04
白い。
その世界は見渡すかぎり白かった。
地面を覆うように生えた様々な種の草花も、空をすっぽりと包み隠す大樹の枝葉も、唯一の住人たる人も。
しんしんと降り積もる雪のような白い粒。
腕を掠めても溶けないそれは、この空間すべてを覆う大樹、レクシアの結晶体が砕け散ったものだ。
「行くの?」
真珠色の髪に理因子還元体が落ちる。
それを軽く払うようにしながら頷くと、大きくて鮮やかな青緑の双眸が歪んだ。
胸元で揺れる小さな白銀の輪をきゅっと握り、唇を噛み締める。
「ごめん、でもこれ以上いると――にも迷惑をかける。必ず帰ってくるから」
泣かせたくない、そう思って色々言葉を選んだはずだったのに、結局は悲しませてしまった。
「戻ってきたら俺と……結婚してほしい」
云いながら跪き、小さな手の甲に口付けをする。
「駄目……かな」
「結婚? 何?」
真っ白な睫毛が大きく揺れた。宝石のように綺麗な青緑の目が不安そうな色をたたえている。
「結婚って言葉は本当はつがいの間じゃないと使わないんだけど、俺はずっと――といたいんだ。だから形だけでもいい。俺と結婚してほしい」
あわてて立ち上がって目の前の細い腕をとって抱き寄せる。小柄な体がすっぽりと腕の中におさまった。
甘く綺麗な香りがふわりと広がり、鼻腔をくすぐる。
「本当は一秒だって――と離れたくない。でもこのままじゃ一緒に外も歩けない。だから許して欲しい。刑期を消化したら、すぐに会いに行くから」
「絶対?」
不安の色がまた濃くなる。安心させようと、今度は大きく頷いた。
「約束だ」
蝶が飛んでいる。
◇
人の気配を間近に感じて、竜は反射的に起きあがった。
それとともに今しがたまで見ていた夢は霞のように消えた。
けれど頭の中に澱のように残る記憶があの白い夢だと告げている。
確か夢の中では名前も呼んでいたはずなのに、目が覚めたとたん、その名はすっかり抜け落ちてしまっている。
またか。
竜は大きくためいきをついて、机の上に倒れこんだ。
夢の中では相手の名前も知っているし、実際に呼んでもいるというのに、目が覚めてしまうと名前がまるで思い出せなくなってしまう。
いや。
竜は机の上にのびたまま、ぼんやりと目の前を見つめた。
本当は名前などとうに知っているのだ。
けれど頭の中のそれを引き出そうとしたり、口に出そうとしたりすると溶けるように消えてしまうのだ。
まるでこの世に存在する文字と発音では表せないとでもいうように、頭では認識できているのにそれを口に出すことができない。
竜はふたたびためいきをついて、自分の上に影を作る少年を仰いだ。
「頼……何だよ……」
「目つき悪いよ、お前」
顔まねをして目を細める頼に、竜はこれみよがしに長嘆した。
「あたりまえだろ。お前のせいで夢の内容、忘れたんだぜ?」
「例の彼女の夢だろ」
「何で?」
「にやにや笑いながら寝てた」
竜は夢の内容などまるきり覚えていなかったが、適当に話をあわせた。
「わかってんだったら起こすなよ。あーあ、最悪だよ。俺のささやかな楽しみをお前が奪ったんだ。どうしてくれるんだよ。今日はもう何もやる気起きねーよ」
「人のせいにすんなよ、お前がやる気ないのなんていっつもだろ」
「……お前にだけは云われたくない。大体何の用だよ」
「別に大したことねえよ」
「大したことないんだったら余計にたち悪ぃよ!!」
「そうだなあ、起こすこともないくらいに大したことじゃないぜ。今から大体五分以内に教員室に行かないと、安藤が今日の練習メニュー、倍に増やすって云ってただけ――」
頼が言葉をすべて云い終える前に竜は立ち上がった。
「早く、それ云えよ!」
「だって大したことじゃねーもん。オレにとっては」
「死ねよ、頼!」
竜は駆け出した。
職員室は一階にあって、三階の竜の教室からはかなり遠い。五分はかなりぎりぎりだった。
一階ずつジャンプして飛び降り、下駄箱の前を猛然と走る。
その目のはしに『それ』の姿をとらえた。『それ』は校門の外にいた。
学校の前をうろうろしている。朝はやっかいだが、学校にいるときは『それ』は無害だ。
『それ』らは家や校内にまでは入ってはこないからだ。理由はわからないが、強力なシールドでもはられているかのように、外をうろついているだけだ。
竜は『それ』から視線を外し、職員室に走っていった。
今日はいやに『それ』らの数が多いような気がした。