十一
薄らぼんやりと見えるのは、天井に密着している丸いシーリング・ライトだった。
白尾は、ピントを合わせようとするが、瞼に重い力が掛かり、目を開けていられなかった。
「気がついたか?」
丸野の声が、左の方から聞こえた。
白尾は、声の方を確かめようとするが、瞼を長く開けていると目頭に痛みが走り、すぐに閉じずにはいられなくなってしまう。
そして、ジワリと涙が集まってくる。
タマネギをスライスしているみたいだ。
「丸野だろ、そこにいるの?」
「ああ」
気だるそうな丸野の声が返ってきた。
「ここどこだ?」
「オレの寮だよ」
「何で、ここにいるんだ?」
「オレの寮だからだよ」
「いや、オレのことだよ。なんで、オレがここにいるんだ?」
「オレが運んできたんだよ」
「運んだ?」
「苦労したぜ、まったくよぉ」
丸野の声が遠ざかった。
立ち上がって、台所の方に向かったらしい。
白尾は、丸野の動きを確かめようと試みるが、やはり目を開けていられなかった。
「クソ。目が開かない!」
「ボスの蹴りをまともに食らったからな」
「……」
「注意しただろ。あれほど、ボスのことを『ダイさん』とは呼ぶなって」
「ダイさん……」
「たぶん三日は治らないぜ」
「あれは、うっかり……」
「その『うっかり』のおかげで、もらうべきものをもらい損ねちまった。嶋田の写真代、オレが自腹切ってるんだ。あとで、オマエに弁償してもらうからな。それと、ここに運んでやったお礼も含めてな」
丸野は、畳みかけるように白尾を責めた。
「わるい……」と、白尾は力なく呟いた。
「いずれにしても、明日決行だ」
「明日……」
「オマエは参加しなくて良いよ。その目じゃ、無理だ」
「でも……」
「気にするな。ボスからは五十人の兵隊を使って良いって許可をもらったからな。オマエが一人抜けたところで別に支障はないから、休んでて良いよ」
「そうか……悪いな」
白尾は、安心したように笑顔を見せた。
「いくらなんでも、五十人いれば大丈夫だよな」
丸野は、チッと舌を鳴らした。
「オレは、西藤とは同じクラスだが、教室以外ではもう会えなくなってる。どうやってるのかわからないが、いくら尾行しようと後をつけても、教室から出たとたんに見失っちまうんだ。アイツは、明らかにオレたちの行動を読んでる。オレたちの意表をついて、逃げちまうんだ。明日は逃がすわけにはいかない。何がなんでも捕まえて、ボスに引き渡すんだ」
「ボスは、何で西藤にこだわるんだろな」
白尾が独り言のように言った。
「さあな。でも、西藤の行動を追っていて、今は何となくわかるような気がしてきたよ。あの女子は普通じゃない。何かよくわからんが、妙な『才能』を持ってる。それも、矢吹嬢に並ぶくらいの『才能』だと思う」
「矢吹嬢……」
「問題は、生徒会の動きだ。どこまで食い止められるか。できるだけ時間を稼がないとな。オレは、五十人でもギリギリだと思う」
「作戦は、もう考えてあるのか?」
「一応な。オマエの協力が無くなって残念だがな」
丸野は皮肉まじりに言った。
白尾はバツが悪そうにするが、丸野は気に留めていなかった。
「オレはうまくやる。あの矢吹嬢に一泡吹かせてやる」
* * *
佳人は、淡いピンクのカスミソウを挿した花瓶を、部屋の隅のテーブルの上に置き、そこから対角線を引いた角に椅子を置き、梨菜に座るように促した。
梨菜は、長い両脚を揃え、両膝の上に両手をのせた姿勢で、「今度は何を始めるのですか?」と、佳人に尋ねた。
「そこから、この花瓶を見て」
佳人は指示した。
カスミソウの小さな花にピントを合わせるのに、梨菜は目を凝らした。
「梨菜さん、視力はいくつ?」
「右が少し悪いです。左が1.0で、右が0.6」
梨菜は、少し気恥ずかしそうに答えた。
「別に恥ずかしがることはないよ。現代社会に身を置いて、視力を維持するのは難しくなってきているからね。ボクの視力も、そのくらいだよ。すると、その位置からだと、少しぼんやり見えてるって感じかな」
「七メートルくらいあります。はっきりは見えないです」
梨菜は、花の状況を見ようと頑張っていた。
佳人は、ニコニコしながら梨菜に近づき、上着のポケットから一枚のカードを取り出した。
「このカードの絵を見てごらん」
佳人が差し出したカードには、奇妙に色付けられた点や線が描かれていて、その配置に何か特別な意味があるようには思えなかった。
「何ですか、これは?」
