五十四
柴田明史
それが彼の名前だった。
年齢は三十九歳。
情報処理技術者として大手の派遣会社に登録し、全国津々浦々の企業のシステム管理部門や保守サービス事業等と短期間の派遣契約を結び、その勤労対価として収入を得ている、どこにでもいる普通のエンジニアである。
また、彼は工作技術にも長けていて、小規模のサーバーシステム程度なら、全て自作できてしまうという器用さも持ち合わせていた。
というような話を、自家用車を運転しながら、後部座席に搭乗しているパンナに聞かせていた。
軽自動車の狭い後部座席に、人並み外れた大柄の犬飼と一緒に閉じ込められているパンナは(彼女自身も相当大きな女子であることは、この際は置いといて)、窮屈と退屈によるストレスに見舞われ、イラ立ち始めていた。
「とりあえず、ボクの家に行くってことで良いですかね?」
柴田の唐突な提案に、パンナは思わず「え?」と声を上げた。
「何で柴田さんのおウチに行くんですか?」
「帰る途中でしたからね」と、柴田はそれが当然のように答えた。
「帰る途中……」と、パンナは柴田の言葉をなぞった。
「いやぁ、いつもこれくらいの時間に、この辺を通るんですけどね、そしたら、すごく可愛い女の子がヒッチハイクのサイン出してるなって停まってみたら、何とパンナさんだったというわけで。それも、ちょっとヤバい格好で。パンナさんって、けっこう胸が大きいなって思ったりして」
柴田が幸せそうに、はしゃいだ。
パンナのキャミソールの肩紐が落ちかけていて、ノーブラで、今にも胸の本体が見えそうになっているのだが、彼女はそんなことは気にも止めず、思案にふけっていた。
「とにかく、ボクの家に行って、何か暖かいモノでも用意しますよ。パンナさん、そんな格好してるけど、夜は寒いと思うので」
「柴田さん」と、パンナは柴田に問いかけた。
「柴田さんは、偶然通りかかったんですよね?」
「偶然ですよ」と、柴田は即答した。
「誰かに頼まれてるってことじゃないですよね?」
「頼まれなくたって、パンナさんがここにいるってことがわかってたんだったら、自分からやって来ますよ」
「電話があったんです」
パンナのその話で、柴田の口がピタリと止まった。
「ヒッチハイクのサインを出して車を止めろ、と。それが、柴田さんだったんです」
「電話の相手は誰だったの?」と、柴田。
「わかりません」
「相手がわからないのに、指示に従ったんですか?」
「今から思えば、なぜ、そんな指示に従ったのかわからないんですが、その時は、そうしなきゃいけないと思ったんです」
「まぁ、そのおかげで、ボクはパンナさんに再会できたんで、良かったんですがね」
柴田は、その後、黙りこんだ。
「あの……」と、パンナが話しかけた。
「柴田さんのご迷惑になってしまうので、どこか近くで降ろしていただくべきだと思ってるんですけど……柴田さんの車に乗る意味というか、目的というか……何かあると思うんです。厚かましいお願いですが、それがわかるまで乗せてもらって良いですか?」
「つまり、このままボクの家に行くってことですね。ボクは、大歓迎ですよ。大した家じゃありませんが……おや?」
柴田が、車を減速し始めた。
「どうしたんですか?」と、パンナが尋ねた。
「また、ヒッチハイカーみたいですよ。今度は男子かな?」
「!」
パンナは、身を乗り出して、前方を確認しようとした。
柴田の耳の後ろから、ふんわりと花の香りが漂ってきた。
「停めてもらって良いですか?」と、パンナの息が柴田の耳を刺激した。
「は……はい……」
柴田は胸をときめかせながらも、親指を突き出す男子の前に正確に停車させ、助手席側のパワーウインドウを開けた。
「いきなり電話して、すみませんでした」
男子の第一声がそれだった。
そして次に、「乗せてもらっても良いですか?」と、柴田に尋ねた。
「まぁ、乗って」
柴田は煙たそうな目つきをしながらも、了承した。
