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目の前には斑鳩が『ゲート』と呼ぶ空間のひずみがある。
竜は立ち上がると、ゆっくりと黒い球に手を近づけた。
触れる瞬間、先程の衝撃のことを思い出し、反射的に指が硬直する。
だが今は躊躇している場合ではないと思い切り腕を押し込んだ。
指先が触れた瞬間、感電したような衝撃が全身へいきわたる。
一瞬ブラックアウトした脳の奥で誰かの声が聞こえた。
その声はよく聞くと一人の声ではなく、数多くの人の集合体だった。
何と云っているのかは判断がつかない。
様々な人の声がさざなみのように押し寄せては掻き消えていく。
かすかな声は、じょじょに大きくなる。
はじめはわからなかった言葉も少しずつ理解出来るようになってきた。
―――……めた
糾う縄のように一体化していた音の集合体の中でその声だけははっきりと頭の中に響いた。
その声はひどく懐かしくて、力強いものだった。
あれだけ不安だった心中がその声を聞いたとたん、霧が晴れるようになくなった。
何とかなる。
特に解決策も浮かばなかったし、斑鳩のいう仮名もわからないままだったが、何故かそんな気になった。
―――俺とお前で上に行く。とるぞ十九階を
光にあふれたその声の持ち主が誰なのかを竜は知っていた。
幼馴染みで親友。そして命に代えても守らねばならない大切な主の声。
「俺は……」
言葉に出来ない充足感の中で竜は陶然としていた。
その脳裏に青がかすめる。
青い、青い蝶だ。
きらきらとまたたく鱗粉は闇夜に浮かびあがり、あの子供を映し出した。
白銀の髪、深い青紫の瞳。誰よりも大切な――
―――だれ?
「俺の名は」
吸い込まれるように脳裏に名が浮かぶ。
瞬間、光がほとばしった。
その光は頭に思い描いた名前を中心に広がり、竜の意識すべてをまたたく間に飲み込んだ。
*
「おにいちゃん、まだかな…」
昴はほうっと息をついて、リビングの時計を見上げた。
短針はもう十の数字にかかろうとしている。
昴は冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを注いで飲み、かたわらの体温計をとりあげた。
耳につけ、すぐにとりはずす。熱はもう下がっていた。
帰ってきたら一番に報告しようと思っていたのに、兄はいつになっても帰ってこない。
周囲にブラコンと云われるほど自分を溺愛している兄がこれほどまで帰宅を遅らせることなど今までに一度もなかった。
「どうしたのかな……」
誰もいないリビングでひとりつぶやき、昴は母親の趣味でかざられたフォトフレームを手にとった。
写真を人一倍嫌がる兄を、昴が説得して写した随分と前の家族写真だ。
仏頂面の少年の横で今よりも幼い顔をした自分が晴れやかに笑っている。
変な顔だと思った。
見るのが嫌になり、写真をもとの場所に置こうとしたそのとき、昴は異様なめまいを感じた。
「あ……」
手からするりと写真たてが落ちた。軽い音を立ててカーペットの上に倒れる。
昴はその場に崩れ落ち、口元を押さえた。何かが吸い出されるような感覚が全身を包み込む。
昴は強烈な吐き気にもよおし、その場に倒れこんだ。
フォトフレームには昴と父母の姿のみ写し出されていた。




