三十二
「まず、十七時十五分頃に、丸野が管理室にドアが開かないと通報をしています。すぐに、こちらの」
屋高は、自身の横に立つ女性の方へ手の平を向けた。
見た目が四十半ばくらいの女性が、屋高の仕草に合わせ、軽く会釈をした。
「管理人である海老原さんが駆けつけました。その時は、正規のコードではドアを開けられなかったそうです。セキュリティ・コードの変更は、海老原さん以外では管理警備会社のスタッフにしかできないということですが、一時的に開けられなかった理由が、コードの変更によるものが原因だったかどうかは、定かではありません。今では、こうして正常に出入できるようになっているわけですからね。ドアが開かない状態について、海老原さんは手に負えなかったので、管理警備会社に連絡を入れようと、事務室に戻ったそうです。ドアから離れていた時間は、ほんの五分程度ですが、戻ってきた時には、すでに丸野の姿は無かったそうです」
「セキュリティ・システムは元に戻っていた?」と、訝しげにセキュリティ・ドアの操作盤を眺めている浦崎警部が声を上げた。
「はい」と、屋高が返答した。
「この操作盤に残っていた指紋は採取したかね?」
「まだです。おそらく、マンションの住人たちが、出入りのために触っていると思いますが」
「念のために調査してくれ。発見は何も無いかもしれないが、それでも念のために」
「承知しました」
屋高は、付き添っていた担当官に、指紋採取を指示した。
警察関係者と住民の出入のため、ドアは開け放たれた状態にされた。
「海老原さん」と、警部は女性管理人に話しかけた。
海老原は、緊張気味に警部の顔を見た。
「仮に、セキュリティ・コードが他の番号に変えられたとするなら、あなたは、それをすぐに元に戻すことができるのですよね?」
「通常の変更操作ならできます」と、海老原は回答した。
「でも、先ほどの状態は、明らかに正常ではありませんでした。キー入力が、全く受け付けられなかったのです。ピッピッというキー入力音はしていたので、システムが停止した訳ではなさそうですが」
「それで、管理警備会社の技術員を呼んだのですね」
「はい」と、海老原は管理室の方に目配せした。
「今、管理室の方で事情聴取を受けています」
警部は、操作盤の指紋採取の様子を観ている屋高に、そばに来るよう手招きした。
「何ですか?」と、屋高は近寄ってきた。
「今、ここに来ている警察官は、全部で何人かね?」
「今のところ三人ですが、応援を要請しています。どうやら、五階で銃火器を使われた形跡があって、一人がその捜査に当たっています」と、言って、屋高は疲れ気味ながらも、力強く拳を握り締めた。
「オカダイの部屋は五階だったな?」
「はい」
「屋高クン、キミは五階の捜査に当たってくれ。それと、ついでに管理室にいる技術員に、ここに来るように伝えてくれないか」
「承知しました」
屋高は、そそくさと開きっ放しのドアを潜り、管理室の方へ駆けていった。
「それで、海老原さん」と、警部は海老原に対する事情聴取を再開した。
「その、ウンともスンとも言わない状態になった原因を、技術員は解明できましたか?」
「それが……技術員が来た時は、システムは正常に戻っていましたので、わからず終いです。異常事態が再現できなければ、原因の追究はできないようでして」
海老原はそう答えると、靴の爪先で地面を打った。
「まぁ、そういう経験は、よくありますね。私も家のエアコンが動かなくなったんで、電気屋に修理に来させたら、どういう訳か何もしない内に直ってるんです。どうやっても、さっきの異常な状態が出てこないんで、直す所が無くなりましてね。結局、簡単な清掃だけして帰りましたよ。それでも、出張料で一万円ふんだくられましたがね」
警部は、自分の経験談を思い出し、悔しそうな顔をした。
海老原は、何とも反応しがたい表情で、警部の話に耳を傾けた。
パンナと犬飼は、捜査の邪魔にならないようにと離れた場所に並んで立っていたが、話の内容が聞こえたのか、パンナはクスクスと笑った。
「話が逸れてしまいました。それで、技術員は、その異常な状態になる原因とか手段は、見当が付かないと言っているわけですね」と、警部は海老原に尋ねた。
「はい。これと同等のセキュリティ・システムを導入したマンションは、この地域内にいくつかありますけど、そういった異常症例は、今までに発生したことが無いそうです」
そこへ、胸に警備会社のマークを縫い付けた制服姿の技術員が、警部に近寄ってきた。
ふっくらした頬をした四十手前くらいの太った男で、青みがかった制服の前ボタンが一つ外れ、丸々と膨らんだ腹が外に出たがっていた。
「すいません。私をお呼びになられたそうで」
技術員は怯えた様子で、警部に話しかけた。
「お名前は?」と、警部が尋ねた。
「柴田です」と、男は名乗った。
ヒゲがキレイに剃られた頬に、唇を動かすたび、深いえくぼがあちこちに出現した。
「セキュリティ・システムの異常発生について、お尋ねしたいのですが」と、警部は言った。
「操作盤が反応しなくなったということらしいのですが、何か考えられる原因はありますか?」
柴田は、数秒間、思案に耽る様子を見せるが、結局は首を横に振った。
「思い当たりません」
「システムに欠陥があるという報告は?」
警部は、粘り強く尋ねた。
「今のところ、聞いておりません」
柴田は、何を尋ねても、困ったような顔を見せながら、「わからない」「聞いていない」というような返答を繰り返すばかりだった。
技術員への聞き取りに見切りをつけた警部は、「パンナ」と、彼女を呼んだ。
パンナは、名前を呼ばれてムッとした顔を一瞬見せたが、早足で警部に近寄ってきた。
