四十一
浦崎警部は、どこか落ち着きのない様子で、警察本部内の会議室に腰を据えていた。
六人が向かい合って談話できる程度の、小さな会議室である。
楕円形のミーティングテーブルを囲むように、肘掛付きの大型椅子が六つ備えてあった。
警部はその一つを陣取り、右と左の親指同士を盛んに擦りつける仕草を繰り返した。
静かな室内に、空気清浄機の唸る音のみが耳に入った。
白い壁に掛けてある時計を見ると、現在時刻は午後七時四十五分だった。
十五分遅刻か……相変わらず……と、恨み節を思い浮かべようとしていたところへ、勢いよくドアが開き、短髪頭の男が入ってきた。
「すいません」と、男は警部に謝った。
見た目の年齢は三十代半ば。
細身で、背が高く、背筋が垂直に伸び、姿勢が良い。
短く刈り上げた髪をチョコレート色に染め上げ、顔と首元、腕の部分の日焼けがきつく、シャツの襟首からチラリと窺える白い肌との違いは、それがゴルフ焼けであることは容易に想像できた。
男は、ここまで走ってきたらしく、こめかみに汗の滴が通い、Yシャツも透けて肌着の形状が見えていた。
「暑いですね」
男は、パイル地のハンカチで汗を拭いながら、抱えていた上着と革製クラッチバッグを椅子の一つにのせ、Yシャツの胸ポケットから手際よく取り出したポケットティッシュで鼻をかみ、クルクルと丸めて、会議室の隅のクズかごに投げ入れた。
警部は、男の動作の一部始終を、冷ややかな視線で眺めていた。
「遅れてすいません。会議が長引きまして……」
男は言い訳しながら、警部の正面の椅子に腰を下ろし、隣の椅子に置いたクラッチバッグの中から、ペットボトル入りのコーラを取り出した。
三分の一ほど飲みかけたボトルで、表面が濡れていないあたり、購入後にかなり時間が経過しているように思われた。
男は赤いキャップを空け、クイッと一口だけ含むと、すぐにキャップを閉めた。
炭酸水特有の泡は発生せず、ほとんど気が抜けてしまっているようだが、男は別段気にする様子は無かった。
「私を呼んだのは、警視監殿ですよ」
警部は、刺すように『どの』にアクセントを付けた。
警視監と呼ばれた男は、ハの字に眉を下げ、弱った表情を見せた。
「さっそく、要件をお願いします」と、警部は男の行動を促した。
「その『警視監殿』という呼び方はやめて下さいよ。名前で呼んでもらった方が良いです」
「では、水野さん、お願いします」
男の表情が緩み、気の抜けたコーラを、クイッと一口含んだ。
続いて、クラッチバッグから紙に包まれた食べかけのオールドファッションを一口かじり、それをテーブルの上に置くと、モグモグと口を動かしながら、次の品物を取り出そうと、クラッチバッグに手を入れた。
次に出てきたのは、袋の口が開いた『たまごボーロ』だった。
水野は袋の開いている方を警部に向けて、テーブルの中央に置いた。
「まるで、パーティですな」と、警部は苦笑した。
水野は、口の中のオールドファッションを飲みこむと、コーラをクイッと一口含み、もう一度クラッチバッグに手を入れた。
「今日は、ちょっとした勉強会を開こうと思いまして」と、水野は言った。
「何か教えていただけるんですか?」
警部はテーブルの上で、両手を擦り合わせた。
水野は、菓子や飲料水を取り出した時とは明らかに異なる慎重さをもって、クラッチバッグから紙に包まれたカード状の薄いモノを取り、テーブルの上に置いた。
名刺かカードほどの大きさで、コピー紙のようなモノでラッピングを施してあった。
「まだ触らないで下さいよ」
水野はそろそろと手を伸ばし、ラッピング紙を押さえてあるテープを剥がした。
クルクルとカード状のモノを回転させ、中身の一部が見えてきたところで、水野は手を止めた。
「これは、とても危険なモノなんです。こんなモノが存在し、外に出回っていることを浦崎さんに知ってほしくて、ここにお持ちしました。人体に影響が無い程度に、ほんの少しだけお見せします」
水野は、警部の目をじっと見た。
なるほど、冗談とは思えない真剣な目だ、と警部は直感し、無言のまま首だけをゆっくりと縦に動かした。
水野の指が、ゆっくりとラッピング紙を剥がし、中に包まれていたモノを露にした。
ただ、それは白無地のカードで、どうやら裏向きに伏せられているようだった。
「このカードには、ある絵柄が描かれています。くどいようですが、非常に危険なカードですから、お見せするのは、ほんの一瞬です。それでは、いきますよ。」
カードが表に向けられた。
* * *
警部は、頭に積もったホコリを振り払いでもするかのように、激しく首を横に振った。
にわかに、正面に着席する水野の姿に焦点が合った。
気の抜けたコーラ。
たまごボーロ。
水野は、常にどちらかに手を付ける動作を繰り返している。
「今のは何なんですか?」と、警部は尋ねた。
口に含んでしまった菓子をコーラで流し込み、水野は口を開いた。
「今の現象が、勉強会のテーマですよ」
「勉強会?」
ああ、と警部は頷いた。