男子は助手席のドアを明け、後ろに体格が良いのが二人乗っているせいで前に寄せられて狭くなっている座席を見て、ためらいを見せた。
助手席の後ろ側に座っているのがパンナだったが、一言も口を開かず、配慮する様子もなかった。
男子は「失礼します」と言って、狭い空間にムリヤリ体を折り畳んで、乗り込んだ。
「シートベルトしてよ」
柴田はすげなく注意し、ナビの操作を始めた。
男子は、苦戦しながらも、言われた通りにした。
パンナに協力姿勢は見られなかった。
「ふーん。手回しが良いんだね。ちょっと行った先にコンビニがある」
柴田は、ほんの百メートルほど先のコンビニの駐車場まで車を移動させて、エンジンを止め、外に出た。
そして、犬飼の側のドアを開け、「キミも外に出て」と、降車を促した。
犬飼は、大人しく従った。
「案外、素直だね」と、柴田は感心した。
「柴田さん……」
パンナは大きな瞳を輝かせて、柴田を見つめた。
柴田は、パンナに向けて笑顔を返した。
「買い物してきます。タバコも吸いたいし。二十分くらいで戻りますから」
そして、犬飼の方を見て、「腹減っただろ。何か食おう」と、話しかけた。
「お気づかい、ありがとうございます……」
男子が柴田に頭を下げると、柴田は眉間にシワを寄せて、男子を睨みつけた。
「うるせえよ」
「は?」と、男子は面食らった。
「本当はな、ボクの方がパンナさんと二人きりになりたかったんだからな!」
柴田は怒鳴りつけると、犬飼を連れて、店の方へ向かった。
男子は目を丸くして、二人の背中を見守った。
「美園クン」と、パンナに呼びかけられ、男子は注意をそちらに向けた。
「私の隣においでよ」
パンナは、犬飼がいなくなって、大きく空いた座席を軽く叩いた。
男子は、助手席から外に出て、後部座席のパンナの隣に乗車し直した。
柴田の軽自動車の後部座席の角に、パンナはお尻を収めるように寄りかかっていた。
長い右脚を「4」の字に組んで、隣に猫背気味の姿勢で座っている美園玲人を好奇心に満ちた瞳で、じっと見つめた。
玲人はといえば、女子にじっと見つめられている状況に怖じ気づく様子も見せず、緩く口を結んだまま、パンナの視線をやんわりと受け止めていた。
「せっかく」と、パンナが口を開いた。
「柴田さんが気を使ってくれたんだから、時間を有効に使おうよ」
「そうだな」と、玲人は頷いた。
「矢吹さんの様子だと、ボクにいろいろと聞きたいことがありそうで……」
「キミの用件を先に言ってよ」と、パンナが玲人の言葉を遮った。
「私を呼び出したのはキミの方だろ。だから、キミが先だよ」
「そうだったな」と、玲人は言い、上半身を捻って、パンナと向き合う姿勢を取った。
「まずは、母の無礼について、ボクが代わって謝ります」
「うん」と、パンナは頷いた。
「相変わらず直球で来るヒトだよね。敵対しちゃったけど、私は仄香さんのこと好きだよ」
「矢吹さんは、ボクのこと、すでに知ってるみたいだね。さっき、いきなり名前で呼ばれた」
「知ってるよ」と、パンナは親しみを感じさせる笑顔で答えた。
「学校周辺のコンビニに寄ってた情報から、映像も入手したからね。それとキミの背景にいるヒトのことも」
「ボクは、姉貴の指示で動いてるだけなんで」
「キミのお姉さんって……仄香さんの?」と、パンナは首を傾げた。
「姉貴とボクとは母違いだよ」と、玲人は補足した。
「お父さんは同じヒトなの?」と、パンナが尋ねた。
「たぶんね。姉貴から母違いって聞いて、それを信じてたんだけど」
「美園 東さん。有名な資産家だよね」
「ボクの父だ。二年前に亡くなってるよ。もう、九十歳だったからね」
パンナは、目を大きく開いた。
「じゃあ、キミはお父さんが七十歳を過ぎてから生まれてるんだ」
「そういうことになるね。たぶん姉貴も」
玲人は、何か思い出したように「あ」と声を上げた。
「姉貴は、矢吹さんのことを以前から知ってたみたいだね」
「以前から私のことを?」
