五十六
「こちらが」と言って、仄香はピンクの方に右手を翳した。
「私の秘書を務めていただくことになった、蛭沢桃さんです。十七歳。現役の高校生です。桃ちゃん、皆さんに挨拶して」
仄香の手引きで、「ロ」の字型テーブルレイアウトの中心にピンクは立った。
ピンクは、肩に力が入っていたが、精一杯の丁寧さを込めてお辞儀をし、頭を起こして、目の前の紳士淑女たちを見渡した。
この場には、失敗を期待して意地悪そうな目をしている者はおらず、全員が姿勢を正して、真剣にピンクの第一声に注目していた。
その真面目な雰囲気が、ピンクには余計に重圧を感じさせた。
「蛭沢 桃です……」
勇気を絞って、第一声を発した。
すると、次に必要な勇気が胸の内から練り出されてくるような気がした。
「まだ何も知りませんし、何もできません。でも、頑張って勉強して、早く美園会長を助けられるくらいに力を付けたいです。どうか皆さん、色々と教えて下さい。よろしくお願いします」
ピンクは、最後にもう一度お辞儀をして、簡単な挨拶を終えた。
隣に座っていた紳士が大きな拍手をし、「素晴らしいスピーチだ」と絶賛した。
連鎖的に他の紳士淑女たちも、大きな拍手をピンクに贈った。
「桃ちゃん、ウチに来てくれて、ありがとう」
スピーチを褒めてくれた隣の紳士が、親しげにピンクに話しかけてきた。
「ショーちゃ……将さんのお父さま……」と、ピンクは言い、紳士の顔をじっと見つめた。
岡政夫、通称『オカセイ』。
仄香が代表就任する以前に、代表を務めていた男である。
ピンクに見つめられ、オカセイは、満面に笑顔を浮かべた。
「職位は『社長』のままだがね、私が関わっているのは合金事業の部分だけで、全体運営は美園会長に任せているんだよ。そうそう、ここにはいないが、将も執行役員の一人だよ。現場が好きでね、今も、どこかの工場か研究室に行ってるんじゃないかな。こういう会議は好きじゃないみたいでね」
ピンクは頷きながら、オカセイの話に耳を傾けた。
「桃ちゃんは、私の隣よ」
仄香がレイアウトの中央に位置している自分の席の隣の肘かけ椅子に手を翳した。
ピンクは、言われるままに、その椅子に着席した。
席には、A4サイズの薄いタブレット端末が置かれてあり、白い背景に『会議次第』と表示されていた。
「可愛い秘書でしょ」と、仄香は得意顔で話した。
「でも、蛭沢さんに対する指示命令は、私だけがします。私の承認無しで、勝手に用事とかを言いつけないようにお願いします」
「承知しております。ご心配なく」と、オカセイが代表で返答した。
「それでは、今回の議事を担当される方……宮重部長ですね。進行をお願いします」
仄香の指示に対して、左側列の七番目に着席していた中年女性が「はい」と返事した。
ちなみに、宮重部長は執行役員で、海外政策部の責任者である。
「それでは、定例の『ついたち会議』を開会いたします」
「毎月一日に開会するから『ついたち会議』なのよ」と、仄香がピンクに耳打ちした。
「『ついたち会議』の議事は、持ち回り制なの」
「では、さっそく一号議題の収支報告について、財務部、石崎常務、お願いします」
白いモノが混じる髪を中分けにしている丸顔の男性が「はい」と返事をした。
「第二四半期終了時点のP/Lを表示しました」
タブレットに『損益計算書』と見出しにある表が写った。
「売上高は、単独で4467億7212万320円。営業利益は、1880億6711万1222円。昨年対比は、売上高1234億……に対して……」
そこで、「ははは」と数人の笑い声が上がった。
ピンクには、その笑いの意味がわからなかった。
「362パーセントですね。ご覧の通りの増収増益です。資産状況については、不動産購入の関係で、そちらが増えていますが、現金と入れ替わっただけで、総額は大きく変わっておりません。借入金は十四ヶ月連続でゼロを更新中。従業員数は、グループ全体で約560人。新規工場および研究室の開業で、若干の増員がありました。続いてC/Fですが……」
タブレットの表示が変わり、『キャッシュフロー計算書』と見出しにある表が写った。
その見方は、当然、ピンクにはわからなかった。