「そういえば、勉強会でしたね。ええっと……」
警部の視線が、水野のそばにあるカードに移った。
カードは、絵柄が見えないように、コピー紙に包まれた状態になっていた。
「そのカードを見た瞬間に気分が悪くなった」
「そのとおりです。原因は、このカードにありますよ」
水野はそう言い、カードの包みをチラリと見た。
「浦崎さんには、このカードの効果を知ってほしかったのです」
「脳に何らかの効果が入るカードですか」
「視神経に特有の刺激を与えます。『物理的煽動』だとか、その頭文字を取って『FA』と呼ばれてる原理ですよ。この原理については、ご存知ですよね?」
「ああ」と、警部は頷いた。
確かに、『FA』というキーワードには聞き覚えがあった。
「あくまでも一時的な効果です。時間の経過と共に、効果が終了すれば、また戻ってこれます。継続したければ、またこのカードを見れば良いわけです。つまり、このカードには中毒性が備わっているということです」
「中毒性だって?」と、警部は驚きの声を上げた。
「覚醒剤と同じだってことですか?」
「そうです」と、水野は少しも表情を変えずに、返答した。
「まだ、『知る人ぞ知る』という状況ですけどね。I市内の一部の高校生の間では、すでにかなりのカードが流通した実態があります」
「I市内の高校生だって?」と、再び警部が驚きの声を上げた。
「どういうことですか、それは?」
「これまでの、警部が得られた知識と情報を、自分なりにまとめてみて下さい。そうすれば、おぼろげでも、この異常な状況が想像できると思います」
「私が、これまでに得た知識と情報……」と、警部は思案した。
二十秒ほど、頭を回転させた後、次の人物名を発するに至った。
「オカダイ……」
「そのとおりです。このカードを作成し、流通させているのは岡兄弟の兄の方のオカダイです」
「兄が、いつまでも卒業しないのは、そのためですか?」
「おそらく。でも、それは一要因に過ぎません。他にも私利私欲のために、何かやってるでしょう」
「これは、いつ頃から流通していたのですか?」
「最初の中毒患者が発覚したのが二年ほど前です。当然、それ以前から流通していたことになります」
フウと警部はため息を漏らし、右手の親指と薬指でこめかみを押さえた。
「本庁は、いつから、この存在を把握していたのですか?」
警部は、ゆったりした口調で質問を続けた。
「二年ほど前です。最初の患者が見つかった時です」
「違法取引としての扱いになっているのですか?」
「法的対応は、現在調査段階です。流通量が限定的ですし、下手に本庁が動きを見せれば、無用な『負の流行』を引き起こしかねませんからね。事は慎重に進めなくてはなりません」
「すでに調査員を送り込んでいるのですね」
「扱い物が特殊ですからね。特殊な知識を要する調査員でなくてはなりません。しかも、現場が学校という点も考慮しなくては」
水野は、いたずらっぽく笑った。
「もう、おわかりでしょう?」
「ええ」と、警部はこめかみを押さえる指に力をこめた。
「矢吹パンナ……彼女は潜入捜査官だったのか」
「まだ、法整備ができてない取扱物です」と言って、水野は気の抜けたコーラを口に含んだ。
ここで、初めてコーラの残量を気にし始めた。
「彼女は、いつ頃から捜査官だったのですか?」
「潜入させるタイミングは、もちろん入学時ですよ。入試という課題がありましたが、彼女は賢いですからね。その点は問題ありませんでした。もっとも、彼女の志望校は違ってましたが。でも、その次の課題は彼女の判断で決定されました。生徒会役員への就任ですよ」
「それも、彼女はうまくやった」と、警部が続けた。
「彼女は賢いですからね」と、水野はコーラを含んだ。
「役員以上の座、つまり会長の座を奪ってしまいました。このことで、彼女はオカダイに敵対姿勢を露骨に見せることになります。潜入捜査というイメージは、目立たないようにやるものと認識してますけどね。彼女の行動は真逆でしたね。こういう発想は、私にはありませんよ。まぁ、生徒会に目を付けた理由は他にもありましたけどね」
「どんな理由ですか?」と、警部がすかさず尋ねた。
「前任の生徒会役員の中に、オカダイと癒着していた男子がいましてね。そいつのことはNとしておきましょうか。Nは、生徒会長の側近という立場を悪用して、やりたい放題をしていたということです。生徒会長だった男子に関しては、特に問題が無く、誠実な男子でしたけどね」
水野はコーラを含んだ。
「Nは、『南北平和協定』なんて大げさな言葉を使っていましたね。『南高』は、完全にオカダイの支配下にあり、校内風紀はそれはヒドい有様で、名門と言われている『北高』にも、顕著に影響していました。そこで、Nは『平和』に目を付けたわけです。そのこと自体は良い話なのですが、不幸なのは、Nが『平和』を自己の利益の材料とした点にあります」
水野は、そこでコーラを含んだ。
残量は、あと一口程度まで減少していた。
