四
「面倒だわよ」と言って、西藤有利香は、手に持っている『チーズ蒸ケーキ』にかぶりついた。
「どうして、私なんかを選ぶのかしらよ?」
「良い性格だからだよ」
隣りに座る美園玲人が笑った。
二人は、西校舎裏にある日当たりの悪い銀杏の木の下に、並んで座っていた。
地面には金色の落ち葉が敷き詰められていて、座り心地の良い絨毯のようになっていた。
「良い性格には、悪い性格が群がるんだ」
玲人が吐き捨てるように言った。
「面倒だわよ」
有利香は、再び不満をもらした。
緩い風が吹き、白いヘアバンドから垂れている前髪を、フワリと揺らした。
アーモンド型に大きく開かれた瞳は、視線の先にあるものを見つめるのではなく、どこか宙を漂っているように見えた。
有利香の足元には、いくつもの『チーズ蒸ケーキ』の空袋が散在していた。
玲人は空袋の一つを手に取り、印字されている成分表示を見た。
「四百七十六キロカロリー」とつぶやくと、今度は袋の数を数え始めた。
「四個か。合計千九百四キロカロリー。一日に必要なカロリーは、とっくに摂取してるね」
玲人は、あきれ顔で言った。
いつもこんな感じだが、身長百四十一センチ、体重三十三キロの姉の体格に、改めて首をかしげた。
突然、有利香が立ち上がった。
「どうした?」と、玲人。
「ちょっと隠れるのだわよ」
有利香は玲人に視線を向けたまま、銀杏の木の裏に回った。
「美園クン」
有利香とすれ違うように、女子が近づいてきた。
玲人のクラスメートの朝間倖奈である。
「ここで何してるの?」
有利香が隠れた理由を、玲人は納得した。
「ひなたぼっこさ」
倖奈は吹き出した。
「陽なんか当たってないよ。しっかり陰ってて、肌寒いくらい」
「でも、静かだ」
「何言ってるの」
倖奈はフフッと笑いながら、上目使いで玲人を見つめた。
パッチリ開いた瞳は、陽が当たらなくても、キラキラと輝いていた。
「何で、こんなとこに来たんだ? この先は行き止まりだし、楽焼クラブの窯小屋があるぐらいだよ」
「ちょっと、そこまで不燃ゴミを捨てに来ただけ」
倖奈は、ゴミ置場の方を指差した。
「そしたら、美園クンが一人で、ここに座ってるのが見えた」
玲人は、有利香が隠れている銀杏の裏側を気にし、笑みをこぼした。
「淋しそうだったから、声かけてやろうかなって」
「恵んでくれたってわけだ」
「そうそう。感謝してね」
「座れよ」
玲人が、自分の隣の空間を指差した。
今しがた、有利香が座っていた場所だ。
倖奈は頬を桃色に染めながら、玲人の隣に腰を下ろした。
眉のところで切り揃えた前髪が、揺れ動いた。
「何だか、ゴミが多いね」
倖奈が散在している『チーズ蒸ケーキ』の空袋を指差した。
「美園クンが食べたの?」
「最初から落ちてたんだよ」と、玲人はごまかした。
「川端先生にゴミ捨てを言いつけられたの」
「体育教官の?」
「人使いが荒いの」
「倖菜は何部だっけ?」
「バスケ」
「ユニフォーム着てないけど」
「練習、終わったの。テスト近いしね。帰ろうと思ったら、川端に捕まって。最悪」
「倖奈にテスト勉強してもらいたくないんだよ」
「何それ? 意味わかんない」
倖奈は、ケラケラと笑った。
「そろそろ帰るね。美園クン」
倖奈が立ち去ろうとすると、すかさず玲人は彼女の腕を掴んだ。
「何?」と、倖奈は驚き、玲人を見つめた。
玲人のギラギラと輝く瞳が、倖奈の瞳を突き刺した。
倖奈は、とっさに視線を逸らしたが、様子を窺うように、おそるおそる玲人に視線を戻した。
鋭い視線は変わっていないが、少し慣れた倖奈は、瞳を見つめ返すことができた。
ゆっくりと玲人は立ち上がり、倖奈に近づいた。
倖奈はドギマギして、立ち去ることも出来ず、玲人の接近を許した。
玲人の両手が、倖奈の両肩にのった。
反射的に、倖奈は体を萎ませた。
「……やめて……美園クン……」
倖奈の抵抗する声が、はかなく響いた。
玲人は、倖奈の目をじっと見た。
