三十
オカダイのマンションへ向かう車中。
運転は屋高。
誰も会話を交わすでもなく、後部座席のパンナは、窓の外の風景をぼんやりと見つめていた。
その横の犬飼は、握り締めた両手を膝の上にのせ、彫像のように動かないでいた。
車内には沈黙が充満し、時折、カーナビゲータで設定した音声案内だけが淋しげに響いた。
屋高は沈黙を破ろうと、パンナに話しかけた。
「オカダイとは、どんな人物なのでしょうか?」
「『北校』の生徒です」と、パンナは簡潔すぎる答えを返した。
「学年は三年生?」
「いえ、二年です」
「矢吹さんと同学年なんですね」
「年齢は二十一歳です。留年を続けているんです」
「留年……」と、屋高の声が裏返った。
「ワザとやってるんです。単位の取得をギリギリのところで落とすんです。でも、学費は真面目に払い続けていますから、学校としては、追い出すわけにはいきません」
「犯罪の臭いがするな」と、警部が割って入ってきた。
「学校に身を置いて、何か都合の良い状況を維持してるんだろう」
「さすが、おじさん」
パンナは、嬉しそうに警部に笑みを向けた。
学校から車で二十分程度走らせた場所にある住宅地の狭い路地を、四度ほど右左折を繰り返した後、到着したマンションの車寄せに、屋高は停車させた。
十階建てのマンションは、整然と等間隔に並んだ外灯を纏い、淡い電光により灰色の外装タイル目地の升目をぼんやりと浮き出させていた。
まるで竜の鱗だ、と警部は思った。
「どうやら、先客が来てるらしいぞ」
警部がエントランスの正面で、赤色灯を点滅させているパトカーを指さした。
「確認してきましょう」
屋高はエンジンを切ると、素早く車から降り、パトカーへ向かって走っていった。
「私たちも急ぎましょう」
パンナも続いて降車しようとしたところを、警部がすばやく彼女の肩に手で触れた。
「事情聴取は屋高くんに任せておけば良い。パンナ、キミとちょっと話がしたいんだが」
「何?」
パンナは、一旦は浮かした腰を、再びシートに落ち着けた。
警部は、彫りが深い眼を姪に向けた。
眉間を射貫かれそうな真剣な眼差しに、パンナは思わず息を飲んだ。
「どうしたの?」と、パンナが尋ねた。
「キミは、全てを知っているという前提で聞きたいのだが」と、警部は切り出した。
その声には、いつもの優しい雰囲気が滲み出ていて、幾分かパンナの緊張を和らげた。
「全てって……何の話?」と、パンナは慎重に問い返した。
「私に関することだよ」
「おじさんに関すること?」
「私に関する全てだ」と、警部は言い切った。パンナは、首を傾げた。
「おじさんの言ってることがわからない」
「岡田美夕の自殺事件があった時、キミは『問題』の解決には、私の『協力』が必要だと言った。キミは、あの時、私の方の『準備』が必要だとも言った。そろそろ真相を話す気は無いのかな」
「それは……」と、パンナは口を開いた。
「話してくれるのかな?」
「いや……やっぱり、今はやめとく」
パンナは、警部から視線を逸らした。
「残念」
警部は肩を落とすが、すぐに笑顔を取り戻した。
「私の想像を言うとね」と、警部の笑顔には茶目っ気が浮かんでいた。
「さっきも言いかけたが、キミは私の状況を、どうやら私以上に把握しているように思える。私自身には見えないが、キミには私の体に付いた『目盛』を見ることができ、キミが今、話そうかどうか迷ったところを見ると、私の『目盛』の状況は、どうやら微妙なところにあるらしい。では、私の準備についてはさておき、『協力』についてはどうだろうか。『権限者』ではない私が、『権限者』であるキミが抱える問題に、どんな『協力』ができるのか、私にはそこがわからない。でも、キミにはそこがわかっているらしい」
「おじさん、それは……」と、パンナが言いかけた。
「おや、話してくれるのかな」
警部は待ってましたとばかりに、唇の動きを静止させた。
「やっぱり……やめとく」
パンナは、警部から視線を逸らした。
警部は、思わず吹き出した。
「これも刑事という職業病なのかな。最近は自分自身の状況にさえ、疑いを持つようになってきてる。いや、勘違いしないでくれよ。キミのことが信用できないと言ってるんじゃないんだ。キミのことは信用してるよ。キミは私に協力的だし、それに……私に対して好意を抱いてくれてる」
