十七
「オマエがやったのか? いったいどうやって?」
「違うわよ」と、有利香はゆっくり首を横に振った。
「彼を撃ったのは、キミだわよ」
「オレが撃っただと?」
丸野は、しまいかけていた拳銃を、再び有利香に向けた。
有利香は、まるで怯える様子を見せず、胸の前で両腕を組み、丸野を侮蔑するような目で見つめた。
「そんなものは何の役にも立たないって、言ったはずだわよ」
「答えろ。何があったんだ? 沼田はどうなった?」
丸野は、しきりに有利香に質問した。
拳銃を持つ手が震えていた。
「同じことを、何度も言わせないでほしいのだわよ。キミの発射した流れ弾に撃たれて、お友達は死んだのだわよ」
有利香は、その説明を繰り返した。
「流れ弾?」と、丸野は首を傾げた。
「キミの撃った弾が、私の足元で跳ねて、その後の行く末がどうなったか、把握してるのかしらよ?」と、有利香が尋ねた。
「弾の行く末だって? そんなモン、知るわけないだろ」
丸野は、動揺しながら答えた。
「管理不十分だわよ」
「何だと?」
丸野は、銃を向けたまま有利香に近づいた。
「自分の発射した銃弾の行く末を、きちんと見届けておかなくては、拳銃を扱う資格は無いのだわよ」
有利香にそう言われて、丸野の顔が熱くなった。
「エラそうに言うな。それで、沼田に何をしたんだ?」
「あの人に何かしたのは、私じゃないのだわよ。キミの方なのだわよ」
「だから、ちゃんと説明しろ」
有利香は、面倒くさそうな雰囲気のため息を何度も繰り返した後、説明を始めた。
「床を跳ねた銃弾は、そこの調理室のドアの蝶番の角に当たって、鋭角に跳ね返って、天井へ向かったのだわよ。天井板は石膏素材で、銃弾のような物が当たったらめり込んで、普通はそこで止まるんだけど、当たった場所が蛍光灯のソケット部分で、弾は方向修正されて、廊下のほぼ中央部を五度の角度で下降して行ったのだわよ。ここまで、わかるかしらよ? 不幸にも、発砲者に戻っていく形になったわけだわよ。でも、銃弾はキミのほんの少し頭上を越えて背後に飛んでいったのだわよ。そこに彼がいたわけだわよ」
有利香は倒れている沼田を指差した。
「バウンドを繰り返して、銃弾はかなり威力を無くしていたけど、彼の柔らかい部分を射ぬくには十分だったのだわよ。銃弾は彼の右目に命中し、眼球を突き抜けて、脳のほぼ中心部で留まったのだわよ」
「デタラメを言うな!」
丸野は、銃口を有利香の鼻先に突きつけた。
有利香は、まるで動じなかった。
「キミがデタラメと思おうと、起きてしまった事実は曲げることができないのだわよ」
「そうか。じゃあ、こんなのはどうだ」
丸野は、拳銃を持った手を振り上げ、握り部分が有利香の額に当たるように、思い切り振り下ろした。
だが、感触は無かった。
大きく空振りした丸野は、バランスを崩し、前のめりに倒れかけた。
「無駄だわよ」と、有利香の声が、丸野の背後から聞こえてきた。
丸野は、心臓が凍りつきそうになった。
「理解に時間のかかる人なのだわよ。キミに選択肢は無いのだわよ。敷かれたレールを行くだけなのだわよ」
丸野は、振り向き様に有利香の眉間を撃った。
「そんな程度のことで、状況は変えられないのだわよ」
またもや、丸野の背後に回られた。
丸野の顔面から冷たい汗が噴き出て、雨に打たれたようにびしょ濡れになっていた。
丸野が振り返ると、眉をひそめている有利香の視線とぶつかった。
有利香の表情に、少しも乱れた様子はなかった。
「何なんだオマエは?」と、丸野が尋ねた。
有利香は、無言で首を横に振った。
「本末転倒だわよ。冷静さを失った犯罪者なんて、見所が無いのだわよ」
有利香は、左手を横に伸ばし、ゆっくりとした動作で、その手に持っているものを、丸野の目の前に披露した。
人差し指と中指の間に、一匹のキイロスズメバチが挟まっていた。
巧みに腹の中央部を抑え込まれ、鋭い牙も、針も、有利香の肌には触れることもできず、ハチは持て余し気味に指の間でジタバタしていた。
「おい……危ないぞ、そんなもの」と、丸野は唾を飲みこんだ。
「危ないのはキミの方」
有利香の手が、丸野の頬に近づいた。
タイミング良くハチの臀部から、鋭い針が飛び出てくきた。
針は、丸野の頬の表皮をつらぬき、激痛を与えた。
丸野は、けたたましい悲鳴を上げ、有利香の前にひざまずいた。
刺された箇所が、にわかに腫れ上がり、頬を押さえずにはいられなかった。
有利香は、さらに容赦なく二本指で挟んだキイロスズメバチを、丸野に突き付けた。
再び臀部から針が飛び出て、丸野の肌を刺そうとするが、今度は寸前で届かなかった。
無機質な複眼は、まるで丸野に怒りを抱いているかのように、ツヤツヤに輝いていた。
「単純な質問だけど、このハチを開放したら、私とキミと、どちらを襲うと思うかしらよ?」
唐突に有利香が問うた。
「気でも違ったか。そんなことをすれば、オマエが自爆するだけだ」と、丸野は答えた。有利香は、首を横に振った。
