二十六
水田佳人の表情は一見して無味乾燥に見えても、感情は高ぶっていた。
特に、所内通路の十字路を直角に右折なり左折なりする時は、その機敏な動作に鋭さを備え、すれ違いを狙う通行人たちを、その遠心力で外側に吹き飛ばしかねない勢いがあった。
さらに、直進の鋭さにも油断できない圧力を発揮し、やはり通行人たちが危害を避けようと左右に別れていく様は、まるで『十戒』の海が割れる場面を彷彿させた。
佳人が向かっている先は、三度の十字路を左折右折左折と鉤型に曲がった先の突き当たりにある扉で、突き当たりなのだから当然に隣部屋が一つしかなく、あまり他人と干渉する機会の少ない環境下に位置づけられた存在の主が住んでいると思しき部屋だった。
現に、突き当たりが近づくにつれて、通行人の数も顕著に少なくなっていた。
扉に貼り付けられたプラスチック製の小さなプレートには、『第九研究室』と書かれてあり、佳人は何の躊躇もなく、その扉を手前に開いた。
「篠原教授」と、佳人は部屋の中に声を投げ入れた。
「ちょっと相談が……」と、言いかけたところで、佳人は初めて部屋の中の観察を始めた。
部屋の三方を光沢の無い赤茶の無垢材でできたキャビネットで囲まれ、唯一、陽光が差し込む窓面の半分は壁で遮られた構造で、フラップ扉の付いた収納庫が蜂の巣のように収まっていた。
部屋の中央には重厚な両袖机が無造作に配置され、頭の薄い背広姿の年老いた男が、その中央の肘掛椅子に、仰け反るように腰かけていた。
教授と呼ばれた男は目をつぶり、何か瞑想に耽っているようにも見えた。
「彼女が不眠症にでもなったのかね?」
佳人がその後の説明を始めるより早く、教授が尋ねてきた。
「そのとおりです。よくおわかりですね」と、佳人は感服した。
「メンタル的な問題の発症には、たいてい決まりきった工程が存在する。想定内だよ」
教授は佳人と目を合わせようともせず、センサーロボットのように抑揚の無い口調で言った。
いや、最近のロボットの方が感情的になっていると思えるぐらいに、人間らしくない反応だった。
「どうすれば……」と、佳人が戸惑い気味に尋ねた。
「投薬は、おススメしない」と、教授はすげなく答えた。
「一時的な措置など、何の対策にもならないからね」
「しかし、このままでは放っておけません」
佳人がすがるが、教授は佳人を見向きもしなかった。
「一つ聞くが」と、しばしの間を置いて、教授が口を開いた。
「眠れなくて悩んでいるのは彼女かね。それともキミかね」
「もちろん彼女ですよ」
佳人は、口を尖らせて言った。
「いや……聞き方が悪かったな。キミは、彼女から不眠について相談を受けたのかね?」
「え?」と、佳人は声を詰まらせた。
「いえ……特に本人から相談は受けていませんが…」
佳人は途切れ途切れに答えた。
教授は、フッとため息を漏らし、胸の前で両手の指先を合わせた。
しばらくの沈黙の後、不意をつくように口を開いた。
「『予測』の試練だよ。キミにもわかっていたことだろう」
「ええ、もちろん」と、佳人は頷いた。
「私が求めているのは、彼女に施すリラクゼーションに対する許可ですよ」
「つまり投薬ということだ。おススメしない」
やはり教授はすげなく答えた。佳人の口元が緩んだ。
「許可しないということではありませんね。ありがとうございます。もちろん、投薬量は管理します」
「ところで」
教授は両手の指を合わせる仕草を維持したまま、佳人の方を向いた。
佳人は、両手の指先までピンと力をこめた。
「彼女の『予測』に関する信頼検査について、報告書はいつできそうかね?」
「六ヶ月前後を見込んでいます」
佳人は姿勢を崩さずに答えた。
「うむ」と、教授は満足そうに頷いた。
「よろしく頼むよ」
「大臣の承認は得られそうですか?」
佳人は尋ね、上唇を舐めた。
「キミが想定したレベルに達していれば、可能に違いない」と、教授は答えた。
「少々の検証の甘さはあったとしても、キミの報告書次第で何とかなる」
「そんなモノなんですか?」と、佳人。