「私は、おじさんが好きだよ」と、パンナは叔父をまっすぐ見て言った。
「おじさんのことを尊敬してる。おじさんは大切な人なんだ」
「大切な人?」と、警部は眉をしかめた。
「それは、叔父だから、身内だからという意味かな?」
パンナは、何も答えない。
「不思議だね」と、警部は言った。
「キミの感情の根拠は、どうもそうじゃないみたいだ」
二人の間を沈黙が流れた。
「では、話題を変えよう」と、警部の方が沈黙を破った。
「今も家に帰っていないのかな。その……芳美のところに」
「うん」と、パンナは、当然のように大きく頷いた。
「未だに平行線か……」
警部は、頭を横に振った。
「そうだよ。あの人との関係で進展する要素なんか何も無いじゃない」
「根深いね。自分の母親に向かって『あの人』呼ばわりするのが、なかなか直らないし。キミには、もっと時間が必要なのかなぁ。もう、充分過ぎてると思うんだけど」
「時間じゃないよ。あの人は、私に対して謝りもしてないじゃないか」
「キミが要求しているのは謝罪なんだね」
「言葉だけじゃダメ。たぶん、あの人には、まだ無理だと思うよ。あの人はね、私よりもずっと精神年齢が低いんだから」
警部は、声を立てて笑った。
「キミは、人気があるねぇ。すっかり『北高』のカリスマになってるじゃないか。スタイルが良くて、美人で、頭脳明晰、それに生徒会長。どう見ても、キミは最強の勝者だ。ならば、いろいろな立場に対して、『許し』を与えてあげても良いんじゃないかと思うけどね」
「さっきも言ったよ」と、パンナはピシャリと言った。
「私が求めているのは、心からの謝罪なんだ。私は、矢吹パンナなんて名づけられ、イヤな子供時代を送らされた。立場の問題じゃない。どんなに私が優位な立場に立ったとしても、相手が誠意を私にわかる形で見せてくれなきゃ、許すわけにはいかないんだ。こんなの当たり前のことだよ。王様だからと言って、罪人をいとも簡単に許すなんてことはしないでしょ」
「キミの言うことは、もっともだと思うよ。でも、芳美とキミは、王様と罪人の関係じゃない。母と娘の関係だ。血の繋がった人間同士だよ。キミの言うとおり、芳美とキミでは、芳美の方が精神年齢が若いのかもしれない。だからこそ、キミの方から許してやってくれないか、と言ってるんだよ」
パンナは、しばし沈黙し、思案した後に首を横に振る。
「ダメ……やっぱり、ダメ……まだ、許すわけにはいかない」
「ダメ元で言ってみたけど、やっぱりダメか」と、警部は肩を落とした。
「おじさんは、どっちの味方なの? 私に味方してくれてるって思ってたのに」と、パンナは口を尖らした。
「ま、これだけは、はっきり言っておくけどね」
警部は、じっとパンナの目を見つめた。
「キミには、冷たい言い方に聞こえるかもしれないが、どっちの味方というわけでもないよ。芳美は私の妹だし、妹とその娘が決別してるなんて状況を黙って見過ごせる性分じゃないんだ。しかも、その娘が優秀で、将来を期待できる子だとしたら、なおさら放っておけないだろう。ただ、それだけの理由だよ」
「おじさんは、自分の安心のために、私にお母さんと仲良くしろって言ってるんだね」
「結局は、そうなのかもしれない。キミを見てると、何だか危なっかしくてね。キミは、何に対しても恐れを見せず、立ち向かっていくから、襟首を掴んで、なるべく行かせないように止めたいんだけど……まぁ、それもキミのためじゃなく、自分が安心したいためなのかもしれないけどね」
パンナは、プッと吹き出して笑った。
「おじさん、正直すぎる」
「だから、刑事やってるんだ。正直が柱の仕事だからね」
警部は、臆面も見せずに言い切った。
パンナは、瞳を潤ませて、叔父を見つめた。
「浦崎警部」と、屋高の呼ぶ声が聞こえた。
慌てふためいた様子で、走って車まで戻ってきた。
「事件です。マンションの管理室に、空き巣が入ったそうです」
「さっそく、行ってみようか」
一行は車を離れ、現場へと向かった。
その時、警部は不意に現れた違和感により立ち止まった。
「まただ……」
警部は、額に手を当てた。
パンナは、気づかぬふりをして、警部の方を気に掛けた。
「何かが私の意識に入ってきた。前にもあった。何だろう……この感覚……」




