一
雨足は、一向に弱まる気配が無かった。
浦崎警部は、家のシャワーより強いぞと、若い警官連中に冗談を言って回った。
年季の入ったレインコートは、買った当初のアイボリー色が妬けて、今や黄色に変色していた。
突貫に設けられた現場保護のためのブルーシートの中は、すでに十月の最中でも、汗が滴り落ちるほど蒸し暑かった。
警部の視線が、地面に大の字になって横たわっている塊に向けられた。
かつては、歴とした生き物だったモノである。
水浸しのコンクリートの地面に、半分めり込むように仰向けにされた女子の後頭部は、膨らんでいた部分をストンとまっすぐに切り落としたように水平の地面の形状に密着し、腕の付け根などは有り得ない方向に曲がっていた。
大きく見開かれ、生気を失った目からは透明な膜がはみ出しており、軽く開かれた唇の縁から、たまった雨の滴が頬を伝わって、耳孔へ吸い込まれるように流れていた。
(こりゃ、あんまりだな)
いたたまれなくなった警部は、ブルーシートの外に出て、豪雨に打たれながらも深呼吸をした。
校舎を見上げれば、閉め切られた窓ガラスにへばりついて、興味深そうにこちらを窺っている学生たちの姿が見えた。
さらに、四階建ての校舎の屋上に目を向けた。
首の付け根に軽く痛みが走り、骨の軋む音がした。
あの高さからの落下で、人間は体が内側にめり込み、もはや生き物とは呼べない塊になれる。
警部は身震いした。
ピシャと水たまりを踏みつける音が聞こえた。
後ろを振り返れば、濃淡の異なるピンクの派手な切り替えデザインの傘が、視界に入った。
いつ現れたのか、激しい雨の中を、女子が一人たたずんでいた。
何とも派手な風貌だった。
細長の面持ち。
尖った顎。
切れ長の細い目には、綺麗な二重の淡いピンクのラインが通っていた。
肌はヨーグルトのような乳白色で、頬には淡いピンクのファンデーションが施されていた。
服装は、この学校の制服とは異なるセーラー服で、胸ポケットの内側から、スマホのストラップらしきピンク色の小さな猫のチャームが外に出て、宙ぶらりんにされていた。
次に髪型。
薄茶に染めた髪の後ろはソバージュにちぢれさせ、前髪をストレートにすき、額の真ん中あたりでキレイに揃えており、ピンク色のメッシュが走った小さな三つ編みの束が、幾筋も耳の前後に垂れ下がっていた。
両耳には、ピンクのウサギのピアスが下がり、傘を持つ手には、蛍光ピンクのブレスレットが見えた。
中指と薬指に見えるビーズの指輪もピンクを基調としたもので、肩から下がるバッグのベルト部にもピンク色が通っていた。
「キミ」
紺色のレインコートの若い刑事が、ピンクの女子に話しかけた。
屋上の検証に行っていた屋高が戻ってきていた。
「あまり近づいてはいけないよ。まだ、捜査中なんだ」
ピンクの女子は、屋高の方を瞳だけ動かして、チラリと見ると、頭をゆっくりと動かし、警部の方に視線を向けた。
その後、少しの間だけ目を閉じ、再び開いたと同時にクルリと背を向け、傘をクルクル回しながら去っていった。
「警部」
屋高は、すでにブルーシートの入口まで移動し、手招きをした。
「報告を始めます」
警部は渋い顔をし、ブルーシートに入った。
「まず、この子の名前ですが、岡田美夕。当校、I市立高校の二年生です」
屋高は、メモを見ながら声を張り上げた。
「溌剌とした性格で、成績も上位。校内活動も活発で、生徒会役員も務めていました。ご覧のとおりの美貌ですから、特に下級生の女子生徒からの人気が高かったそうです」
「なるほど。つまり、悲しむ人間が多い。どおりで土砂降りになるわけだ」
警部の冷かしに、屋高は苦笑した。
「自殺の動機は不明です。悩みや不平不満を抱えるタイプではなかったようですから」
「死亡時刻は?」
「午前十一時四十五分頃です。大勢の生徒が、教室内から彼女の落下を目撃しています。いつ屋上に上がったのかは不明ですが、クラスメートの話によると、二時限目の授業には参加していたことがわかっております。国語の授業で音読をしていたからです。三時限目の始めには、すでに姿が無かったそうです。おそらく、二時限目が終了した直後に、教室を出て行ったのでしょう」
「そして、戻らなかったわけだ」
警部は言いながら、屋高が肩に掛けている紺色のショルダーバッグに関心を示した。
屋高は、警部の反応に気付き、ショルダーバッグを警部の足元に置いた。
「教室に置いてあった岡田美夕の持ち物です。中を調べましたが、遺書らしきものは見当たりませんでした」
警部は、おもむろにバッグを取り上げ、中に手を入れた。
「他殺の線も考えられるか?」
警部の目が鋭く光った。
屋高は、その視線から逃れるように、自分のメモに注目し、報告を続けた。
「この子は、強引に屋上の有刺鉄線のフェンスを乗り越え、空を舞ったようです。右手の平に有刺鉄線のトゲが刺さった痕がありましたし、制服には無数のひっかき傷がありました。やはり自殺の線が濃厚だと思われます」
「動機は何だろうな。こういう子が自殺しなければならない理由を知りたいよ」
警部はショルダーバッグの中身を一つずつ確認しながら言った。
「生徒会役員か……あの子なら、何か知ってるかもしれないな」
「あの子って、誰ですか?」
屋高が、抜け目なく詮索した。
「何というほどもない話だよ。姪がいてね、この学校の生徒会役員をしている」
「それなら、色々と事情が聞けるかもしれませんね。すぐ呼び出して、話を聞いてみましょう」
警部は、屋高の意見には乗り気が無さそうに舌を打った。
「同じ生徒会の役員なら、この女子生徒の自殺に、かなりショックを受けてるはずだ。慌てることはないよ」
「そうですね……」
「それより、監察医と連絡はまだつかないのかな?」
「すぐに確認します」
屋高は、ブルーシートの外へ逃げるように去っていった。
警部は、ショルダーバッグをまさぐる手を止め、現在手に持っているものを、しげしげと眺めた。
長年の経験から、自分の直感を信じるようにしている。
様々な現場を見てきた自分の視覚を通じて、本能的に手掛かりと成り得るものと、無関係なものとを識別でき、それは大方の信頼を委ねることができる、と自負していた。
私の目に止まったものには、きっと何か意味があるに違いない、と。
警部が手にしていたのは、少女向け小説の文庫本だった。
タイトルは飾り気のない明朝体で、赤く『マジック・アイ』となっていた。
作者名は由衣結香。
表紙には、高校生らしい制服姿のハンサムな青年と、瞳をキラキラ輝かせている少女が描かれていた。
特に特徴は無く、珍しい装丁でもない。
警部は、文庫を開き、書き出しの部分を読み始めた。