五十五
ピンクは両肩に力を入れ、両脇を隙間なくびっしりと絞め、両腕を腹部の辺りまでまっすぐに伸ばし、まるで棒のように体を細くして、仄香の到着を待っていた。
極度の緊張状態であることは、説明するまでもなかった。
メイクはいつもの『ピンク化粧』を施しているが、服装は仄香が選んだエンジ色のワンピースを纏い、ウエストをワンピースと同じ生地のベルトで引き締め、首元からはインナーに着ている淡いピンクのブラウスの丸襟を外に出していた。
仄香が入室し、固まっているピンクの姿を見つけると、ケラケラと笑い飛ばした。
「桃ちゃんも、そんなに緊張することがあるのね」
「お……おはようございます」
ピンクは、声を震わせながら、仄香に挨拶した。
仄香は、ピンクが着ている服と同じ生地のエンジ色のショート丈のジャケットと細身のボトム、インナーに左右三本ずつのピンタックの入ったドレスシャツという出で立ちだった。
「おはよう。いよいよ、今日が桃ちゃんのデビューね。今日はね、私のそばにいてくれるだけでいいから。気楽にしていて良いのよ」
「は……はい」
とはいえ、ただの返事すら噛んでしまう状況である。
仄香は、ピンクを応接室の二人掛けソファーに座るように促し、その向かい側に座ると思いきや、ピンクの隣に腰を下ろし、両腕を彼女の背中に回して抱き寄せた。
「仄香さん……」
「まずは、契約の話をしましょう」
仄香は、幾分か落ち着きを取り戻したピンクを抱擁から解放すると、肩に下げていた小さなハンドバッグを開けて、茶色の封筒を取り出し、中から白い紙を二枚、ガラステーブルの上に広げて見せた。
「岡産業株式会社はね、昭和二十七年創業で、優れた合金技術を駆使した製品開発で成長してきたんだけど、二年前に私が経営権を握ることになって、今は私が代表取締役よ。すっかり事業形態も変わって、とある情報理論に基づく製品開発とサービス提供事業が中心となって(桃ちゃんには何の話かわかってるでしょうけど)、独占的市場展開と、あと海外需要が寄与してね、ウチの会社、急成長してるのよ。今年度決算はね、連結だけど売上一兆円に到達する見込みなの。スゴイでしょ、って言ってもピンと来ないかな」
仄香は、二枚並べた文書の一枚を指差した。
「そして、これが『労働契約書』よ。桃ちゃんの所属だけど、管理部付。職種は会長秘書。雇用期間は定め無し。正社員ってことね。勤務日は、月曜日から金曜日の五日間。休日は、土日祝日と会社が指定した日。例えば、年末年始とか、お盆とか。勤務時間は、まだ高校生だから学業に配慮して、夕方十六時三十分から十八時三十分までの二時間としてあるわ。冬休みとかの長期休暇の時は、また相談させてね。あとは、大事なお給料の話だけど」
仄香は、今度は『労働契約書』の隣に並ぶ『給与辞令』という見出しの文書を人差し指で示した。
「当社は年俸制なの。桃ちゃんの初年度基本額はね、三百八十四万円の設定なんだけど、今は期中だから、事業年度末の来年三月まで月割り計算して支給するということで……この備考欄に書いてあるんだけど、五ヶ月分換算で百六十万円になるから……えっと……」
ピンクは、お金の話を一所懸命にしている仄香を見て、緊張が解れてきた。
「支給日はね、毎月二十日で、二十四万円ずつ貰えて、年度末の三月に残額の六十四万円を……計算合ってるかな……うん、大丈夫。まとめて貰えます。でも、所得税とか、保険料とかが、ここから引かれるからね。手取で二十万くらいかな。良い?」
ピンクは、クスクス笑いながら頷いた。
「私、何か面白いこと言ったかしら?」と、仄香。
「いえ……」と、ピンクは首を横に振った。
「仄香さん、有名な研究者なのに、そういう細かい計算は苦手そうだなって思ったら、笑えてきちゃったのね」
「まあね。頭の回転は早い方じゃないの。知能指数も、そんなに高い方じゃないと思うわ。たぶん」
「一日二時間で、こんなに頂いちゃって良いのかな。それに、大した仕事はできないんだけど」
「まだよ」と、仄香は言い、真顔でピンクを見つめた。
ピンクはハッとして、猫背になりかけていた背筋を伸ばした。
「アナタには、来年の四月から、M大学の理工学部情報工学科に『飛び入学』してもらうわ。アナタの成績を見せてもらったけど、数学が優秀ね。生徒会長も務めてるし、『南のスケバン』は割と性能が良いわ。学長が知り合いでね、もう話はしてあるの。でも入学試験は免除されないから、今からでもしっかり勉強してね。それと高卒認定も必要よ。たぶん試験があるわ。もし入学できたら、学費と住居費、生活に必要なモノは、全部会社が負担します。どう? やってみる気ある?」
「一所懸命やります」と、ピンクは即答し、両手に力をこめた。
仄香が笑顔で緩んだ。
「アナタには期待してるのよ。ぜひ、頑張ってね」
「はい」と、ピンクは快活に返事をした。
「あと、これは契約外でのお願いなんだけど……」
仄香は、そこで少しだけ頬を染めた。
「週末はプライベートで色んな所に出かけるようにしてるの。出張とか、研修名目で長期に出かけることもあるわ。あのね、桃ちゃんが、できるだけ付き合ってくれると嬉しいんだけど……」
「わかりました。どこにでも付いていきます」
これも即答した。
仄香は、「ああ」と言って、またもやピンクを抱き締めた。
「嬉しいわ。本当に桃ちゃんと仲良しになれたのね。これから一緒に頑張りましょうね」
仄香は言うと、そそくさと立ち上がった。
ピンクも、それに続いた。
二人が向かった先は『第一会議室』と掲示されたドアの前だった。
気を利かせて、ピンクがドアを開けた。
「ありがとう。アナタも入りなさい」
室内に入り、ピンクは途端に体を硬直させた。
『ロ』の字型に配列された光沢のある黒いテーブルには、取締役や執行役員といった肩書きを持つ約三十名のビジネススーツ姿の中高年紳士淑女たちが等間隔に着席しており、仄香の入室に併せて、一斉に起立した。
「おはようございます」
大勢の挨拶が、完璧に整った合唱となり、仄香の元に届けられた。
「おはようございます」
仄香は軽やかな声で返し、室内のほぼ中央に設けられた『王座』に向かった。
「桃ちゃん、これが私の会社よ。私の隣にいらっしゃい」
紳士淑女たちは、興味津々とピンクに注目した。
ピンクは、たちまち緊張の呪縛に全身を支配され、膝をガクガクと震わせた。