倖奈の体は、配線が切れたように体に力が入らなかった。
玲人の顔が近づいた。
シトラス系コロンの甘酸っぱい香りが鼻を刺激した。
倖奈は目を閉じた。
柔らかい感触が唇に広がた。
何も聞こえなかった。
頬を掠めていた秋風も、今は感触が無かった。
時の流れが感じられず、短い時間だったようにも、ずいぶんと長い時間だったようにも思えた。
気が付けば、両手を玲人の背中に回していた。
密着する唇同士を引き離したのは、玲人の方だった。
とたんに倖奈の顔が赤くなり、玲人に背を向け、逃げるように走り出した。
玲人は、倖奈の後姿をじっと見守った。
「やっぱり、やるしか無さそうだわよ」
突然、背後から発する声に、玲人は驚いた。
いつの間にか、有利香が銀杏の表に出て来ていた。
「姉貴、まだ出て来るなよ。今、あの子に振り返られたら、姉貴のことが気づかれちまうよ」
「あの子は振り返らないわよ」
有利香は、自信満々に言った。
「そうか。姉貴には、もうわかってるんだったな」
「あの子との面倒は、どうするつもりなのかしらよ?」
有利香は、逃げていく倖奈の背後を、ノラ猫でも見るような目で見つめた。
「後始末が大変そうだわよ」
「オレは姉貴と違って、こういうのを面倒だとか、無駄だとか思わないんだよ。それより、さっきの話だけどさ、何をやっつけるって?」
「……ああ」
有利香は、気が抜けたように応答した。
「一人ずつ追いかけていくのは効率が悪いし、相手に考える時間を与えてしまうリスクもあるわよ。やっつけるなら、一度に全滅させなければダメなんだわよ。相手は三人。『干渉ズレ』も考慮しなくてはならないけど、大して影響は無いわよ。気がかりは、あの生徒会長さんが、どこまで関わってくるかだわよ」
「矢吹パンナか……」と、玲人がつぶやいた。
「あの人は強いわよ。攻撃力も、精神力も。なるべくなら関わってほしくない」
「名前は変だけど、キレイな人だ」と、玲人は、矢吹パンナの美麗な姿を思い浮かべる。
「二人で力を合わせて、何とかするしかないのだわよ」
有利香の瞳から冷たい光が放たれた。
玲人は息を飲んだ。
こういう目をする時の姉は、かなりヤバいことを考えていることを、これまでの経験で知っていた。
「右手を出しなさい。作戦の詳細を送ってあげるのだわよ」
「オレたちのやり取りを聞けるヤツなんか、そこらにいないよ」
玲人は不満をこぼしながらも、有利香に右手を差し出した。
有利香は、小さな手で玲人の手を握り締めた。
「すぐに準備にかかりなさい」
玲人は、恐れをなすような目で有利香を見た。
「危険過ぎるよ」
「タイミングは、私が判断するわよ」
玲人は、むうと唸り声を上げた。
「姉貴がそれしか方法が無いって言うのなら、そうなんだろうな」
「そのとおりなんだわよ」
有利香は優しい目をして、玲人の頬に手の平を当てた。
「キミが私を助けたいと思うなら、私を信じて行動しなさい。私はキミを信じて、この面倒を乗り切るわよ」
「ややこしい言い方。つまり、姉貴が信じるオレを信じることになるから、自信を持てってことかな」
有利香は、ニッコリと笑った。
「昨日頼んだアレ、出しなさい」
玲人は、ズボンのポケットから小さなカギを取り出し、有利香に渡した。
有利香は、カギを握り締め、上着のポケットにしまった。
「これはお芝居と同じだわよ。脚本どおりに演じられるかどうかなのねよ。重要なのは、動揺して大事なタイミングを逃したりしないこと。わかった?」
「姉貴の言いたいことはわかってるよ」
玲人は後ずさり、有利香から離れた。
「時間があまり無さそうだから、オレは行くよ。オレの役割を確実に果たさなくちゃな」
「結果がすべて、なのだわよ。方法は大して重要じゃない」
「結果はわかってるんだ。できるだけカッコ良くキメてやる」
「動揺しちゃダメなんだわよ」
玲人はニッと笑い、有利香に背を向けた。
有利香は、じっと玲人の後姿を見つめていた。