三十五
オカダイが完全な麻痺状態になったことを確認し、玲人は歓喜の声を上げた。
「すぐに、ここを離れるのだわよ」と、有利香は冷静に言った。
「コイツに、とどめは刺さないのかよ」
玲人は不服そうに言った。
有利香は、玲人の手を優しく握った。
「時間がかかるのだわよ。すぐに、ここを逃げないと面倒なことになるのねよ」
「面倒?」と、玲人は首を傾げた。
「この騒動の本当の当事者が……おそるべき人物が、あと五分くらいでここに来る。その前に、逃げるのが得策なのだわよ」
「姉貴の作戦は完了してないよ」と、玲人はまだ口を尖らしていた。
「もうすぐここに来る人は、私の手に負えない人なのだわよ。逃げるしかないのねよ」
いつになく弱気な有利香の発言に、玲人はうろたえた。
「姉貴の手に負えないって……ここに来るのは、コイツの弟じゃないのか?」
有利香は、首を横に振った。
「とにかく大変な人なのだわよ。キミもよく知ってる人」
「え?」
玲人は、さらに動揺した。
有利香は、握り締めた玲人の手を引き、バイクの方へ導いた。
玲人は抵抗せず、有利香の導かれるままに歩いた。
「ホントにいい子。私が、キミを守ってあげるのだわよ」
有利香は、囁くように玲人に言った。
「守るのはオレの役割だよ。オレが姉貴を守るんだ」と、玲人は強がった。
二人は、バイクの駐車場所までたどり着くと、素早い動作で二人乗りし、消灯したまま山道を下った。
オカダイは、視覚だけが有効で、闇の中に吸い込まれていった二人の方角を黙って見届けるしかなかった。
二人と入れ替わるように、闇で黒く染まった空に、二つの眩しい光が現れ、オカダイが横たわっている現場を目がけて向かってきた。
光は現場に近づくにつれて、徐々に大きく膨らみ、やがてパタパタという騒音が、はっきり聞こえ始めた。
オカダイは、嘆願するように目を潤ませ、その光の動きを見守っていた。
次第に辺りの風が強まり、大量の砂塵と耳をつんざくような激しい騒音を撒き散らした。
オカダイには、それが岡産業所有のヘリコプターであることを認識していた。
ヘリコプターは、オカダイのできるだけ近くに着陸しようとした。
突風がオカダイに向けて吹き荒れ、とても目を開けていられる状況ではなかったが、全身麻痺状態となっていては、当然に瞼を閉じる動作すらできず、まともに目の中に大量の砂塵を受け入れることとなった。
この仕打ちこそが、後々にオカダイがこれまでで一番ヒドい拷問であったと嘆き続ける経験となった。
狭い山道であったが、ヘリは着陸が安定し、羽の動きが緩くなり、やがて停止した。
乱暴に開け放たれた扉から、黒いハイヒールを履いた白く細い脚が二本、外に放り出され、宙に舞い、スタッとキレイに着地した。
薄紫色のキャミソールにジーンズのショートボトム、白いタイプライターブラウスの前ボタンを留めず、乱暴に羽織るという出で立ち。
栗色のショートのふんわりとしたソバージュヘアで、三十歳前後くらいの女に見えるが、実年齢は四十歳そこそこ。
そして、アーモンド型の大きめの目をした美人。白いヘアバンドを着ければ、まるで有利香が成熟したような雰囲気を漂わせていた。
「ツメが甘かったね」と、その女は率直な感想を述べた。
「最後の五分前に、あの子に感づかれてしまった。『情報削除器』が最後まで発動してれば、あるいは違う結果になったかも」
「それは厳しい意見ですね、仄香さん」と、後から降車してきたオカショーこと岡将が言う。
緑色がかった灰色のツナギ姿で、胸に『岡産業株式会社』と光沢のある糸で縫い込まれた刺繍に、ヘリが放つ前照灯が反映し、輝きを見せていた。
「有利香さんの手強さは想定していたじゃないですか。相手は、二百超えの知能指数(IQ)の持ち主です」
「私の血筋だからね」
仄香と呼ばれた女は、胸の前で腕を組み、吐き捨てるように言った。
ボトムに仕舞われていないブラウスの裾が、無配慮にヒラヒラと舞っていた。
「賢いのも、手強いのも想定内よ」
「『光弾銃』も用意されていました」と、オカショー。
