四十
「本当に、そんな展開になるだろうか?」
棚田は不安げだが、期待のこもった視線を成瀬に投げた。
成瀬は、自信満々に頷いてみせた。
「矢吹パンナの目標が、校内平和の維持であるというのなら、避けて通れない道だよ。南高との調和が上手くいかなかったら、治安はあっという間に崩壊してしまう。外交能力が必要不可欠なんだ」
「確かに、あの岡兄弟と渡り歩くのは、並大抵のことじゃない」と、棚田も頷いた。
「白のキャンバスに、いきなり思い通りの絵を描くのは無理だよ」
成瀬は、棚田の前で、盛んに身振り手振りを交えながら話した。
まるでヒトラーのようだ、と棚田は思った。
「ましてや、岡兄弟を手なずけるのは困難だということくらいは、彼女にもわかってると思う。つまり、それは」
成瀬の動きがピタリと止まり、したたかな笑みと視線を棚田に向けた。
「ボクたちを生徒会役員に招き入れる可能性があるってことさ」
「本当に、そんなことが有り得るだろうか」と、棚田は、まだ不安げに言った。
その時、コンコンっと、ドアをノックする乾いた音が響いた。
二人はハッとした。
「はい」
棚田の声が、見っとも無いくらいに裏返った。
「矢吹です。矢吹パンナです」
成瀬は、ニンマリと笑った。
(見ろ)
(やっぱり来たぞ)
成瀬は、棚田に肘鉄を何度も食らわした。
「どうぞ。お入り下さい」
棚田の声は、さらにも増して、ヘンテコに裏返った。
「失礼します」
ゆっくりとドアが開き、長身の女子が、つかつかと生徒会用会議室に入ってきた。
パンナは、長身をアピールするかのように、背筋をピンと伸ばした。
椅子に座った視線から彼女の顔を見上げると、天井が低く見えた。
パンナの長い脚は、棚田が鎮座している会長用のデスクのすぐ前で止まり、両腕を下腹部の辺りで緩く結んだ。
「新生徒会長のお出ましだね。当選おめでとう」
棚田はニッコリと笑って、パンナを祝福した。
「ありがとうございます」
パンナは、丁重なお辞儀を返した。
「近くでみると、やっぱり背が高いね。いくつあるの?」
「百八十一センチです」
「選挙演説の時は気づかなかったけど、割と筋肉質だね」
「鍛えてますから」
「水泳は全身運動だからね」
棚田は、愛想よく笑った。
「全てのスポーツは全身運動です。体の一部分だけを鍛えても、意味の無いものばかりです」
「きっと、そうだろうね。ボクは、あまりスポーツをしたことが無いから、そこら辺の事情があまりよくわかってないんだ。もちろん、普段から運動不足は肥満を招く悪要因、という認識は持っているから、できるだけ歩いたり、走ったりするようにしてるんだけどね」
棚田は、チラリと成瀬の方を窺った。
成瀬は、窓の外に視線を向けていた。
「ボクは、根っからのカルチャー系でね」
棚田が楽しそうに話すのを、パンナは黙って耳を傾けていた。
その彼女の後ろに、吸盤でもくっついているかのように、大きな図体の犬飼が身動き一つせず、ただ立っていた。
棚田は、背景の犬飼に警戒の目配せをするが、その後は気にすることなく自分の話を継続した。
「音楽を聴いたり、読書をしたり、映画を観たり、ありがちだけど、そんなことが好きなんだ。ほら、キミもプロフィールを書いただろ。あれの趣味の欄にね、今の三つを書いて思ったんだ。これこそ、万人に通用する共通の趣味だってね。『三大趣味』とも言えるね。別に、モーツァルトを聴かなくたって、AKB48だって音楽鑑賞。別に、トルストイを読んでなくたって、ONE PIECEだって読書好き。別に、アラビアのロレンスを観てなくたって、ドラえもんだって立派な映画だよ。誰でも、何かを聴いたり、読んだり、観たりしてるもんだよ。ちなみに、ボクは、ヨーデルなんて、生徒会長に立候補するまで、関心の欠片も無かった。ボクが高い声を出すと、なぜかみんながおかしがるんだ。そこに、この成瀬クンが目を付けたんだよ。ヨーデルを使って演説しろ、ってね。それから、ヨーデルの発声法とかを勉強して、けっこう練習したよ。
ヨロレイ
それで、この声が出せるようになったんだ。あとは、いつでもこれが出せるように、ノドをいたわったりなんてことも意識し始めてね。部屋を乾燥させないように、加湿機を購入したり」
棚田の指差す先には、しっかりと運転中のコンパクト加湿機の姿があった。
「うがいを心掛けたり、ノド飴を舐めたり、あと食生活にも気を配ってるよ。声が良くなる食事なんてものは無いけど、栄養のバランスを考えて、健康に気をつけるようにしてる。良い声を出すには、健康であることが一番だよ。まぁ、声だけに限らないけどね。何をするにも、健康であることが前提だからね。あっと、おしゃべりが過ぎたね。ボクは、初対面の人には、つい話し過ぎるんだ。自分のことを知ってもらおうと、夢中になっちゃうんだよね。だから、いつも相手が何も語れなくなってしまって、キラわれるんだ。今も、そうだね……ごめん……えっと、ボクに話があるから、ここへ来たんだよね。ボクは黙るよ。これからは、キミが話す番だ」
棚田は、唇にファスナーを閉じる仕草をし、パンナにどうぞと手招きをした。
パンナは、畏まっていた姿勢を崩し、親しみをこめて、棚田に笑みを向けた。
「よろしかったら、私のこともお話ししましょう。聞いていただけますか?」
棚田の視線が成瀬の方を向くが、成瀬は相変わらず無関心。
棚田は、「どうぞ」と返答した。
