三十六
厚さ五センチはある助手たちの研究日誌をデスクの上に平置きにし、肘掛椅子の両側に無駄なく肘を置いて、背筋を伸ばした姿勢で顎を引き、文面の一字一句を辛抱強く目に焼き付けようとしている篠原教授の集中力を削いだのは、何気なく頬に吹き付けたそよ風であると思いきや、誰かが教授のそばまで近づいてくる際に、押し出されてきた気流であった。
「今日は何かね?」
教授は、そばに来た人物を見向きもせずに話しかけた。
教授を取り巻く気流から、希薄な花の香りが漂えば、それが若い女子であることが容易にわかった。
そして、その女子は、ポケットから金属製の装具を取り出し、間もなくして、シューという音を立て始めた。
教授は、その音の意味が瞬時に理解できた。
「おい、おい、正気か?」
教授は慌てて音を立てた主の方に顔を向けた。
そこには、直径二センチ程度だが、心臓に直撃すれば致死量とも言える量の『光弾』を発射寸前まで練っていた梨菜の姿があった。
「やっと、こっちを向いた」と、梨菜ははしゃいだ。
「一度練りこんだ『光弾』は……」
教授はおそるおそる、それを指差した。
「消費する以外に引っ込めることはできないぞ」
「これはね」
梨菜は、『筆』の先に丸く集まっている『光弾』を、パクリと口の中に入れた。
教授の両方の眉が高々と上がった。
梨菜は、愉快そうに教授の方を横目で見ながら、口に入れたモノを頬のあちらこちらを膨らませ、まるでガムのようにモグモグと噛み、やがて飲みこんでしまった。
「何てことを……」
教授の声が細くなった。
「は・か・せ」と、梨菜は言い、横目使いをやめずに、ニンマリと笑った。
教授は姿勢を変えず、視線だけを梨菜に向けた。
「見たぞぉ」と、梨菜は帳面程度に切り抜いた新聞記事を得意げに広げた。
それには、『量子エネルギー変換理論を展開』という横書きの主見出し、主席研究員である篠原教授に名誉博士の称号が贈られることになった旨の袖見出しと、エネルギー資源としての『マジック・アイ』を万能エネルギーとして活用することが可能な理論を展開し、学会での注目を集めている旨の前文までに、ピンク色の蛍光ペンが走っていた。
「これからは先生のことを『はかせ』と呼びます」と、梨菜は楽しそうに宣言した。
篠原教授……もとい、篠原博士は、不服そうに唇をへの字に曲げた。
「このアカデミーに加わる以前から、私は博士だよ。それに名誉博士となってるはずだが……」
「長いのはキライ」
梨菜は、即座に篠原博士の不服申し立てを却下した。
「私の中で、先生は『はかせ』になったの。これからそう呼びます」
まるで祖父と孫の会話だな、と博士は思い、フンと鼻で笑った。
「で、博士が『エネルギー変換』と言ってる内容ですけど……」
梨菜は主見出しを指で横方向になぞりながら、こう続けた。
「間違っていると思います」
いきなりの否定に、またもや博士の眉が上がった。
「名誉博士の理論に、間違いがあると言うのかね」
「博士は、まだまだだと思います」
「厳しい評価だね」
博士は唇をへの字に曲げながら、「キミの意見を聞こう」と、梨菜を促した。
「まず『変換』という表現が違います」
梨菜は語りながら、そばにある椅子を引き込んだ。
「正しくは『選択』だと思います。『マジック・アイ』は、初期のエネルギー体として『中立』であり、『権限者』の意思決定により、指定したエネルギー特性を持つようになるのです。熱エネルギー、電気エネルギー、運動エネルギー、エトセトラ、エトセトラ……つまり、『選択』により姿を変えるということです」
「ふむ」と、博士は梨菜の意見に素直に頷いた。
組み合わせた両手を自らの胸の上に置き、「そう来ると思ったよ」と、博士は勝ち誇ったような顔をしていた。
「『権限者』の視線で表現すれば、確かにキミの言うとおりだが、『権限』を持たない読者に伝えるには、『選択』より『変換』の方が伝えやすいから、レポートにはそのように表現したのだよ。『中立』のエネルギー体の存在なんて、『権限者』でなければ想像できないだろうからな」
「でも、正しい表現でなければ誤解を生みます。おそらく半分くらいの人は、『マジック・アイ』は自由に変換可能なエネルギー体であると解釈していると思います。博士のレポートのせいで」
「まぁ、私が責任を感じるほどの話でもなさそうだがな。無知は罪なり」と、博士がすげなく言ったところへ、梨菜は「知は空虚なり」と、強かに繋げた。
「他に言いたいことは?」と、博士は欠伸まじりに声を出した。
「『マジック・アイ』のエネルギー変換には、『権限者』の吹き込む『意志』の強さが伴わなければなりません」と、梨菜は主張した。
博士は、またもやフンと鼻を鳴らした。
「博士のレポートには、その性質に関しての展開が全くありません」
「確かに」と、博士はニヤリと笑った。
梨菜も負けじとニヤリと笑った。
「わざと言及しなかったのですね」
「まぁね」と、博士は勝ち誇った笑みを崩さなかった。
「今回の学会発表は、研究員たちのモチベーションと、私のステータス維持のためにも、必要だという大義名分の元での行動だよ。だが、ヒントを与えすぎる必要もないだろう。特に、『疑似権限者』の製造に熱を上げておるような連中に対してはな」
「失望させてやっても良かったんじゃないですか」と、梨菜。
「『光弾』を発射させるだけでも、相当に強い『意志』が必要だっていう事実を」
「あの連中は愚かだが、侮れないところがある」
博士は両方の肘掛に腕を当て、腰を浮かせながら言った。
「『権限者』の『意志』の強さが『光弾』の威力を向上させる、などというヒントを与えれば、すぐにでも強化した『疑似権限者』集団を結成してしまうだろう」
「にわか仕込みの『疑似権限者』の『意志』なんて、たかが知れていると思いますが」
梨菜は、博士の真似をして、フンと鼻を鳴らしてみせた。
「微々たる強化手段でも、あの連中は利益を生む軍事に仕立て上げてしまうだろう」
「博士の理論展開を待ってくれているような人たちなんでしょうか」
博士は立ち上がり、扉の方へ歩き出した。
「喫茶室で、お茶でも一緒にどうかね」と、梨菜に声を掛けた。
「私と行くと高くつきますよ。相手が誰であろうと、例外なくミックスベリータルトとミルクティーのセットを注文しますから」




