二十三
有利香は、すでに五階の非常階段を登り切っていた。
非常扉をそっと開け、注意深く通路を覗いた。
人の姿は無かった。
自分が腕がやっと通るくらい、細く扉を開けた。
手には、隠し持っていた『筆』が握り締められていた。
有利香の注意は、通路途中に取り付けられた監視カメラに向いた。
電源はもちろん入っているが、レンズはエレベータの方角に固定されていた。
有利香のいる非常扉はカメラボディの左前方に位置し、うかつに中に入ると、カメラの撮影圏に足を踏み入れることになる。
有利香は、『筆』の銃口に『光弾』を練り出し、発射させた。
パシッと、玩具入りプラスチック製のカプセルを、踵で踏み割ったような音が響いた。
監視カメラのボディが破損した際の破片が、ほんの少し床に散在した。
有利香は『筆』をしまい、堂々と通路に出て、早い歩調で突き当たりの五一四号室の扉の前まで進み、インターホンを押した。
《はぁい》
オカダイの気味の悪い猫撫で声がスピーカーから聞こえるが、有利香は怯まずにインターホンのマイクに口を近づけた。
「私だわよ。わかるでしょうよ?」
《……》
「まさか、状況を理解するのに時間がかかってるわけではないのだわねよ」
《ハイブロー! わかってるわよ。意外と積極的なのね。気に入ったわ。カギは開いてるから、入ってらっしゃいよ》
「面倒だわ」と、有利香は言う。
《え? 何て言ったの》
「迎えには来て下さらないの、って言ったのだわよ」
《ワガママなところもあるのね》
オカダイはコロコロ笑った。
《そういうことなら、わかったわ》
しばらくして、内側からドアノブを捻る音が聞こえ、勢いよくドアが開いた。
有利香は、すかさず視界に登場した人物の顔に、焦点を合わせた。
身長は百七十センチほどで、茶色いリング状になったクマのできたキツネのような目をした男と、視線がぶつかった。
男の視線は、どこか虚ろさを滲ませているように感じた。
有利香には、その視線の持つ意味が理解できていた。
「無駄だわよ」と、有利香は言った。
「それでは、他の人にはごまかしが利いたとしても、私には通用しないのだわよ」
「アナタ、何言ってるのよ」
オカダイは言うと、右手の拳を有利香の腹部に打ちこんだが、それは空を切った。
勢いで姿勢が傾いたオカダイの左肩を、今度は、有利香が左足の踵で軽く押した。
小さな力だが、オカダイの体は傾斜した側に大きく倒れ、設置してあった下駄箱に、めりこむように激突した。
下駄箱に載っていた芳香剤のビンが床に落ち、派手な音を立てて割れた。
人工的なシトラスの強い香りが、鼻に刺さった。
「よくもやったわね」
オカダイは、怒りに満ちた眼で有利香を睨んだ。
「無駄だわよ。さっきよりはマシになったけど、その程度ではお話にならないのだわよ。あなたがやりたいのは、こういうことなのではないのかしらよ」
有利香の瞳に、星型のきらめきが現れた。
蛍光灯等の光の反射とは異なる、自発的な輝きだった。
たちまち、オカダイの両腕が磁力に引き寄せられるように腰にくっつき、離れなくなった。
「何よこれ? ちょっと、アナタ、何をやったの?」
オカダイが、どんなに力を入れても、両腕はピクリとも動かなかった。
有利香が目を逸らしたとたん、オカダイの呪縛は解き放たれた。
「アナタ何者?」と、オカダイが尋ねた。
「質問が多い人なのだわよ」と、有利香は軽蔑気味に言った。
「あなたが『催眠術』と呼んでて、いつもやってることなのでしょうよ。相手を動けなくするだけのお遊びなのだわよ。あなたは『マジック・アイ』の本当を、理解できていない。私が、それを見せてあげるのだわよ」
「ちょっと、アナタ、正気?」
オカダイは喚き立てるが、有利香がバッグから取り出したモノを理解すると静かになった。
有利香は、右手に透明な『チーズ蒸しケーキ』の袋を、口を閉じるように持っていた。
袋の中には、元気なキイロスズメバチが数匹、袋を突き破る勢いで暴れていた。
有利香は、袋の口をオカダイに向けて開封した。
「バカ、やめなさい!」
開かれた袋の口から、重い羽音を立てながらスズメバチが、次々と飛行を始めた。
「キャー」と、オカダイは悲鳴を上げた。
有利香は、巧みに体をくねらせ、スズメバチの飛行経路を阻害しない位置へと、移動を繰り返した。
「痛い。痛い」
ハチが放たれてから、ほんの十数秒だが、オカダイは、すでに頭を二箇所刺されていた。
「ちょっと、どうなってるのよ?」
オカダイが、癇癪を起こした。
不意に、有利香の顔が正面に現れた。
ニッコリと笑う顔に、オカダイは面食らった。
有利香の顔が、ほんの少し右に傾き、彼女の左耳をかすめ、勢いよく突進してくるキイロスズメバチに、さらに面食らった。
ハチの針は、オカダイの右の瞼辺りに命中した。
「ギャー」と、オカダイの濁った悲鳴が轟いた。
「これが『マジック・アイ』の力なのだわよ」
有利香は、後ろ手に玄関のドアレバーを下ろし、ドアを開けた。
「検知と判断、そして正確な動作が連動して、初めて『権限』を生かすことができるのだわよ。あなたの力は、一時的な刺激を相手に与えるだけなのねよ。私とあなたの力の差は、歴然としている。これ以上、ヒドい目にあいたくなかったら、私に付きまとわないことなのだわよ。それではご機嫌よう」
有利香は、オカダイに手を振って、玄関を出て行った。
* * *
セキュリティの操作盤を前に携帯電話で本部と連絡を取りつつも、埒が明かない状況に陥っている女性管理人の様子を、丸野はイライラしながら眺めていた。
「ええ。操作盤が全く反応しないんです……いえ、間違ってません……何度もやってるんですが、機器の故障かもしれません……通信機ですか?……問題はありませんでした……昼間も、問題なく作動していましたし……わかりました。確認します」
管理人は電話を切り、ばつが悪そうに丸野を見た。
「すいません。技術の者が、まもなく到着しますから、もうしばらくここでお待ちいただけますか。私は、ちょっと異常記録を調べてまいります。席を外しますが、技術の者が来たら対応を始めると思いますので、すいませんが、もうしばらく……」
「早くお願いしますよ」と、丸野は管理人の言葉を遮った。
管理人は、逃げるように事務室の方へ駆けていった。
静寂が辺りを包んだのは、ほんの数秒だった。
管理人と入れ違うように、ドアの向こう側に、有利香の姿が登場した。
分厚いガラス越しに、丸野は水槽に閉じ込められ、外側の獲物に狙いをつけるサメのような目をして、有利香を睨みつけた。
「おい待ってたんだぞ」
丸野は怒りに満ちた声を上げた。
有利香は、まるで何も聞こえていない素振りで、平然と内側からセキュリティドアを開け、外に出てきた。
「どういうつもりだ? 暗証番号なんか変えやがって」
丸野は、正面から向かってくる有利香の肩を掴もうとした。
しっかり掴んだつもりだったが、手ごたえは無く、丸野の体はバランスを崩して、投げ技を仕掛けられたように床の上を転がった。
すぐに起き上がり、有利香の背後を目で追った。
有利香の小さな背中は、淀みのない歩調で丸野から遠ざかっていった。