「ハチに倫理というモノが理解できれば、正しい加害者に対して制裁することが可能だけど、あいにく、このハチの視界に写っている人間は、キミ一人なのだわよ。このハチの意思決定の根拠は、単純なのだわよ」と言い、有利香は指の間のキイロスズメバチを開放した。キイロスズメバチは、丸野の頬をかすめて、後方に飛び去っていった。
「驚かしやがって」と、丸野はハチの動きを目で追いながら言った。
だが、丸野の顔が再び歪んだ。
有利香の両手に、さらに二匹のハチが収まっていた。
しかも、後方に遠ざかっていったと思われたハチの羽音が、徐々に近づいてくるのを感じた。
丸野は、悲鳴を上げながら、廊下の隅に逃げこんだ。
ハチは、クルリと旋回し、丸野の周囲を行ったり来たりした。
「何とかしてくれ!」
たまらず、丸野が叫んだ。
有利香は、丸野の目の前に持っているハチを突きつけた。
「早く行動するのだわよ」と、有利香がイラ立ち気味に言った。
「行動って何を?」と、丸野は両手で頭をかかえながら尋ねた。
「無駄な動きをしないってことだわよ」
「何のことだ?」
「拳銃を私に突きつけたり、威嚇射撃したり、私に質問したり、無駄話したり、立ち止まったりしないでって言ってるのだわよ。これ以上の時間の浪費は許しがたいのだわよ」
「何を急いでるんだ?」と、丸野が尋ねた時、有利香の手中のハチが、さらに丸野の顔に近づいた。
「わかった。もう質問しない」
「良い心がけだわよ」
そう言うと、有利香の両手から、まるで手品のようにハチが消えた。
だが、飛び交っているハチは、矛先を丸野から有利香に向けて、襲いかかってきた。
有利香は、タイミング良く革靴の先でハチを蹴り、壁面へ叩きつけた。
ハチは、蹴られた衝撃で床に落ち、グッタリとなった。
すかさず、有利香の踵がハチを押しつぶした。
茶色の体液が床に飛び散った。有利香は、さらに念を入れるように踵に重心を注ぎ、靴底にひねりを加えた。
丸野は、神妙な目をして、その様子を眺めていた。
「さぁ、案内するのだわよ。私は、どこへ向かえば良いのかしらよ?」
丸野は、後をついてくるように、有利香に目配せした。
何だか妙な感じだ。
オレが立てた作戦なのに、なぜか主導権を標的に握られている。
一応、標的を発見し、連行していく形になっているから、作戦は無事に進行しているわけか……
いや、やはり妙だ……
丸野の足は北側の裏庭を横切り、自転車置き場へ向かうが、自転車には目もくれず、自転車置き場の裏側に回り、身長よりも高い生垣に沿って、西側へ歩いた。
「これから、ボスの所へ連れていく」と、丸野が歩きながら説明した。
「オマエ、大丈夫か? 正直言って、逃げるチャンスはあっただろうに、わざわざオレにボスの元へ連れていかせるなんてよ。ボスは、オレなんかと違って、甘くねえぞ」と言って、丸野は鼻で笑った。
「移動手段は、どうするのかしらよ?」と、有利香が尋ねた。
「車だよ。学校の駐車場に停めてある」
「キミの車かしらよ?」
「ボスのだよ」と、丸野は気だるそうに答えた。
「運転はキミがするのかしらよ?」
「当然だろ」
「免許は持ってるのかしらよ?」
丸野から返答は無かった。
* * *
まもなくして、パンナと犬飼の両人が、北校舎一階の宿直室前に到着した。
パンナは、早急に状況把握するため、忙しく『走査』を働かせた。
(宿直室内に散在する無数のビニール袋)
(菓子パンの包みのようだ)
(争った形跡は無い)
パンナは、さらに北校舎通路に視線を向けた。
(約六メートル先より前方に向かって、血痕が残っている)
(人間のモノだ)
(血を落としながら、東に向かった模様)
二十四メートル先の床に、えぐれた痕がある。
(弾丸の発砲によるモノか)
(突き当たりの壁に、その弾丸がめり込んでる)
(先ほど感じ取った二つの銃声の一つか)
さらに、調理室のドアの蝶番、天井の蛍光灯ソケットの一箇所に、何かが反射したと思われる痕が残っている。
(こちらは弾丸じゃないね)
(三十一メートル先に落ちているアレは……)
パンナは、眉間に指先を当てて考えた。
(昆虫の死骸だね)
(踏み潰されているようだ)
パンナは、疲労気味にうなだれる。
犬飼は、無言でパンナの体を両腕で支えた。
パンナは、ニッコリと笑顔を見せた。
「ちょっと久しぶりなんだ。こういう感じがね。どういうわけか、『情報』が極端に得られない状況になっている。ここで何が起きてたのか、さっぱりわからないんだ。これから何が起きるのかもね。でも、これが普通なんだよね。わからないのが当たり前なんだ。私も、前はそうだったんだし……でも、今はそうじゃない生活を送ってきてるし、それに慣れちゃったから……だから、ちょっと不安になってるんだ」
パンナは、犬飼の大きな体に寄りかかった。
「怖いんだ。『予測』できないことが、こんなにも怖いなんて……犬飼クン、悪いけど、少しだけ手を握っても良いかな」
犬飼は、大きな手の平をパンナに差し出した。
パンナは、乳を求める子犬のように、犬飼の手にすがりついた。