「保有現金は増額となっており、特に問題はありません。この増額傾向は、後の議題で出てきますが、セキュリティシステムのアップデートにより、さらに強固なモノとされていくことを期待しております。以上で報告を終わります」
「報告内容に、ご質問はありませんか?」と、宮重部長が問いかけた。
「はい」と、営業統轄本部長の松川が手を挙げた。
女性。
職位は専務取締役。
前職は、大手広告会社の営業部長を務めていたが、その営業手腕を評価され、仄香が引き抜いた。
仄香の大学時代の先輩で、実年齢は一つ年上だが、見た目はそれ以上に年の差を感じさせた。
「最近は、仮想通貨による入金が増加しておりますが、当社の勘定科目は、どこに区分されていますか?」
この質問に対して、石崎常務は「棚卸資産です」と即答した。
「現金化された場合に現金に計上します。その事も含めて、C/F状況に問題なしという報告としております」
「さすが石ちゃん」と、松川専務はニンマリと微笑んだ。
「仮想通貨の仕組みをよくわかっておらんので、ちょっとバカな質問に聞こえるかもしれんがな」と、オカセイの声が場に入ってきた。
「貸し倒れになることはないのかね?」
「前例は無いですね」と、石崎常務。
「貸し倒れが有り得ないことではありませんが、そもそも相手に支払能力が無ければ、この方法は使えない訳ですから」
ピンクには、この会話のやり取りがさっぱり飲みこめず、ただ瞳を潤ませながら、場が鎮静するのを待っていた。
仄香は、彼女のその様を愉快そうに眺めていた。
「まだ実態のつかめない代物ですからね。リスク回避のためにも、上限規制は必要かも知れませんよ」と、松川専務。
「社内規定の素案を作って、次月に提案いたします」
「今の松川専務の提案ですが、承認でよろしいですか?」と、宮重部長が仄香に伺った。
「承認します。次月会議の議題に組み入れて下さい」
仄香の承認が得られ、松川専務は嬉しそうに「承知しました」と答えた。
ピンクには、なぜ松川専務が嬉しそうにしているのか、わからなかった。
「二号議題に入ります」と、宮重部長。
「セキュリティシステムのアップデートに関する開発状況についての報告。小室井部長、お願いします」
「はい」と、肩幅の広いガッシリとした体格の男性が返事をした。
短い髪を金色に染め、若く見える施しがなされているが、中高年が発する特有の褪せた雰囲気は包み隠せていなかった。
小室井部長は設計開発部の執行役員。
ピンクは、小室井を見て、何となく犬飼のことを思い浮かべた。
「先日に公表された基本ソフトの不具合の影響で、開発に遅れが生じています。遅れの程度ですが、計画プロセスに対して、六日ということだそうです。修正パッチを昨夜入手いたしまして、全スタッフをあげて、現在調整作業に入っておりますが、不具合による汚染が生じている可能性を想定し、初期プロセスまで遡及してチェックを行っていますので、さらに遅れが生じる見込みでして、最終的には十四日間の遅れとなりそうです」
「その遅れに対する計画修正の承認ということで良いですか?」と、宮重部長が確認すると、小室井部長は「はい」と返事をした。
「会長、ただ今の案件、承認でよろしいですか?」
「やむを得ませんね。承認します」と、仄香は言った。
「ありがとうございます」と、小室井部長が頭を下げた。
「小室井クン」と、オカセイが割って入ってきた。
「当社にとって、セキュリティシステムがいかに重要であるかを改めて言わせてもらうが、当社が提供したサービスは、確実にその対価を回収する『取りっぱぐれの無い商売』を維持する上で、継続的なセキュリティシステム強化は最重要任務と言える。交通系ICカードを使って鉄道を利用したら、金を払うまで外に出られない。これと同じ仕組みが必要なのだよ。当社の他では真似できないサービスを未払いで使用されたり、転写されたりすることの無いように、世界最高レベルのセキュリティシステムを目指さなくてはならない。この点は、承知してるね」
「もちろんです」と、小室井部長は緩みかけていた口元を引き締めた。
「では、今キミが申請した十四日間という延長期間について言わせてもらえば、それは最大値ではないのかね」
「あ……」
オカセイの指摘に対して、小室井部長は気の抜けた声を漏らした。
