四十七
「はかせ、はかせ」と呼ぶ声に、篠原博士は、頭と足を同時に上下に引っ張られでもされたかのように、パッチリと目を覚ました。
そばには梨菜がいて、大きな瞳を輝かせていた。
「寝室にはカギをかけたはずだが」
博士は寝たままの姿勢で、梨菜に尋ねた。
梨菜は、事も無げに「壊しました」と、答えた。
「そりゃ犯罪行為だな」
博士は別段責める様子も見せず、梨菜の回答に対して淡々と感想を述べ、上体を起こした。
「緊急事態なんです」
「まぁ、そうなんだろうね」
博士は、鼻をフンと鳴らして、口を『へ』の字に曲げた。
「何が起きた?」
「仄香さんが、あちら側についたそうです」
博士は、特段に驚く様子を見せずに、「有り得る話だ」と、一言だけ言った。
「佳人さんは、緊急レベルで言うと、最高の『五』だと言っていました」
「想定はしていたのだよ」
博士の口調には一ミリの焦りも見られなかった。
「彼女の協力無くして、このプロジェクトは進めようが無いのは、承知の上だった」
「仄香さんは、何ができる人だったんですか?」と、梨菜が尋ねた。
博士は一言だけ「再現」と答えた。
「再現?」
「『権限者』の行動の見たままを自分でも『再現』できるのだよ。全く同じにね。そして、他の者でも同じようにできる『才能』を作り出し、展開してしまえるのだよ。『分析』と表現する者もいるがね。当アカデミーでは、『三大要素』として扱われている重要な技術だ」
「『三大要素』……一つはそれだとして、あと二つあるんですね。その……重要なのが」
「『覚醒』と『伝承』だよ」
博士が、その続きを話そうとするが、梨菜は首を横に振った。
「話が長くなりそうなんで、また後で。要するに、『再現』は仄香さんにしかできないことだったんですね」
「仄香クンは、元々、アカデミー立ち上げ時からの所属研究員ではなかったからね。実践力のある『権限者』として、委任関係にある協力者という位置付けだった」
「つまり、裏切られる可能性は承知の上だったわけですね」
梨菜は皮肉をこめて、博士を見つめている目を細めた。
「それは、ちょっと違うな」
博士は、鼻をフンと鳴らした。
「彼女の裏切りは、可能性としてではなく、確実に起きると踏んでいた。計画にも、それは含まれていたはずだ。重要なのは、計画時期とその実際の発生時期にどの程度の差異が生じているかどうかだ。水田クンは、何と言っていたんだ?」
博士の問いに対して、梨菜は「うーん」と、小さく唸り声を上げてから、こう答えた。
「それも含めて、『レベル五』なのだと思います」
博士は、鼻をフンと鳴らした。
「それで、キミは眠っていた私を起こしに来た。次の指示は何かね?」
博士に問われて、梨菜は自らの役割を思い出し、両手を打った。
「『はかせ』と私は、ここから脱出しろって、佳人さんに言われてました」
「何だと?」と、博士の口調が荒くなった。
「逃げなきゃならん事態になっていると言うのか?」
「佳人さんの話では、大勢の人たちが『はかせ』と私を迎えに来てるそうです。佳人さんたちと数人の研究員たちが、それを食い止めています。私は、その大勢の人たちを見てませんけど」
博士は、鼻をフンと鳴らした。
「我々の敵は、そんな荒々しい手段でしか挑んで来られなかったということだ。嘆かわしいね」
「『はかせ』と私を捕まえることに、どんな意味があるのでしょうか」
梨菜の問いかけに、博士は、うむと返した。
「捕獲か……なるほど、彼女にしてみれば、確実で効果的な手段だな。水田クンが、我々に逃げろと言うのも、必然的な判断だ」
「私には、何が何だか、さっぱりわかりません」
梨菜は、首を横に振る仕草をするが、自分たちが置かれている現状に対して、むしろ好奇心は満たされ、それを証明するように、大きな瞳はキラキラと輝きを保っていた。
「こちらが無くなれば、あちらに行くということだ。あちらは、まぎれもなく敵であり、あちらに持っていかれるということは、こちらの手の内をあちらに明かすということだよ。我々に逃げろというのは、それを阻止する行動だ」
「『はかせ』と私が、こちらの手の内なんですか?」
「ひとまず、逃げるという行動を取ってみないか?」
博士はそう言うと、ベッドから降り、奥の書棚の方へ向かった。
「ありがちだけどね……」
「そこに秘密のドアがあるんですね。私たち、まるで落城した殿様と姫様みたいです」と、梨菜は声を踊らせた。
博士は、引き戸と同じ構造になっている書棚を動かし、その裏に隠れていた鉄製のドアを披露した。
書棚は、手を離すとスプリングの力で、ゆっくりと閉まっていくようにできていた。
現れたドアは、ノブや取手の類が全く無い平面で、面白くもないアイボリー色に塗装されているだけであった。
博士は、ドアを軽く押した。ドアは、フワリと奥へ開いた。
ドアの向こう側に、淡いセピア色の灯りが見えた。
「内側からは、押すことしかできない」
博士は、梨菜に先にドアの向こうに行くように手招きした。
梨菜は、軽快な足取りでドアを潜った。
博士も、それに続いた。
「こうしておけば……」
