二十七
丸野は、とっさに『時間停止』を機能させた。
全ての状況が、ビデオの一時停止ボタンを押した時のように凍結した。
停止していないのは、丸野の視覚と思考要素のみだった。
丸野自身も、指一本、動かすことはできなかった。
(確認しろ)
丸野は、自分に言い聞かせた。
(自分に発射された大砲のような『光弾』は、前方五、六十メートルくらいの位置で停まっている)
(ミニバンのスピードメータは、時速二十五キロと表示されている)
(道路の幅員は、ミニバンの車幅と数十センチ程度の余裕しかない)
(ここで、ブレーキを踏んではダメだ)
(車を停止させると、ハンドル操作での回避ができなくなってしまう)
(とにかく、自分に向かってくるあの『光弾』を、あれが自分に対してどんな影響があるのか計り知れないが、回避することを考えなければならない)
(ハンドルを思い切り左に切ってみよう)
(ガードレールに車体を擦りつけるような感じで)
(車体にキズが付いて、オカダイにどやされるだろうが、この際は仕方あるまい)
丸野は、『時間停止』を開放した。
静止していた世界が動きを取り戻した。
考えていたとおりに、ミニバンをガードレールに擦りつけ、攻撃から回避しようと試みた。
ガンと激しい衝突音が耳に入ったところで、再び『時間停止』を機能させた。
『光弾』との間隔は七メートルほどまでに縮まっているが、当初ターゲットとなっていた自分より、明らかに右側に逸れる軌跡をたどろうとしていた。
回避は成功した、と丸野は確信した。
次に、『光弾』の発射元を確認した。
ミニバンのハイビームが、上半身に金属製のチョッキのようなものを羽織っている人物の影を照らしている。
(あいつか!)
そこで『時間停止』の有効時間が切れ、動きが戻った。
再び、動き出した時間の様子を窺うことなく、すぐさま丸野は『時間停止』を仕掛けた。
ビデオのコマ送りをほんの一コマ分だけ動かしたように、状況はわずかに進行した。
丸野が停止させていられるのは十秒間。
それが過ぎれば強制的に時間が動き出す。
すぐに停止させても、コンマ五秒は進行してしまう。
とにかく慎重に状況を確認しながら、今後の行動を判断しようというのが、丸野の狙いだった。
(あの危険な光は、自分の右側を大きく逸れてしまっている)
(次に考えるのは、これを発射したヤツの始末をどうつけるかだ)
(銃火器を備えているヤツを相手に、肉弾戦など挑みたくない)
丸野は笑おうとするが、『時間停止』の影響で、自らも身動きが取れない状態なので、笑うことはできなかった。
(このまま車で突進して、ひき殺す)
(もう、ここまで来たら、殺人など躊躇していられない)
(オレは、もうすでに一人殺したことになっている)
(もう一人殺したところで、大して変わりはないだろう)
そこで『時間停止』は時間切れ。
丸野は、アクセルを踏む足に力を込めた。
同時に念のために『時間停止』も仕掛けた。
ミシッ、という奇妙な音が、ちょうど右耳に飛び込もうとしたところで、全ては停止した。
(何の音だ?)
丸野は、右側の状況を確認しようとするが、現在の自分の右目の位置取りでは、音の要因となっているものを確認できない。
(もっと、顔を右側に向けなくては……)
丸野は、『時間停止』を開放し、わずかに顔を右側に向け、またすぐに停止させた。
コンマ五秒間の進行。
怪音の発生源は、あの『光弾』が窓ガラスを打ち破る音であることと同時に、誘導ミサイルのように自分の動きに合わせて引き寄せられる性質を持つことに気づいた。
『光弾』は、丸野の鼻先まで接近していた。
気づくのが遅かった。
回避は成功していなかったのだ。
(避けられるか?)
丸野は、さらに回避を試みようとしたが、すぐに諦め、これの衝突が自分にどれだけの痛みを与えるのか、を想像することにした。
そして、衝突によって、自分はまだ生きていられるのか、を合わせて想像してみた。
(無駄だな……)
(いとも容易に窓ガラスを突き抜けてくる弾丸のような威力を持つものを、肉体が跳ね返せるはずは無い)
(きっと、自分の顔にも、ガラスと同じような穴が開くのだろう)
不思議と、死に対する恐怖心は湧いてこなかった。
時間が短かったせいもあるだろうが……だが、今の『時間停止』は、今まで停めた中で、一番長く成功していたような気がした。
時は動き出した。
自分が運転していたミニバンは、まるで風船が破裂するように、内側から働く大きな力によって、粉々になって弾け飛んだ。
丸野は、その様子を、外側から見ていた。
(いつ、自分は車を降りたのだろう)
(あの爆発の力で、自分は外に追い出されたのだろうか)
ミニバンの金属部品が、四方八方に飛び散る様子が、はっきりと見渡せる。
(いや、追い出されたのは車からではなく、自分の体からのようだ)
やがて、白い煙のようなものに包まれ、視界が真っ白になる。
意外と痛みは感じなかった。
丸野は、そう思った後、思考が回らなくなった。
玲人は、飛散した自動車部品の一部に蹴りを入れた。
「終わったよ、姉貴」
ずいぶんと後ろの方に待避していた有利香が、おずおずと玲人に近づいてきた。
怯えるような目で、激しく燃え上がる自動車の残骸を見つめていた。
「本当に終わったのかしらよ?」
「たぶんな」
「これで平穏に戻れるかしらよ?」
「たぶんな」
有利香は、ほんの少し考えをめぐらせた後、落胆気味に肩を落とした。
「どうやら面倒は完全に拭い取れなかったみたいだわよ」
有利香が、残骸の方に目を向けながら、玲人に寄り添った。
玲人は、唇を真一文字に噤み、有利香を引き寄せるように抱いた。
ジリジリと残骸の向こう側の暗闇から、足を引きずる音が近づいてきた。
残骸の炎の明かりで、その正体を目の当たりにした時、思わず有利香は息を飲んだ。
玲人は、めったに見せない姉が動揺する姿を興味深げに眺めていた。
「もうボロボロですよ」
近づいてきたソレは呟いた。
その者は……もはや『者』という表現に当てはまらない外見をしていた。
激しく地面に打たれ、引きずられ、ボロ布のように成り果てた制服と、垂れ下がった左腕の皮膚。
無数の打ち身による黒いアザと、斑点状にしみ出た血液。
そして、穴が開いたように空洞となっている右目の傷跡。
明らかに、生物とは思えない、まるでゾンビのような風貌である。
それが、壊れかけたゼンマイ玩具のように、拙い動きで二人に近づいてきた。
見覚えのある顔だった。
そして、それは、これまでの流れの中で、存在し得ない存在だった。
「私のことを覚えていますか?」と、ゾンビ少年は尋ねた。
「ええ……覚えてるのだわよ」
有利香の声は震えていた。
「丸野の側近だった人……」
「そのとおりです。沼田と申します」
ゾンビ少年はぎこちない会釈をした。