「そんなモノだよ」と、教授は、鼻をフンと鳴らした。
* * *
玲人は、車両同士の行き違いのために広く設けてある路肩にバイクを乗り入れ、エンジンを止めた。
未舗装の砂利道で、辺りに電線が通うような配慮も無い。
バイクの前照灯を消灯すると、完全に漆黒に包まれた。
丸野たちのミニバンは、曲がりくねったカーブの連続だった山道の走行に苦戦し、ずいぶんと引き離していた。
もちろん、丸野の運転技術の未熟さを計算に入れた上での効果である。
彼らがここへたどり着くには、まだ時間がかかりそうだ。
玲人は、闇の中でも躊躇することなく、ガードレールの支柱の背後に予め隠してあったショルダーバッグを探し当て、ファスナーを開けた。
コロコロと金属同士が当たる音が耳に入り、玲人はその中でパイプのような物を掴み、器用に右腕を通した。
「サイズはどうなのかしらよ」と、有利香が尋ねた。
両手を胸の前で合わせ、まるで神に祈るような仕草をしていた。
「何度か練習で使ってる。心配ないよ」
玲人は、右腕の肩から指先まで、すっぽりと包み込んでしまう金属製の鎧のような装備を着用した。
腕の先端部分は、人差し指から小指までの四本指がそれぞれに収まる形状になっている筒があり、玲人の指は無理なくそれらに収まっていた。
「今日は練習してるヒマはないのだわよ。いきなり実践になるのだけど、集中力の方は大丈夫なのかしらよ」
「まぁね」と、玲人は装備を着用していない方の手の人差し指で鼻の下を掻いた。
「本当に一人の力だけで、あの車を爆破できるのかどうか疑わしいというのが本音だけどね」
「やってみれば、わかるのだわよ」と、有利香は言いながら、山道をのろのろと上がってくる前照灯に目を向けた。
「来たな」
玲人は右腕を前に出して構えた。
正面には二百メートルほどの直線道路が伸びており、傾斜は緩くなっていた。
やがて、前照灯は、直線部分に侵入してきた。
これまで行きかった多くの車が、この区間で加速するため、未舗装の路面には、通過時に削り取られた轍が深めに刻まれていた。
ハンドル操作を放置しておくと、タイヤは自然に轍にはまり、また両サイドにはサビだらけでも機能は損ねていないガードレールが通っている。
車一台分の幅員しかない道路で、通行車両は、まるでレール上を走る鉄道のように、ただ直進するしかない。
その状態を狙えば、まさに逃げようのないワナとなる。
「姉貴、もっと後ろに下がれよ」と、玲人は有利香に注意した。有利香は、玲人と並ぶような位置に立っていた。
「どこまで下がれば良いのかしらよ」
「もっと後ろの方。相手は、三十か四十キロくらいで走ってくる。爆発の威力も加わって、粉々になった車体の破片が、猛スピードでこっちに向かってくるよ」
玲人は早口で説明した。
標的が射程距離に近づいてきているので、自然と早回しになった。
「キミはどうするの? そんな状況になるなら、キミだって危ないのだわよ」
「オレの心配はいらない」
玲人は言うと、それっきり無言になった。
たちまち、右手の平の真ん中が光り出し、ピンポン玉くらいの大きさの『光弾』となった。
有利香は、ゆっくりと下がった。
唸り声のようなミニバンのエンジン音が辺りに響いた。
「来た」
玲人は、正面から迫りくる前照灯を睨みつけた。
ピンポン玉程度の『光弾』が、さらに膨張し、ボーリングの玉くらいの大きさになった。
丸野は、未舗装道路を走行し、激しい揺れに振り落とされまいとハンドルにしがみつきながらも、果敢にアクセルを踏んだ。
前方に、輝くモノを見つけた。
車のライトのような無機質な輝きとは違う。
いかにも凶暴さを感じさせる光だ。
丸野は、本能的に危険を察知し、アクセルから足を外した。
上り坂とエンジンへの燃料カットで、にわかにミニバンは減速した。
「もう遅い」
玲人が呟くのと、集まったボーリング玉大の『光弾』が前方に発射されたのは、ほぼ同時であった。
発射された光は、まっすぐにミニバンの運転席側に向かって突き進んだ。