「キミの協力をお願いしたいんだけど」
「私の?」と、パンナは首を傾げた。
「海老原さんが話していた異常な状態を聞いただろう。キミが同じ状況を再現できるかどうか確かめてほしいんだ」
「私は、機械のことはわからないよ」
「この事件には、『権限者』が関わってるんだ。ならば、実際に『権限』を持つキミに協力を求めるのは、当然の流れだろう?」
パンナは、フウとため息を漏らしながらも、指紋採取の終わった操作盤の前に立った。
「もう、触っても良いんだよね?」と、パンナは尋ねた。
警部は、担当官に向けて目配せし、担当官はそれに対して親指を突き出した。
パンナは操作盤をじっと見つめたまま、静止していた。
操作盤には触れようともせず、小さな顔の割に大きな瞳で操作盤の隅々を眺めているだけだった。
「やあ。ずいぶん背の高い女の子ですね。あの子も警察関係者なんですか? いったい、何をやってるんでしょうかね?」
技術員の柴田が茶々を入れるが、警部は人差し指を口に当てた。
一分あまり静止していた後に、パンナはフッと笑顔を見せた。
「何かわかったのかね?」
すかさず警部が声を掛けた。
パンナは、右手の人差し指を操作盤に向けて、四回垂直に振り下ろした。
すると、開放されていたドアが脈を打つように震え、すでに全開しているにも関わらず、さらに開こうとするような動作を何度か繰り返し、五秒ほどしてドアが閉まり、動かなくなった。
「こんな感じかな」と、パンナは操作盤から離れた。
「どうなったのかね?」と、警部が尋ねたが、パンナは何も答えなかった。
「もしかして……」
海老原が操作盤に近づき、暗証コードを入力した。
ピッピッと操作音は鳴るが、ドアは反応を示さなかった。
「これですよ! この状況だったんです」と、海老原は大声を上げた。
柴田は、信じられないというように目を丸くしながら操作盤に駆け寄って、同じように操作をした。
「な、何で? どうなったんですか?」
「何をやらかしたのかな?」
警部は、後ろで涼しそうな顔をしているパンナに尋ねた。
「異常事態の再現」と、パンナは言い、いたずらっぽく笑った。
「『9976』とコードを打つと、こうなるんだ。システムの欠陥かどうかはわからないけど、始めからこうなる仕掛けになってるみたいだね」
「『9976』といえば」と、柴田が思案を巡らせながら言った。
「システムの製造時に、管理プログラムを起動するテスト用のコードですよ。完成時には消去してしまうはずですが、まさか消去が不完全だったんじゃ……」
柴田はぶつぶつと呟きながら、操作盤の前に立ち、修復作業を試みた。
「驚きました」
海老原が目を潤ませながら、パンナに近づいてきた。
「なぜ、わかったんですか?」という質問に、パンナは肩をすくめた。
「おじさん、説明してあげて」
「え……あっ……いえ、その……」
突然、回答を振られて、警部はあたふたした。
「この子は、私の姪ですがね、何となく勘が良いんで、警察の仕事を手伝ってもらってるんです。今みたいに気の利いた答えを出してくれるんでね。とても助かっていますよ」
「そうなんです。何となく勘が働いちゃうんですよ」
パンナは警部の言葉に合わせて、フフンと笑った。
「どうしてわかった?」と、警部がこっそりとパンナに尋ねた。
「状況から考えられる選択肢を洗い出して、結果が一致するまで『予測』を繰り返したんだ。この場合だと、操作盤に何を入力したら異常事態が発生するかを試しただけだから、割と簡単だった。根気良くやれば、必ず成功するよ」
「コードは四桁だから一万通りあることになるぞ。一万回計算した割には、答えを出すのが早かったな」
「一万回は最大の場合でしょう。私は、「9999」から一つずつ減らして試したから、二十三回目で答えが出たよ」
パンナは、あっさりと答えた。
「システムの欠陥に気づけたところが大したもんだ」
「この近辺に残されてた『情報』の助けもあるけどね。早く答えが出せるかどうかは運もあるよ」
パンナは得意顔でそう話し終えると、とたんに笑みを消し、真顔を警部に向けた。
「ところで、話は違うけど、丸野がここにいた十七時十五分前後に関する『情報』が、極端に少なくなってるのが気になる。オカダイの何らかの企みが働いてることは間違いないけど、それだけじゃないよ。おじさん、ここまで捜査してきて、何か気づかない?」
「何かって?」
警部は、パンナの疑問の趣旨が、すぐには理解できなかった。
「丸野とオカダイを追ってここまで来て、もしかしたら、背景にオカショーがいるのかもしれないけど、関係者はわかってるのに、この核心が全く掴めていないんだ。つまり、標的とされた女子が、いったい誰かということ」
パンナは補足し、警部は理解した。
「その事か」と、警部は口元を引き締めた。
「私も、女子生徒に関する情報が全く手に入らない状況が気になってたんだ。これは、被害者と思い込んでいた女子生徒が作り出した状況なのかもしれない」
警部の見解を聞き、パンナは満足そうに微笑んだ。
「岡兄弟が、私に知られないように何かを手に入れようとしているか。それとも、私の手に渡らないように消そうとしているのかもしれない」
その時、警部の上着の胸ポケットに収まっていた公用携帯電話に着信が入った。
警部は、発信者が屋高であることを電話機のサブ画面で確認し、着信に応じた。
「そうか。わかった」
警部はすぐに電話機を戻し、パンナの顔をじっと見た。
「屋高クンから報告があるそうだ」
その後に、管理人の海老原に声を掛けた。
「どこか打ち合わせができるような場所はありませんか?」
海老原は、マンション内の『コミュニティ談話室』と掲示された部屋に一同を案内した。




