十六
「このカギじゃない」
丸野は、宿直室のドアに付いている南京錠を乱暴に揺さぶりながら、イラ立ち気味に言った。
「でも、職員室には、このカギが置いてありました」
そばに立つ沼田和哉が言った。
使いものにならなくなった白尾の代理で連れてきた男子だ。
背は低く、白尾に比べてケンカ慣れしていないが、頭の回転は早い。
ケンカが強いだけのヤツなど大して役に立たないし、そばに置いておくなら、少々弱くても賢いヤツが良い。
沼田は、すぐに頼んだものを用意してくれる。
丸野は、事前に職員室で管理されている全ての特別室の合カギを作らせておいた。
沼田は、手際よく、この言いつけをクリアした。
白尾相手では、こうは行かない。
うまく行かなくて、結局、最後に出てくるのは、いつも言い訳ばかりだった。
「カギが替えられてるんだ」
丸野は、強固な南京錠に蹴りを食らわした。
派手な音が響くだけで、南京錠には何のダメージも与えていないが。
「でも、これではっきりした。カギが替えられてるってことは、この中に隠れてるヤツがいて、中に入ってほしくないからだよな。そいつの仕業だよ」
丸野は、部屋の中にも届くような大きな声で言った。
「では、これを」
沼田は七十センチほどある重量のあるバールを丸野に手渡した。
「気が利くねえ。最初から、これを使えば手っ取り早いことはわかってたんだけどね」
丸野は、バールを振り上げ、器用に南京錠が通る留め金を打った。
留め金部分が根こそぎ外れ、頑固だった南京錠は口を閉じたまま、あっけなく留め金ごと地面に落下した。
そして、ドアノブに力を込め、ゆっくりと回した。
部屋の中は薄暗かったが、うっすらと畳敷きの和室であることはわかった。
あと、部屋の隅に古びた背の低いチェストと、襖で締め切られた押入れが見えた。
「西藤」
丸野は、小声で呼んだ。
部屋に人の姿は無い様子。
足を踏み入れると、爪先にガサガサしたモノが当たった。
拾い上げれば、空のビニール袋だった。
『チーズ蒸しケーキ』
一つと言わず、無数の袋が床に散らばっていた。
(アイツの好物だ)
丸野は、ニヤリと笑った。
「いるのはわかってる。いい加減に出てこい」と、丸野が部屋の奥に向かって言うが、返事は無かった。
「つまらない意地は、無駄だと思うがね」と、丸野はさらに言い、右耳に手を当てた。
少し間をおいてから、「この場合、『無駄』という表現は適切ではないわよ」と、押入れの方から女子の声が聞こえた。
丸野の背筋が、ムチを打たれたように震えた。
スルスルと押入れの襖が開き、下段から西藤有利香が這い出てきた。
「『無駄』というのは、判断の対象に見込みが無い場合を差すのだわよ。見込みがある場合は、『面倒』と表現するのが相応なのだわよ」
「ついに捕まえた」
丸野は、握り締めた拳を頭上に振り上げた。
カーテンを閉め切った薄暗い室内で、身長百四十一センチの有利香の小さなシルエットが浮かび上がった。
有利香は、少しずつ丸野のそばに歩み寄った。
どんな表情をしているのかは、黒い影が顔を覆っていてよくわからないが、恐怖に引きつった顔をしているようには思えなかった。
やがて、ぼんやりと白いヘアバンドが浮かび上がり、その輪郭の変化で、距離感が詰まっていった。
「オマエ、なかなか面白いことを言うな」と、丸野が口を開いたタイミングで、有利香の足が止まった。
二人の距離は一メートル程度だが、それでも有利香の表情は、未だに確認できなかった。
「『無駄』か。『面倒』か。今のこの状況が、オマエには『面倒』と感じさせ、このオレから逃げられる見込みがある、と言うのか?」
丸野が問いかけるが、有利香は立ち止まったまま、口を開かなかった。
