十八
日課のように、梨菜は部屋の中央に置いてある折りたたみ椅子に腰を落ち着け、その彼女の前を佳人が行ったり来たり、身振り手振りを交えながら、話をする光景が窺えた。
もちろん、主題は『マジック・アイ』の『権限』に関することであり、佳人の論点は紆余曲折を繰り返したが、それでも梨菜は辛抱強く彼の話に耳を傾けていた。
「『権限』を持つという本質はね」と、佳人は言って、一時的に足を止めた。
「『マジック・アイ』の持つ『情報側面』と『攻撃側面』について、いずれかまたは両方を利用することができるということだけど、そのためには、『才能』が長期記憶に格納される可能性を持ち合わせているということでもあるのだよ」
早口でそれだけを説明すると、再び足を動かし始めた。
「もちろん『才能』を長期記憶化するには、『基礎構造』の設置が必要だ。この点から、『権限者』という表現が生まれてきたわけだけど、生まれつき、この『基礎構造』を持ちあわせているヒトもいるようだ。つまり、『天然の権限者』であるか、または、『疑似権限者』であるか、この区別が存在するということだ」
そこで、梨菜は「私は『疑似権限者』の方ですね」と言った。
「それは違う。キミは、『才能』のことと勘違いしている」と、佳人が否定した。
「今、論点にしているのは『基礎構造』だ。『基礎構造』を生まれつき持ち合わせているかどうかだよ。『天然の権限者』は、割合的に少数なんだよ。ちなみに、疑似的に『権限』を設定するには、大きな脳容量が必要になるんだ。権限を管理するための『基礎構造』のサイズが大きく、一生の内に使用する脳容量を差し引いた限界容量の範囲に収まりきれなくて、たいていは二つの『側面』のどちらか一つを選ぶことになる。まぁ、キミの場合は『天然』だから、この話について気にする必要はないけどね」
「私が『権限者』になったのは、佳人さんが私の構造を変えてくれたからじゃないんですか?」と、梨菜は驚きに満ちた声で尋ねた。
それに対して、佳人は「いや」と軽く答えた。
「ボクは、眠っていた『権限』を発動させるために、『覚醒』の手続きをしただけだ。キミは、ボクに出会う前から、すでに『権限』を持っていたんだよ」
梨菜は、動揺していた。
佳人は、梨菜の正面に立ち止まり、じっと瞳を見つめた。
「『天然の権限者』でも、多くの人は、『権限』について知ることなく一生を終えているようだ。『覚醒』するかどうかは、人為的なきっかけが必要だけど、『権限』の存在さえ知らない状況なら、『覚醒』の機会そのものが訪れないということになる。まずは、知っている者が『権限』を持てるということ。次に、『権限』を有効に利用できるかは、それ相当の知恵と工夫が必要になる。傾向としては、知能が高い人ほど、上手に利用できるようだ。例えば、キミが以前にやった、特定情報の抽出をいかに効率よく行うかなどは、知恵を駆使して達成できた成果だったと思う」
佳人が褒めると、梨菜は照れくさそうに顔を赤くした。
「『天然』な人は、多くは遺伝によって受け継がれるようだ。キミの両親か、祖父母か、親戚か、誰かはわからない。でも、今はキミの血族のことよりも、キミがどうなのかが重要だ」
「私は、どうなっていくのですか?」
梨菜は、声を上擦らせながら尋ねた。
佳人は、優しく梨菜の両肩に両手を添えた。
「キミの人生は、キミが決める。キミが、どこへ行くべきか、なんて決定は、ボクがするべきじゃない。ただ、ボクはキミを支援したい。『権限』に関する修行や訓練を通じて、キミが幸福な人生を送ることができるように」
佳人の優しさが、両肩から注入されていくような感触を、梨菜は心地よく受け入れていた。
* * *
岡大から借り受けたミニバンを運転する丸野は、ルームミラーで後部座席に座る有利香の表情を確認した。
有利香は、悠然と『チーズ蒸しケーキ』を口一杯に頬張っていた。
妙なことになった、と丸野は思った。
まさか、沼田が抜けてしまう展開になろうとは。
沼田は、本当にオレが撃った弾丸で、死んでしまったのだろうか。
