五十一
梨菜と篠原博士を乗せた台車は、歩くような速度で前進し続け、ついには前方に細長い通路の突き当たりが見えるところまで来た。
一見して、ただの行き止まりのように見えるが、左側面の扉が静かに奥に開き、中から女性が半身を外に出し、二人が近づいてくるのを見守っていた。
梨菜は、その女性の顔を見て、ハッとした。
アーモンド型の大きめの目をした美人。
髪型は黒色のロングのストレートヘアだが、容貌は仄香と瓜二つ。
はてな? と、梨菜は首を傾げた。
私たちは、仄香から逃げてきたはずなのに……
行き先に、仄香に待ち伏せされていた、ということだろうか。
つまり、私たちの『亡命』は失敗に終わったということで……
「どうしたかね?」
梨菜が不安そうにしているのを察し、篠原博士が尋ねた。
博士は、進行方向に背を向けて乗っているので、女性に気づいていなかった。
「仄香さんがいるんです」
それを聞いて、博士はニヤリと笑った。
「なるほど。それで、キミの状態を理解できたよ。キミが見えているのは、仄香クンによく似ている人だということだね」
「よく似ているって……似すぎてますけど」
「双子姉妹だからな」
「ああ、そういうことか……」
台車が自動的に停止し……と、よく見れば小さな輪止めが設置してあって、車輪はそれでも前進しようと空回りしながらも回転だけは続けているという状況だった。
待ち受けていた仄香によく似た女性が、「こっちこっち」と奥の部屋に入るように手招きした。
指示に従うと、奥側に黒い本革の一人掛けのソファーが二脚と、膝くらいの高さのガラステーブルを挟んで二人掛けのソファーが手前に置いてある小さな部屋に案内された。
壁は、これまで移動してきた通路と同様、模様一つ無い面白くないアイボリーで、奥側の隅に、さらに奥があることを匂わすドアがあった。
梨菜と博士は、手前の二人掛けのソファーに腰を下ろすように促され、女性は一人掛けのドア側の方に着席した。
まるで、感情というものが見て取れない、能面のような表情をしていた。
「ちなみに、こちらの席に誰かが座る計画はありません」と、女性は空いている席を指差して、説明した。
「はぁ……」
梨菜はキョトンとした顔をした。
博士は、フンと鼻を鳴らした。
「それから、私の名をお伝えすることも計画に含まれていませんのでいたしません。ですが、あなた方のお名前を含む身分につきましては、任務遂行上、必要ですから、私は存じ上げております。いささか一方的な状況ですが、ご承知おきを。それから、計画は極秘ですから、計画に関するご質問もお受けできません。もっとも、そちらの篠原博士は、計画と私のことについて、一部ご存知の内容もございましょうが、その範囲で、そちらのお嬢様に情報提供されることについては妨げません」
「はぁ……」
梨菜は返す言葉が見つからず、目をパチクリさせた。
博士は、押され気味の梨菜を見て、クックッと笑った。
「私が提供できる情報といえば」と、博士が梨菜に救いの手を差し伸べた。
「計画については、教えられるものは何も無い。私が教えられるのは、目の前におられる姫君に関することだけだよ」
「お知り合いなんですか?」と、梨菜が尋ねた。
「まず、この姫君の名前は、西藤静香。当アカデミーの所長だ」と、博士。
それに反応して、女性は軽く会釈をした。
「そして、仄香クンの姉だよ」
「仄香さんの双子のお姉さん……」と、梨菜は博士の言葉をなぞった。
「仄香と私は、血縁関係というだけで、別モノです。アレがしたことについては、私に何の責もありませんから、そのことについて言及はいたしませんし、お詫びもいたしません」
「はぁ……」と、梨菜はまたもや言葉を失った。
博士は、ずっと笑いを堪えていた。
「お話は、もうよろしいでしょうか?」と、静香が博士の方を見て尋ねた。
「まぁ、この子は、もっと話を聞きたがってると思うが、キミの手続きを進めてもらっていいよ」
梨菜は、不服そうに口を尖らせ、博士を睨みつけた。
「何も教えてもらえなくて、不安な気持ちになっているのはわかります」
静香はそう言い、梨菜に少しだけ笑顔を見せた。
ほんの一瞬だが、梨菜は、静香のその笑顔が、心の奥深くに焼きついた気がした。
「それでは、計画に基づく手続きについて、これから説明いたします」
静香は、再び能面のような無表情さをもって語り始めた。
「始めに私の権限について説明します。計画は文書になっていまして、計画文面に疑義が生じていた事項がありましたが、本計画施行規約に基づき、全て私の解釈により決定され、執行いたします」
梨菜は、両膝の上に両手をのせ、神妙な面持ちで、静香の話を聞いていた。
博士は、フンと鼻を鳴らした。
「まず、梨菜さん」と、静香が梨菜の方を見た。
梨菜は、両拳を強く握った。
「あなたには新しい『役割』を与えます。ただし、今の名前を継続して使用してはいけません。今の名前ではない別の名前に変えて下さい。どんな名前で、どんな設定にするかはお任せします。必要な手続きは支援いたします。必要とされるものも全て用意します。『役割』については、後で詳細をお伝えします。良いですか?」
静香の問いかけに対して、梨菜はためらうことなく「はい、わかりました」と、即答した。
梨菜の素直さに、逆に静香の方が驚きの表情を見せた。
「意義はないの? 不服とかも……」
「佳人さんに守られて、私と『はかせ』はここへ来れました。そして、『はかせ』から聞いたんです。この先で私たちを導いてくれる人がいるって。それが、静香さんでした。私は、静香さんを信じます」
静香は身を乗り出し、梨菜の膝の上の左手を包むように自らの手の平を合わせた。
「賢い人。あなたのことが好きになりました」
静香は能面のような顔から一変して、優しさに満ちた笑顔を見せた。
梨菜は、その笑顔が先ほど心に焼きついた笑顔と同じであることを確信した。
「今まで、とても多くの不幸な出来事に遭遇し、乗り越えてきた強さを持っていますね。その強さが、あなたの魅力です。私の導きによって、この先のあなたは、きっと幸福を維持できるはずです。さて、篠原博士」
静香は博士に対しては、能面のような無表情さに戻した。
「博士の場合は、名前だけというわけにはいきません。全てにおいて別人になっていただきます」
博士は、フンと鼻を鳴らした。
「まぁ、そうだろうな。そろそろと思ってたよ」
「さっそく準備します」
静香は、すっと立ち上がり、奥へのドアを開けた。
「お二人とも、こちらへどうぞ」