「性能面でも、割と高技術な機器でした。誰が、あの二人に差し入れしたか、その点も気になります」
「こちらでなければ、あちらでしょ」と、仄香はすげなく言った。
「『情報』のかけらも奪えないとはね。期待はずれも良いとこ……」
そこまで言って、仄香は下唇を噛み締めた。
仄香は、身動きが取れないオカダイのそばに立ち、怒りと軽蔑に満ちた目つきで睨んだ。
哀れなオカダイは、フリーキック直前に据え置かれたサッカーボールである。
細い目にガラスビーズのような丸い粒の涙を並べ、盛んに許しを乞うている。
仄香は、鼻をフンと鳴らし、ハイヒールの右脚を振り上げると思いきや、右手をボトムのポケットに入れ、すぐさま中に収まっていた『筆』を人差し指に装着し、銃口をオカダイに向けた。
「仄香さん!」
オカショーが驚きの声を上げるより早く、仄香は銃口に集まっていた何本もの細い『光弾』をオカダイの顔に向けて発射した。
「火花」と、仄香が唱えると、電線をショートさせたような音が響き、オカダイは白目をむいて気絶した。
「うるさくしゃべり出す前に、また眠ってもらったの」と、仄香は説明した。
「さっき、有利香さんが玲人クンに指示していた攻撃方法ですね」
オカショーは冷静を装って言うが、左脚が震えていた。
「こういう知恵を引き出せる点でも、あの子の利用価値は高いの。当社の事業にも役立つでしょう」
「確かに。それを、すぐに『再現』できてしまう仄香さんもスゴイです」
オカショーは、目を輝かせていた。
仄香は、首を横に振る。
「でも、失敗に終わったのね。『伝承』に関する情報が得られれば、私の夢の実現に、もっと近づけたかもしれないのに……まぁ、終わったことを悔やんでも仕方が無いわね。次のことを考えましょう」
「玲人クンは、どうするんですか?」と、オカショーが仄香に尋ねた。
「すっかり有利香になついてしまったわ。まぁ、放っておきましょう。その内、有利香を味方に付けてくれるような感動的な展開を導いてくれるかもしれないしね」
「何だか、投げやりですね」と、オカショーが肩をすくめた。
「あの子は『擬似権限者』。それ以上のモノは無い」
「でも、『情報型』『攻撃型』、それに『蓄積型』、全ての側面を備えていますよ。人間の思考手順の性質と格納許容量の理由から、わが社の技術では、どうやっても一人にどれか一つしか導入できないのに……」
「それも、有利香の偉業」と、仄香は皮肉をこめて言った。
「その方法を有利香が生み出したのよ。何とか、身体構造を分析して、情報を取り出したかったんだけど」
「そういう重要な情報は、もっと早く教えてほしかったですね。有利香さんの能力に対する価値について、事前に知らされることなく、作戦が進んでしまいました……」
「さ、片づけようよ」と、仄香は話題を切り替えた。
「焦げ跡一つ残さないようにね。特に『幻影』の欠片を残さずにね。それにしても、丸野クンだったっけ? 気の毒だったわね。爆発に巻き込まれて……」
「あなたの息子がやったんですよ」
オカショーは憮然として言った。
「暗い中、撤収作業をやらされる身にもなって下さい」
「ああ、もう!」
仄香は、うんざりしたような悲鳴を上げた。
「有利香は諦めた! 次の標的に集中する!」
「正直言って、私は気が進みません」
オカショーが、声を震わせながら言った。
「有利香さんとは比較できる要素が違いすぎて、何とも言えませんが、難易度は高いです」
仄香は、オカショーを見て、フフッと笑った。。
「意外ね。キミが望んでる話だと思ったんだけど」
「そんなこと……」と、オカショーは両手の拳に力を込めた。
「どうしても……矢吹さんですか?」
「どうしても矢吹パンナさんよ」
仄香は言うと、両手を天に向け、全身を伸ばす運動をした。
「人選と方法はキミに任せる。矢吹さんを私のところに連れてきて。私ね、ホント言うとね、有利香より矢吹さんの方が可愛いし、好みなの。彼女と仲良しになりたい」
「うう……」
オカショーはうな垂れながらも、ヘリに同乗していたチームに現場撤収の指示を出した。