前に向けて撃った弾が、後ろに跳ね返ってくるなんてことが、実際に起こったのだろうか。
まぁ、作戦については、誤算はあったが、何とか進行している。
だが、明らかに、この状況は、西藤に主導権を握られている。
なのに、なぜオレの作戦が進行できているのか。
妙と感じるのは、この点だ。
オレの作戦というのは、いったい何だったのかと、丸野は改めて考え直してみることにした。
まず、依頼主はボスのオカダイ。
目的は、西藤の捕獲だった。
西藤は『権限者』だ。
捕獲しなければならないというのは、ボスの話によると、『生きた標本』の採取だった。
では、西藤は、どんな『才能』を持っているのか。
おそらく、ことごとく待ち伏せが失敗したり、顔写真の撮影すらできなかったことを考えると、この女子は、オレたちの行動を『予測』できるのではないか、と考える。
つまり、この女子は、『選択肢』と『結果』の突合せを行い、自分にとって最も有利な『選択肢』を探り出し、行動することができる。
さっきのスズメバチも、ハチの動きが読めれば、自分は攻撃されずに、オレばかりが刺されるような状況を作れると考えれば、辻褄が合ってくる。
「前を見て運転するのだわよ。無免許さん」
有利香は、蒸ケーキを頬張りながら言った。
チャックの開いた学生鞄の隙間から、食べているものと同じケーキの袋が二つと、フルーティな味の野菜ジュースの紙パックが見えた。
「オマエ、いつの間にそんなモノを」
丸野の声が裏返った。
「前を向くのだわよ」と、またもや有利香は言った。
赤信号が直前に迫っているのに気づき、丸野は慌てて急ブレーキを踏んだ。
タイヤが軋み、後輪が横滑りを起こそうとした。
丸野は、ハンドル操作で車体姿勢を立て直そうと試みた。
センターラインを少しはみ出たが、ミニバンは交差点停止線の手前で姿勢が戻った。
丸野は、有利香の様子を見ようと、後ろを見た。
有利香は、紙パック野菜ジュースのストローを吸い込み、二個目の蒸ケーキの袋を開封していた。
「前を見るのだわよ」
有利香の言葉で、丸野は我に返った。
信号は青に変わっていた。
丸野は、慌ててアクセルを踏んだ。
「忙しい人なのだわよ」
有利香は、クスクス笑った。
食べ始めたばかりと思っていた二個目の蒸ケーキは、すでに半分以上無くなっていた。
丸野は、先ほどの続きを考えた。
この女子の捕獲は、もっと本腰を入れなきゃダメだと思ったオレは、ボスに兵隊の動員を要請したんだ。
ボスは、ボクサーの沢木を含め五十人もの兵隊を手配してくれた。
そういえば、と丸野は思い出した。
この兵隊たちに送った西藤の写真は、森脇恭二から『盗聴』したものだった。
写真の『盗聴』を依頼した嶋田幸次のヤツ、『複写』じゃなく『切取』をやらかしてるんで、きっと森脇にバレてる。
この点はマズかったな。
森脇は、報復を選択肢に加える男だ。
何か、うまい言い訳を考えておかないと。
兵隊五十人という数字は、ボスが決めたのだ。
女子一人の捕獲にだ。
もっとも、これには矢吹嬢対策も含めてるから、妥当な数字だろう。
実際、ギリギリだった。
いや、危なかった。
沢木が、あれほど早くやられるとは思わなかった。
結局、巡回チームも、捕獲チームのメンバーも全員、矢吹嬢の方に回してしまったが、食い止めていられたのは十五分程度だった。
オレが何とか推理を働かせて、この女子の居所を突き止められたから良かったものの……
「無免許さん、前を向くのだわよ」
「え?」
有利香の掛け声で、丸野は我に返った。
道路幅が急に狭くなり、ガードレールが左から迫り出している箇所が、接触寸前にまで寄っていた。
丸野は、慌ててハンドルを切って交わそうとした。
間一髪、フロント部分の接触は避けることができたが、左ボディ後方からコリッと金属の擦れる音がした。
「やっちゃったみたいだわねよ」
「笑うな。オマエのせいだぞ」
丸野は、汗をビッショリと掻いていた。
「もっとスピード落とした方が良いのだわよ」
有利香は、笑いながら蒸ケーキを頬張った。
空の袋が、すでに三つ、足下に落ちていた。