パンナは、記憶のどこにそれに相当するものがあったのかを探ってみたが、見つけることはできなかった。
「西藤 有利香さん……」と、パンナはその名を呟いた。
「ボクの姉貴だよ」と、玲人は言った。
「姉貴は、すごく頭が良いし、強い『意志』を持ってる」
「その名字と同じヒトを一人知ってるよ。キミのお母さんが旧姓を名乗っていたというのは別にしてね」
パンナは、未だ記憶の隅々を探っている。
『マジック・アイ』の情報群も巻きこみながら、時間をかけて考えてみるが、納得のいく発見までには至らなかった。
「私が知っているヒトは、キミのお母さんと双子姉妹のお姉さんだよ。有利香さんと、どんな関係があるんだろうか?」
「叔母さんの話は、母から聞いたことがあるけど、会ったことはないよ。単純に考えれば、姉貴は叔母さんの娘なんじゃ」
玲人は飄々と言った。
何かを隠しているようには見えなかった。
あのヒトは確か……
パンナは、西藤静香が独り身だと言っていたことを記憶から取り出してみた。
もちろん何か理由があって、隠していただけなのかもしれない。
「本当のところは、姉貴に聞くしかないんじゃないかな」
玲人の言葉に、パンナは頷いた。
「つまり、有利香さんは、そのことについて、今は私に教える気は無いと」
「姉貴のメッセージの中に入ってるかも知れないけど」
「メッセージの中に?」
パンナは目を細めた。
「どういう意味?」
玲人は、そっと右手をパンナに差し出した。
「姉貴は、ボクの中にメッセージを入れてくれたんだ。ボクの手に触れば、受け取ることができるよ」
「キミは、メッセージの内容を知ってるの?」と、パンナが尋ねた。
玲人は、首を横に振った。
「メッセージは、ボクの体内にあるけど、その内容をボクは知ることができない。姉貴は、矢吹さんにだけ伝えたいことがあるからって、ボクには教えてくれなかったんだ」
「有利香さんが、私に……」
パンナは右手を伸ばし、玲人の右手を握り締めた。
湿り気を帯び、ヒンヤリとした感触が、玲人の右手から伝わってきた。
「じゃあ、送るよ」
玲人の合図で、右手を通じて、情報転送が始まった。
パンナの周囲が途端に闇に覆われ、玲人の姿が視界から消え失せた。
柴田の軽自動車の中にいたはずだが、それさえも消え去り、いつの間にか、冷たい石の上に腰を下ろしている状況となっていた。
パンナは、その場で立ち上がり、辺りを見回した。
完全な闇というわけではなく、目を凝らせば、うっすらとどこかの建物の中にいるのがわかった。
今まで腰掛けていたのは階段の下で、振り返って見上げれば、ちょっと上った先で壁に突き当たり、踊り場を経て、百八十度転じて、さらに昇っていく階段が見えた。
どこからか射しこんでくる月の明かりが唯一の光源で、視界に写るモノの存在感は、影の輪郭のみが示していた。
パンナの注意は、その踊り場から感じ取れるヒトの気配にあった。
「走査」
パンナの右の瞳に、緑色のターゲットスコープのような十字型が現れた。
『マジック・アイ』による周辺情報の入手と、自らの目視による状況把握を併せて試みた。
背が低い小柄な女子。
北高の制服。
白いヘアバンド。
顔は……よくわからない。
「西藤 有利香さん……だよね」
呼びかけてみるが、相手から返答は無かった。
相手にもっと近づいてみようと、パンナが階段に足をかけた瞬間に、肩を激しく揺さぶられる感触に見舞われた。
「パンナさん。パンナさん!」
柴田の呼ぶ声が聞こえてきた。
「パンナさん。パンナさん!」
柴田はパンナの両肩を掴み、前後に激しく揺さぶっていた。
「パンナさん、しっかりして! 汗びっしょりかいて、大丈夫ですか?」
「……柴田さん……」
パンナは呟き、ゆっくりと目を開いた。
柴田の軽自動車の中。
かなり近い位置に柴田の顔面があった。
「柴田さん……顔、近いよ……それに、いっぱい私の名前呼んでくれて……キライなんだ……その名前……」
それだけ言い残すと、再びフッと気を失ってしまった。
「パンナさーん!」