「私の身長のことは、さっきお話ししましたね。さらに、体重は68.5キロ。座高は116センチ。スリーサイズは、上から92、60、87。足のサイズは25.5。視力は右が少し弱くて、左が1.0で、右が0.6。髪は、今は茶髪にしてますが、放っておくと白い毛が生えてきて、お婆さんみたいになります。名前以外で、これも小学生時代にイジメに遭う要因でした。白髪が生えてくる原因はわかりません。きっと、体質なんです」
「両親とは、うまくいってるのかな?」
棚田の不意を突く質問に、パンナは苦笑した。
「実は、まだいがみ合ってるんです。私が許しませんから(笑) 名前を理由にイジメに遭うようなことは、もう起きませんけどね」
「今やキミは、スーパーアイドルだよ。さすがのボクも、お手上げだった」
棚田は、降参するように両手を見せた。
「キミに選挙で敗れてから思ったんだけどね、やはり三年生の身分で、生徒会長に立候補するのは間違ってたんじゃないかってね。ちゃんとした引継ぎを行うべきだって。キミのような優秀なヒトがいるわけだし、自分にしかできないことがあるなんてものは、思い上がりも……」
「棚田クン!」
突然、成瀬が大声を上げた。
棚田は口を噤み、バツが悪そうに横目で成瀬の方を見た。
「おしゃべりはそのくらいにして、新生徒会長さんの用件を聞こうじゃないか。何か話があって、ここへ来たのだろうからね」
成瀬は、威嚇するような目でパンナを見た。
パンナは、それに対して冷静な笑みを返した。
「私が棚田さんに対しての用件は、今のようなおしゃべりをするためです。新参の生徒会長ですから、色々と教えていただくことも多いと思って、挨拶に伺ったんです。もちろん、成瀬さんにも、お話ししておきたいことがありますよ」
「もったいぶった言い回しだな」と、成瀬は警戒した。
「ボクとの話は、また今度改めて、ゆっくりしよう」
棚田が場の雰囲気を取り繕おうと、パンナに対して愛想をふりまくが、それを蹴散らすように、成瀬の声が突き抜けた。
「どんな話なのかな?」
「棚田さんも気を使ってくれてますし、それでは成瀬さんに対する私の用件を進めさせていただきます。演説会の時を思い出して下さい」
パンナの口調は、一変して冷たさを帯びていた。
「演説会の何を? 場の雰囲気か? それともキミの話の内容か?」
成瀬は攻撃的に口を尖らせた。
どうにも、落ち着き払ったパンナの態度が気に入らない。
「ご自分のなされたお話ですよ」
パンナは、成瀬の方に体を向け、スッと一歩足を踏み出し、間合いを詰めた。
成瀬は後ずさりしたかったが、背後の壁に阻止された。
気づかない内に、すでに何歩か後ずさりを繰り返していたようだ。
「ボクがした話の、どの部分かな?」
成瀬のこめかみ辺りを、一滴の汗が流れ落ちた。
「犯罪発生件数ですよ。一昨年が百十六件に対して、昨年は四件」
「その話か」
成瀬の声色が、急に生き返ったように弾み出した。
「驚くべき成果だと思うよ。『風紀改善委員会』の働きが実に優秀だった。そういえば、キミも『生徒会警察』とかいう類似した組織を発足するらしいね。委員会の名は、別に商標登録しているわけじゃないから、継続して使用してもらっても一向に構わなかったのに」
成瀬は、得意げにパンナに向かって言った。
パンナは胸の前で両腕を組んで、また一歩、成瀬との間合いを詰めた。
「『風紀改善委員会』と『生徒会警察』とでは、趣旨も機能性も大きく異なります」
「自分の考えに酔うばかりでなく、少しは人の話にも耳を傾けた方が良いですよ」
成瀬は、鼻から抜けるような声で言い返した。
「『生徒会警察』は、警察機能そのものを備えています」
「ああ、そうだったね」
「それに関する説明は、演説会で行いました。ご理解いただけているものと思っています」
パンナは、成瀬の胸に杭を打ち込むように言った。
「わかってるよ。『風紀改善委員会』と『生徒会警察』は、確かに異質なモノだ」
成瀬の声は、奇妙に上擦っていた。
その声が、棚田には、まな板の魚の断末のように聞こえた。
「蛭沢桃との取引について、思い当たる節を話していただきたいのですが」
パンナの唐突な質問に、成瀬は落雷に打たれたような衝撃を受けた。
「な……何のことだ?」
「ピンクですよ。『南のスケバン』。彼女のことはご存じですよね。成瀬(元)外交委員長」
パンナは『もと』を強調して、成瀬を旧職位づけで呼んだ。
「もちろん知ってるよ。ボクも生徒会に身を置いていたわけだからね。だが、知っているのは外交委員長として接した彼女の印象だけだ」
「それはウソです」と、パンナは自信満々に言い放った。
「そんなはずはないでしょう。外交委員長として接しておきながら、上澄みしか見ていなかったなんてね」
「キミには、外交委員としてのデリケートなスタンスなど理解できないだろう」と、成瀬は反論した。
「外交は、仲良しクラブじゃないんだ。お互いが牽制しながらも、主張したいことは確実に相手に伝えなくてはならない立場だ」
「ならば、相手の主張は理解できましたか?」と、パンナは尋ねた。
「答える必要は無いね」と、成瀬はすげなく答えた。
「答えてほしいですね。犯罪に関わっているのですから」と、パンナは言った。
「何だって? 今、犯罪と言ったのか?」
棚田の張り裂けそうな声が、室内に響いた。
「成瀬クンが犯罪に関わったと言うのかい? いったいどういうことなんだ? キミたちは何の話をしてるんだ?」




