結論について、お話ししましょう。私は、そもそも浦崎芳隆という存在ではない、ということ。警部という立場を作り上げるため、その周囲についても意図的に作り上げられた状況が存在する。これが、水野さんに対する私の質問です。『はい』か『いいえ』で答えていただけますか?」
水野は、警部の質問を耳にしても動揺する様子を見せなかったが、唾をゴクリと飲みこむ音だけを、辺りに響かせた。
「『はい』か『いいえ』で答えれば良いのですね」
水野の問いに、警部は無言で頷いた。
「ボクの答えは『いいえ』です」
「ボクの……?」と、警部は首を傾げた。
「それは、水野さんの解釈では『いいえ』という答えになるが、人によっては異なる解釈にもなり得る、という意味ですか?」
「ははは」と、水野は声を立てて笑った。
「『ボクの』から、そこまで展開できるとは、浦崎さん、やはり刑事向きなのでは」
「そんな言われ方をされると、やはり私の『本分』は刑事ではない人間であるという確信に繋がってしまうのですが」
水野は、「失礼しました」といって、笑いを止めた。
「ボクが『いいえ』と答えたのは、ウソではありませんよ。浦崎さんは、浦崎さんであり、他の何者でもありません。これは事実です」
「では、私の『本分』についても、私が浦崎芳隆であるため、刑事であるということで良いのですね」
「そのとおりです。でも……」
「でも?」と、警部が鋭く反応した。
「うまく説明できませんが、今の浦崎さんには、かつて『本分』とされていた要素に、さらに追加された要素があります」
警部は、水野の説明に対して、その意味を時間をかけて咀嚼し、意図するものが何であるかを探り出そうと試みたが、「説明がうまくできてませんね」と、伝えた。
「私は浦崎警部であるが、それ以外の何かを私が持っている、ということですか?」
「ボクは、浦崎さんの構造上の本質を知らされていません。でも、これまでには無かった何かが追加されているのは、わかります」
水野は言葉を選びながら、そう答えた。
警部は、さらに消化しにくそうな顔をした。
「やはり、私の『本分』は、かつて浦崎芳隆が持っていたものとは違うのですよね」
「ボクは、ウソはついていません。あなたは、間違いなく浦崎警部ですよ」
「追加された要素とは、何のことですか? それが、私にあると言われるのなら、私と浦崎芳隆は等しいものではなくなるのでは」
「ああ、困った。うまく伝えられない」と、水野は両手を挙げた。
「『計画』には、あなたに対して、秘密にしろ、という事項はありませんから、ボクが知っている限りのことは教えますよ」
「計画……」と、警部は呟いた。
「『計画』が存在するのですよね?」
「存在します」と、水野は答えた。
「何の『計画』ですか?」
「当然に、その質問が出てきますよね」
水野は気の抜けた炭酸飲料を口いっぱいに流し込み、即座に飲みこんだ。
「ボクが『計画』について知っていることは、ボクの役割の部分だけです。ボクの役割は、あなたと矢吹さんを、指示があるまで守れということです」
「『計画』の目的は?」と、警部。
「知らされていません」
「目的も知らずに、使命感が働きますか?」
「目的を知らされていないのは、『計画』としての欠陥ではなく、手法であると認識しています。秘密とされていることに、当然に理由があるのでしょう」
「守るとは、いったい何から?」
「別に、あなたを狙う殺人鬼が存在するわけではありません。情報セキュリティーの側面からの保護です」
「情報?」
警部は、またもや首を傾げた。
「私とあの子が、何か重要な情報を持っているのですか?」
「情報の本質とされるモノが何であるかは知らされていません」
「私自身が何かを知っているとは思えないのですが、体内のどこかに何か隠されているとか、ですか?」
「構造から得られる情報というモノもあります」
「『権限者』であるパンナのことを言っているのなら納得できますが、私も対象になっている点が謎ですね」
「……」
水野からは、それに対して返答がなかった。
知らされていないということなのだろう、と警部は理解した。
「今の話からだと、やはり私は私に関する秘密保持のため、浦崎芳隆という人物に扮しているということになるのでは」
「浦崎警部という人は実在しています。ボクたちが、あなたに割り当てた想像上の人物ではありません」
警部は、目を閉じて、今の水野の説明を受け入れた。
「構造から得られる情報と言われましたけど、もしかして、『本分』は浦崎芳隆という人物の方で、私の『意志』が入り込んでいるこの状態の方が、カムフラージュなのではないでしょうか」
「面白いなあ」と、水野は軽快に笑った。
「あなたは、端から、自身が浦崎警部であることを否定していますね」
「私の今の状況から見て、最も可能性のある仮説だと思っていますよ。でも、まあ、浦崎芳隆は実在する……そこは、良いとしましょう。問題は、それが私の『本分』が収まるべきモノなのかどうかです」
「ふむ」と、水野は頷いた。
「その部分が追加要素ですね」
「は?」と、警部が眉を上げた。
「『計画』には、浦崎さんがそのような疑問を持つであろう想定が無いのです。『計画』を司る者が、浦崎さんに対して意図的に追加したようです。さっき、いきなり手を握られたっておっしゃってましたが、おそらくは、その時に」
「『計画』を司る者? 誰ですか、それは?」
「ボクは知らされていません。手を握られた時に、特徴か何か確認できませんでしたか?」
警部は、顎に手を当てた。
「人混みの中で、いきなり握られましたからね。特徴といえば、手が割と小さかったと感じたくらいで……心当たりを探ろうとしても、そもそも、私にはそんなにたくさんの人の記憶がありませんし……」
警部の心に、何やら瞬間的に輝く光が灯された。
「記憶……そうか、記憶だ。今、改めて思ったが、私は記憶にある人物たちに会ったことがないぞ。パンナ以外は、誰にも会っていない。私の妻である実佐子や、妹であり、あの子の母親でもある芳美、顔も名前もわかっているのに」
「……」
水野は、警部の様子を興味津々と眺めていた。




