二十九
篠原教授は、辛うじて香りはするが限りなく白湯に近い紅茶を口いっぱいに含み、それを飲み干して、一息ついてから、こう切り出した。
「あのオカセイが『疑似権限者』の生産事業を開始してからというものの……」
教授は、言葉を詰まらせた。
さらに紅茶を口に含み、一気に飲み干すことを繰り返した。
「省内の話題は『攻撃側面』ばかりが持ち上げられる有様だよ。あいつらは、強靭な軍隊でも作るつもりなのか?」
「『疑似権限者』の製造には、マジック・アイの『情報側面』が不可欠だと聞きました」
お茶の給仕のためにそばに立つ、西藤仄香が教授の愚痴に応じた。
丸テーブルを挟んで、教授の向かいに座る体格の良い初老の男は、沈黙を保った。
「基礎と手順の設定に情報の転送が必要なのだが、その要素を一度仕組化にしてしまえば、専門の『権限者』は不要になる。オカセイは、さらに精度の高い『伝承』を実現させたいが、まだ行動に移せていない。優秀な『情報側面』を持つ『権限者』を選定できていないのだろう」
教授は、鼻をフンと鳴らした。
「どういう人が優秀だとおっしゃるのですか?」
仄香は、底が見えてきた教授のカップにお茶を足しながら尋ねた。
「オカセイは、知能の高い人材が良いと思ってる。その点については、私も同感だがね。基本的に『キレイ』な仕事をする人材の共通要素は、『賢い』という点にある」
「『キレイ』は『賢い』から生まれますか……」
仄香は、うっすらと笑みを浮かべた。
その笑みに共感の意味は汲み取れず、教授は不機嫌そうに唇を曲げた。
「知能の高い人材による要素開発こそが、オカセイのみならず、この私の求めている状況なのだよ」
「誰のことを言ってるのですか?」と、初老の男が口を開いた。
「教授が求めておられる人材は、実在するのですよね?」
教授は、その問いには、すぐに答えようとせず、椅子の背もたれにグイッと体重を預け、天井を見上げた。
「あの子も逸材の一人ではあるが、あの子はこの場面には適していない」
まるで独り言のように、教授は呟いた。
仄香も、初老の男も追求はせず、さらりと聞き流した。
教授は、夕べの梨菜との会話を思い浮かべていた。
「先生は、『予測』の場面では、いくつかの選択肢の中から、都合の良い一つを選ぶようなイメージを考えているのかもしれませんが、実際はそうじゃないんです。少なくとも、私はそうじゃありません」
梨菜は、小さな顔の割に大きな瞳を輝かせ、今にも教授に挑みかかりそうな勢いでまくし立てた。
いつものように自分のデスクに着席した状態で梨菜を迎えてしまった教授は、包み込むような長身の前に、何の抵抗も繰り出せず、彼女と向き合うしかなかった。
いかにも形勢不利だった。
まさか、孫ほども年が離れた小娘に圧倒されるとは、教授にとっては思いもよらない事態であった。
「私は『権限者』ではない」
湧き出る生唾を捌きながら、出てきた言葉がそれであった。
「キミや水田クンの報告に基づいて理論を組み立て、想像しているに過ぎない一人の研究者だよ。どうやら新たな報告があるようだね。では、記録を取るから、そこに腰掛けて、話をしてくれるかな」
教授は、書棚の前にいくつか並ぶ椅子を指差し、梨菜に持ってくるよう促した。
梨菜は、頬を膨らませながら、椅子が置いてある所まで行き、椅子を移動させることなく、教授とはずいぶんと離れた場所に腰掛けた。
「もう少し近くに来てくれんかね。私は、耳があまり良くないのだが……」
「この声なら聞こえますよね」
梨菜は街頭演説でもするような大きな声を出した。
「ずいぶんと不機嫌なんだな」と、教授はおそるおそる言った。
「私の『予測』が、どんな状況にあるのか報告します」
梨菜は、教授の言葉を遮って、話し始めた。
「まず、『予測』は画像として現れません」
「ふむふむ」と、教授は頷きながらメモを取った。
「私の『予測』のプロセスは、試行錯誤の連続です。重複する出力も多く、無駄も多いです。もっと言うと『情報側面』の品質そのものが優れているとは言い難いと思っています。『情報』の取扱手順が雑ですし……あ、これはたぶん私の性格のせいだと思います。いつも重複が多くて、無駄が多いんです」
梨菜の話し方は、いささか箇条書きじみた流れがあった。
これは、教授がメモを取りやすいというメリットが大きく、こういった配慮が自然にできる梨菜のことを、教授はとても気に入っていった。
まさに、教授が求める『キレイ』の本質にある『賢さ』であった。
「だが」と、教授は口を開いた。
梨菜は賢いが、この場面で要求されている『賢さ』とは違う。
初老の男は、その先に出てくる言葉に期待を抱いて、耳を傾けていた。
仄香は、「ふふ」と笑って、テーブルから離れていった。
「どうしましたか?」
一向に続きが出てこない教授に向かって、初老の男は痺れを切らした。
「条件が厳しいね」と、ややあって教授が言葉を繋げた。
「どんな条件ですか?」と、初老の男は尋ねた。
「たとえば知能検査の信頼性が立証されたとして、二百超の数値が測定されるような賢い人物の登場だよ」
「二百超……つまり、次元の違う賢さの持ち主と言うことですね」
「それだけじゃない」
教授は咳払いを交えながら、初老の男の顔をじっと見据えた。
「『天然の権限者』でなくてはならんのだよ」