「岡兄弟は、『南北平和協定』を締結する条件として、Nに二つの要求をしました。一つは先ほどお見せした『FA』を『北高』に流通させることと、もう一つは、これはどちらかというと兄のオカダイの趣味ですが、器量の良い女子を数人紹介することです。この時にNが斡旋した女子数人については、後にこの『FA』による強力な中毒症状で発見され、保護されました」
水野は、残り少ないコーラを飲み干した。
空になったペットボトルを隅に追いやり、隣の椅子においてある革クラッチから、また新たなコーラを取り出した。
よく見ると、ペットボトルのフタは開封され、すでに気抜けの状態にされていた。
「『FA』流通のマージンは、当然にNも受け取っていたわけで、かなり積極的に稼いでいたようです。もっとも『岡産業』という経済的背景を持つオカダイにしてみれば、小遣い稼ぎにもならない程度と思いますが、自由に動かせる人間がいるというのは何かと重宝するのでしょう」
「パンナの苦労が、よく伝わってくるお話ですね」と、警部はいたたまれない表情で、頭を振った。
「その『FA』についてですが、流通しているのは、その一種類ですか?」
水野は「おお」と驚きの声を上げた。
「この後に、お話しようと思っていたことです。確かに、おっしゃるとおり、『FA』にはいくつかの種類があります」
そう言って、水野はグレープ味の炭酸飲料を革クラッチから取り出した。
「ただ、性質が悪いのは、このようにコーラ味か、グレープ味かというような、使用側の好みに合わせた種別ではなく、段階構造になっているという点です」
「どういうことですか?」と、警部。
水野は、グレープ飲料のキャップを緩め、それを口に含んだ。
やはり、炭酸の反応はすでに失われ、気の抜けた状態になっていた。
「さっき、お見せしたのは、レベル1のカードです」
「レベル1?」
「このカードは、使用のたびに効果が段々と薄くなっていくのです。持続時間が短くなり、最後には全く効果が無くなります。つまり、耐性が働くわけですね。連中は、この状態を『クリア』とか、『レベルアップ』とか呼んでますね。継続して、興奮状態を得るためには、もう一段階上のカードが必要です」
水野は、グレープ飲料を置いて、コーラを持ち直した。
「レベル2のカードを入手すれば、新たに効果が得られます。ただし、レベル1カードが無料同然で出回っているのに対して、レベル2以上は有料で取引されています。レベルが上がるほど、高額になっていきます。『レベルアップ』した人間は、もはやジャンキー状態ですからね。どんなことをしても、入手しようとします」
「レベル2も、いずれは『クリア』されてしまいますね」と警部。
水野は、こっくりと頷き、コーラを含んだ。
「これまで押収した限りでは、レベル5までのカードが存在することがわかっています。この点は、仕組みとしてよくできています。というのは、レベルの低い人間が、いきなり高レベルのカードを目にしても効果はありません。つまり、全くの素人がレベル2から始める、というようなことはできないようになっているのです」
「どのくらいの学生たちが、これの中毒になっているのですか?」
「『南高』では、かなりの生徒に流通しているようですね。『権限』の有無に関わらず効果を発揮しますから。『北高』でも、Nによって、かなりのカードが流通していましたが、矢吹さんが払拭してくれました」
水野はコーラを一口含むと、グレープのペットボトルをクラッチに戻した。
グレープは、好みではないらしい。
もしくは、コーラとグレープの混合が気に入らなかったか。
「法整備の方は、見込みがありそうですか」と、警部が尋ねた。
水野は、ムウと唸り声を上げた。
「実は保留になっています。先ほども言いましたが、『負の流行』を恐れています。見るだけで興奮作用が得られる手軽さですからね。全国的に広げてしまうような事態に陥ったら、大変なことになります」
「では、『FA』の所持、販売だけではオカダイは検挙できない、ということですね」
「口惜しいですがね」
水野は、多めにコーラを含み、頬を膨らました。
「ですが、こういったモノは、販売に伴う犯罪というモノが付き物です。例えば、販売を強制する際の暴行、恐喝行為とか、使用者に対する拉致、監禁行為とか」
「いずれも、覚醒剤取締法による罰則に比べれば、軽く扱えるモノですね」
「ですから、拘留期間中に『封印』するのです」
「封印?」
「『FA』による興奮作用というのは、『感染症』の仕組みに似ていまして、体内に受け入れる受容器、この場合は視覚による発動ですが、それを刺激することによって作用するようになっています。レベル1のカードを最初に見た時に、その仕組みが自動的に作られるのです。ですから、『FA』を見ても無反応となるように、『封印』の仕組みを整えれば良いのです」
「パンナは、それに一役買っているわけですね」と、警部は興奮気味に言った。
「一役どころか」と、水野はニヤリと笑った。
「大役ですよ。彼女の役割は」