「視線を外さないで、じーっと見てごらん」
佳人は、梨菜の視界から外れないよう、カードを持つ手をしっかりと固定させていた。
梨菜は、頑張って奇妙な絵のカードを見続けた。
「それぐらいで良いかな」
佳人はカードを梨菜の視界から外し、上着のポケットに戻した。
「すぐに、あの花瓶を見てごらんよ」
梨菜は、佳人が指差す花瓶に焦点を合わせた。
すると、それまでぼんやりと輪郭しか確認できなかった小さな花が、ヒマワリのようなスケールに拡大され、梨菜の視界いっぱいに広がった。
梨菜は、思わず悲鳴を上げた。
「やはり驚いたようだね」
佳人はクスクス笑った。
佳人の姿を確かめようと、視線をカスミソウから外すと、視界は再び元通りのスケールに戻った。
もう一度、カスミソウを見ても、ぼんやりと小さく映るだけだった。
「何が起きたんですか?」
「もう一度、カードを見せるよ。同じ現象が起きるから、もう驚かないと思うけど」
佳人に言われたとおりにすると、やはり拡大したカスミソウが視界いっぱいに現れた。
視線を動かすと、元通りのスケールになった。
「私に何が起きているのですか?」
「『才能』を発動させたんだ」と、佳人はさらりと答えた。
梨菜は、佳人の言った意味が即座に理解できなった。
佳人は、カードを指差した。
「原因は、このカードの模様にあるんだよ。よくできた模様でね。見ることによって、視神経から脳へと情報が送られ、ある命令信号に変換されるように作ってあるんだ。今の場合だと、あのカスミソウに関する詳しい情報を持つ『マジック・アイ』を採取し、拡大画面で視界に映し出す命令信号が脳に伝わったんだよ」
「佳人さんの言ってることが、よくわかりません」
梨菜は、正直に理解できないことを伝えた。
佳人は、自分の顎を撫でながら、どうやって説明するかを考えた。
「そうだね、もっとゆっくり話すと、まず脳の中には、小さな『記憶領域』がある。これはOK?」
佳人の問いに、梨菜はうなずいた。
「その『記憶領域』というのは、視界に映った景色に関する情報が入る場所なんだ。ここまでOK?」
「いいです」と、梨菜はうなずいた。
「脳には、思考の『中枢』となっている場所があるんだけど、視界から得た情報は、一旦は『記憶領域』に格納されてから『中枢』に送られる」
「なぜ、『中枢』に直接行かずに、一旦、『記憶領域』に情報が入るんですか?」
「『中枢』は、視覚以外から来る多くの情報を取り扱っている。大きな容量を持ってるんだけど、情報を処理する速度が遅いんだ。『記憶領域』は、視覚情報を専門で取り扱う場所で、容量は小さいけど、速度は早い」
佳人は、簡潔に答えた。
「でも、『記憶領域』に入った情報は、『中枢』に送られると、すぐに消失してしまうんだ。そうすることで、次の視覚情報を取り入れ、同じように『中枢』に送るという動作を繰り返せる。『中枢』では、視覚から得た情報を元に判断して、次に行う動作を決定する。これが『見る』という動作の仕組だよ」
「わかりました」と、梨菜はうなずいた。
「で、このカードなんだけど」
佳人は、カードを親指と人差し指で挟むように持ち、クルクル回転させた。
「この模様から得た情報も同じ流れで、まず『記憶領域』に入り、『中枢』へと送られる。ただ、この情報はすでに実行できる命令信号の形になっていて、『中枢』で判断されることなく実行に移される。このカードの場合だと、視界に入ったカスミソウの拡大像が表示された。要するに、キミの視力が50.0くらいに拡張された、というわけだ」
「それに似たカードを見たことがあります」と、梨菜は唾を飲み込みながら言った。
「その話は、ボクも聞いてる。『物理的扇動』、通称『FA』と呼ばれてるこのカードは、いわば源泉だよ。脳に取り入れることによって、初めて機能するんだ。これを使えば、『権限者』でなくても『マジック・アイ』を取り扱うことができるんだ。悪用される可能性があって、危険なカードでもある。有効に使われると良いんだけどね」
「今日の佳人さんの話は重かったです。使い慣れない言葉が、いっぱい出てきました」
梨菜は、大きな瞳をクルクル回していた。
「確かにね」
佳人は、カードをポケットにしまった。
「『才能』の活用は、人類の『進化』の枠を超えた醍醐味を含んでる。とはいえ、『進化』という元々の計画の範疇に、すでに『才能』の活用というモノがあったのかもしれないけどね。面白くなるのは、ここからだよ」