「繰り返しになるが、セキュリティシステムのアップデートは、当社のサービス提供を円滑に行う上での最重要とも言える要素だよ。会長に対する承認申請は、最大限の努力を払う前提で、最少期間とするのが当然と思うがね」
「し……失礼しました」と、小室井部長は、仄香に向かって謝罪した。
「開発スタッフは、もちろん総動員させます。期間短縮は確約できませんが、もちろん目指しますし……十日! 十日で何とか完成させます」
「無理なさらないで下さいね、小室井部長」と、仄香がアーモンド型の瞳を潤ませた。
「大丈夫です。十日でできます」
小室井部長は快活に、そう言い切った。
「よろしくお願いします」
仄香は、小室井部長に対して頭を下げた。
「続きまして、三号議題に移ります」と、宮重部長。
「白金の代替素材についての報告。日向部長代理、お願いします」
「はい」と、返事したのは、黒い髪を後ろに束ねた黒渕眼鏡の若い女性。
役員会では、親族関係のオカショーを除けば、最年少の存在で二十八歳。
役職は研究部部長代理。
執行役員。
ちなみに研究部部長は、仄香が兼任している。
「エネルギー粒子吸着フィルターの主原料としている白金が高騰している問題で、その代替素材として研究を進めている『炭素触媒』についてですが、現行製品と同等のレベルまで効果を引き出せるに至っており、実用化できれば、白金含有率を六十パーセントまで削減することが可能となります。ただ、製造プロセスについては、工数がこれまでより二ポイント増となるため」
日向は、説明用に用意してあった銀色の『筆』を手に取った。
「例えば、ここにある『MH1023』の場合ですと、一挺当たりの標準製造時間が一時間五十六分だったのに対して、新素材を使用した場合は、二時間三十三分となります」
「炭素触媒の製造工程に時間を取られてるんだな」
生産部の坂出が口を挟んだ。
白髪の痩せ身の老紳士で、年齢は八十八歳と、日向とは反対に役員会最年長。
創業以来の貢献者で、生産現場の最高責任者を務めていたが、今は自らが身を引き、相談役となっている。
日向は、「そのとおりです」と頷いた。
「ライバル社不在とはいえ、受注生産が基本である当社にとって、リードタイムの延長は好ましくないわね」
営業の松川専務が嘆いた。
「今後の課題として、生産性の向上を図るため、製造工程を一つ一つ精査し、短縮可能な要素を探っていきます」
「地道な仕事だが、それが一番の方法だと思うよ」
日向の報告に、坂出は何度も首を縦に振った。
「ヒナちゃん、頑張ってね」と、仄香が日向を励ました。
「頑張ります!」
日向は、仄香からの言葉を耳にし、やる気に満ちた笑顔を返した。
「それでは、四号議題に……」
* * *
「ここが桃ちゃんの部屋よ」
仄香に案内されたのは、会長室からしか出入りできない小さな個室だった。
片袖のオフィスデスクが中央に一台と、その脇に、向き合うように配置された一人掛けのソファーが二脚、あと部屋の隅にある木製のクローゼット、目につく家具は、ただそれだけの質素な部屋だった。
「慌てて作らせたんで、大した用意はできなかったんだけど、部屋のデコレーションは、桃ちゃんの好きにしていいわよ」
ピンクは、部屋に一つだけある窓のブラインドを開き、外の景色を眺めた。
午後六時を過ぎたばかりだが、外はすでに暗く、家々の照明や街灯、車のライトがあちこちで輝きを見せていた。
「お腹が空いたでしょ」と、仄香が横に立った。
「お食事に行きましょう。イタリア料理の美味しいお店に予約入れてあるのよ。今日はアナタの歓迎会ということで」
「ありがとうございます」と、ピンクは笑顔でお礼を言った。
仄香も、嬉しそうに笑顔を返した。
「そこのクローゼットにね、アナタ用のドレスが入ってるわ。私が選んだのよ。さっそく、着替えてみてね。私も用意するから」と言って、仄香は部屋から出ていった。
ピンクは、もう一度、窓の景色を眺めた。
「矢吹さん」と、ピンクは呟いた。
「私は、スゴイ人たちを味方に付けたよ。仄香さんの協力で、たくさんのことを学べるチャンスを手に入れたのね。いつか、アナタと対等に向き合える時が来ると良いな」
ピンクは、右手の拳を強く握り締めた。