「ハッタリだ」
今度は、丸野の方から詰め寄り、ブレザーの内ポケットから取り出したモノを有利香に突きつけた。
それは、銃身が十センチ長の拳銃だった。
銃口の先端が、有利香のちょうど鼻先あたりで止まった。
「しかも、オレは用心深いんだ。どんな相手でも容赦はしないタイプでね」
フウと有利香から、ため息の漏れる音が聞こえた。
「それこそ『無駄』な準備だわよ」
有利香は、手の平を銃口に当て、丸野の方へ押し出そうと力をこめた。
危うく、撃鉄にかかる指に力が入りそうになった。
「危ねぇな。何をする!?」と、丸野は焦りを見せた。
「今のキミの反応、わかりやすいのだわよ」と、有利香は指摘した。
「私を『殺せ』とは言われてないのだわよ。その拳銃の弾が間違って飛び出たりでもしたら、ヤバいのはキミの方なんじゃないかしらよ。撃てもしない拳銃を出してくるなんて、『無駄』と表現する以外、言いようが無いのだわよ」
丸野はうろたえ、拳銃を引っこめようとするが、もう一度、有利香に銃口を向けた。
室内は暑く、こめかみから汗が流れ落ちた。
「そろそろわかってほしいのだわよ。キミには選択肢が無いのだわよ」と、有利香は慰めるように言った。
「さっさと出ろ!」と、丸野は、鼻息を荒くした。
そばにいた沼田が、有利香の腕を掴み、乱暴に外へ引きずり出そうとした。
有利香は、沼田の動きを読んでいたかのように、無駄のない動作で腕を振り解き、いつの間にか部屋の外に出ていた。
丸野は慌てて振り返り、有利香の後を追った。
沼田は茫然としたまま、暗い部屋に取り残されていた。
「早く来い!」
丸野の呼ぶ声で我に返り、沼田は外に出た。
危なかったと、丸野は胸を撫でおろした。
逆にオレたちが閉じこめられるドジを踏むところだった。
明るいところに出て、初めて有利香の表情を見た。
あの薄暗く、蒸し暑い部屋の中にいたにも関わらず、きめ細かな雪のような白い肌には、汗の一滴も流れた形跡が見当たらなかった。
(何だこいつは!?)
(余裕しゃくしゃくで、太々しい態度は、まるで矢吹嬢みたいだ)
「丸野さん」と、沼田が声を掛けた。
「行きましょう」
「あ、ああ」
丸野はぎこちなく頷き、気を取り戻して、拳銃を有利香に向けた。
「そんなもの向けなくても、キミが行こうとする方角に付き合ってあげるわよ」
「良い心がけだ。ついでに、オマエの協力者もここに呼び出すんだな」と、丸野が反撃した。
有利香の足がピタリと停まった。
「あの部屋は、外から南京錠が掛けられてた。誰か他に協力者がいることぐらい、誰だってわかるだろ?」
丸野は、勝ち誇ったように自らの推理を披露した。
「これは忠告だわよ」と、有利香は丸野を見ずに言った。
「この場において、自分の敵を増やすのは、賢い行動とは思えないのだわよ」
「なるほど。忠告か。このオレを助けてくれるというのか。親切だね」と、丸野が言うのと同時に、バシッと有利香の足元でムチを打つような音がした。
深緑のビニール床材が涙型にえぐれ、下地のコンクリートが剥き出しになった。
丸野の構える拳銃から硝煙が上っていた。
「とにかく前に進め」
丸野は、下卑た笑みを見せながら言った。
「その生意気な口を塞いでやるからな。おい、沼田」
丸野は、背後にいるはずの沼田に向かって呼び掛けた。
「この女の口を布で縛れ」と、丸野が命令するが、沼田からは返事が無かった。
「おい。聞いてるか?」
丸野は、後ろを振り返った。
沼田は、遥か後方に床上を這うように倒れていた。
「どうした?」と、丸野は尋ねた。
沼田は、ピクリとも動く気配がなかった。
「無駄だわよ」と、有利香は言った。
「彼は死んでるわよ」
「死んでるだと?」と、丸野の声が裏返った。