博士は、ドアがカチリと音がして閉まったのを確認し、ドアの外側に付いているスライドさせるスイッチを反対側へ移動させた。
「あの部屋からドアを開けることはできなくなった。書棚も元通りに閉まって、固定されたから、我々も部屋には戻れなくなった」
「前に進むしかありませんね」
梨菜は、楽しそうに言った。
目の前には、二人がすれ違えそうにない幅の狭い通路がまっすぐに奥へと延びており、等間隔に設置されたセピア色のLED灯が輝きを放っていた。
博士は足元を指差した。
そこには、立ったままなら二人が乗れそうな銀色の台車が置かれていた。
「私は、足が弱くてね……」と、博士が釈明した。
「一応、電動式だよ。ここにバッテリー用の容器が……」
博士は、台車の縁の窪みに収まっている透明な円筒形の容器を指差した。
容器の中には透明な液体が入っており、窪みの上側にある二センチ程度空いている隙間に右手の人差し指と中指を差し込み、隙間の大きさが、さらに広くなる方向へ力を入れ、『容器』を押し込んだ。
カチンと音がした所で、モーターが回るような小さな音がういーんと鳴り始めた。
「何ですか、それは?」と、梨菜は興味を示した。
「燃料電池」と、博士は答えた。
「もしかして、水素電池とかいうのですか?」
「いや、メタノールだよ。水素だと、こんな容器では、常温で長期間保管できない」
「最新技術ですね」
「いや、燃料電池自体は昔からあったし、これも五年くらい前に作ったモノだよ」
博士は、台車の中央にまっすぐに取り付けてある金属製のパイプを掴んで乗り、クルリと回転し、梨菜と向き合った。
梨菜も後部の空いているスペースに乗り、中央のパイプに掴まった。
博士が足元にあるペダルを踏むと、台車はゆっくりと博士の背中の方向に進み始めた。
「アカデミーに、こういうモノを作るのが得意な男がいたのだよ」
「過去形ですか」と、梨菜が尋ねた。
「つい、この間、アカデミーを出ていったな。貢献度は非常に高かった。『筆』も彼の発明品だった」
「あちらに行ったのでしょうか?」
「いや、彼は何か個人的な事情があったみたいだ」
「アカデミーにしてみれば、痛手ですね」
「さあな。私の研究題材は別として、アカデミーの存在意義がどれくらいのモノだったのかは、私自身も知らないからな」
「『はかせ』は、何ができる人なんですか?」
「何がとは?」
「さっき三つ上げてたじゃないですか。仄香さんが『再現』で、他にナントカが二つあるとか」
「ああ、私は『覚醒』だよ。キミを『覚醒』する手順は、私が作り上げたモノだよ」
「佳人さんじゃないんですか?」
「水田クンは、『覚醒』を導く『原始』を実行可能なコードに『変換』しただけだよ。大元の『原始』は私の発明だ」
「『はかせ』はエラい人なんですね」
「まぁ、博士と呼ばれてるくらいだからね」
「私は、どんな存在なんでしょうか? 私は、『はかせ』や仄香さんのような大変な力は持ってないのに」
「『覚醒』に成功した『権限者』の中でも、最も大きな効果を発揮できた事例かな」
「私は、単なる成果物ってことですね」
梨菜は、頬を膨らませた。
「キミは、まだ成長途中だ。当アカデミーとしては、キミの今後の伸びしろを高く評価しているんだよ」
台車は、二人の重さに怯むことなく、じりじりとマイペースで前進を続けた。
「本能寺にも、こんな仕掛けがあったとしたら、ちょっとロマンティックだと思いませんか?」
梨菜が機嫌を直し、不意にそんなことを言い出した。
「本能寺? ああ……織田信長が最期を迎えた寺院のことか……」
「実は、信長も、蘭丸も、逃げ延びているとしたら、って想像するとロマンティックです。私たちみたいに、こんなような仕掛けが地下とかにあって……」
博士は、鼻をフンと鳴らした。
「もし生きていたとしても、その後に彼らは存在を示そうとせず、歴史から消え失せた。死んだのと同じことではないのかね」
「生き延びたってところが良いんです。その後の秀吉や家康の活躍を、どこかで見ていたっていう」
博士は、鼻を今までで一番大きな音で、フンと鳴らした。
「力を持つ者が息を殺して、事の成り行きをただ見ていただけだって言うのが、ロマンとは思えんがね」
「私は、この先がどうなるのか聞かされてないんです」と、梨菜は口を尖らせた。
「『はかせ』は、多少はわかっているんでしょう?」
「まあ、多少だがね」と、博士は答えた。
梨菜は、博士そっくりに、鼻をフンと鳴らした。
「ただね、キミにこれだけは言っておこう。我々は、この先も存在し続けなければならん。我々の存在価値は、世界をも揺るがす大きなモノだ。決して大袈裟な話ではないぞ。だが、我々が今のままで存在し続けることは、もはや無理なのかもしれない。この先に待ち受ける人物が、我々を導いてくれる手はずだ。私が知っているのは、そこまでだよ」
「この先に待っている人……」
梨菜は、遠い目をして、台車の行先を見つめた。
「まさか、あちらの人ってことは……」
「それは無いだろうね。この先がどこに繋がっているのかは、アカデミーの者ですら誰も知らないことになっている。その待っている人物以外はね」
『台車』は、なおも先に進み続けた。




