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湯冷めしそうな一夜

 土曜日深夜の温泉は俺にとって大切な趣味だ。その楽しみ方は日中から、あるいは金曜日の夜から始まっている。

 金曜日は決まって長め残業で、もうくたくたになるまで仕事をする。機械油や化学物質にまみれ、汗とストレスにまみれ、俺は金を稼ぐ。そして土曜日は、徹底的に眠ったのち、日も高いうちからアルコールを飲んで、スナック菓子とパソコンに没頭する。疲れがマシなときは、部屋の隅々を大掃除したり、ちょっと筋トレをして、さらに汗をかいたりする。

 そうして誰にも会わず、どろどろになった身体を持て余し、さすがに限界となったとき、二十四時間営業しているスーパー銭湯へと原付を走らせるのだ。

 はじめにサウナ。汗だくの身体から、ありとあらゆる汚れを絞り出す。身体を洗い、次はジェットバス。激しい轟音に包まれながら、無心の修行僧となる。流されまいとする躰の強さによって、俺はやっと生を実感する。次はつぼ湯か、高濃度炭酸泉へ。そして仕上げは露天風呂へ。性質の異なる浴槽を移動しながら、一週間をリセットする。身体の汚れもそうだが、焦りや欲望にまみれた心すら、清らかに洗い上げる。そして、日曜日は綺麗な過ごし方をしようと、心に誓う。風呂上りにはアルコールは呑まず、一本の牛乳か、温かいお茶にする。これが最高だ。

 しかしある一日だけは、そうした深夜温泉を後悔した。

 草木も眠る丑三つ時、などと云われるように、深夜という世界は、本来何が起こるか分からない無法地帯である。そのときの俺は、自分こそ無法者だと思っていたが、彼らに会った後では、深夜に外出するのはろくなことではないなと思った。

 いつものように高濃度炭酸泉に使っていると、がやがやと人の気配が満ちてきた。こんな時間に団体客か。深夜のスーパー銭湯は基本的にはひと気がなく静かではあるが、稀に遊び終えたヤンキーたちが二次会のノリで混入してくることがある。それに関しては承知していたし、これまで特に絡まれたこともないので、俺はやれやれという具合に瞼を閉じ、彼らの入湯を待った。

 ところがその日は、喧騒に違和感があったのだ。

 ゆっくりと瞳を開けると、新たな客たちはヤンキーではない。老人や子供を含んだ団体だったのだ。

 長風呂をし過ぎて朝になってしまったのか? 

 そう思ったものの、露天風呂から見上げる空は黒いままだ。掛け時計は午前三時を指示している。

 俺は不思議な団体客を遠巻きに、つぼ湯に移り、もう少し滞在しようとした。だが、彼らは見れば見るほど異様だった。というのも、彼らは何もしゃべらないのだ。せっかく温泉に来ているのに、仲間同士で来ているはずなのに、あー、気持ちいい、とか、今日は疲れたね、とか、そんな会話は一切ない。皆黙々と身体を洗い、湯に漬かり出す。

 ぬるめのつぼ湯の中で、俺は背筋が凍りそうなほど寒気を感じ始めた。団体客の合間を縫って手早く上がり湯を済ませる。団体客は、まるで俺が視えていないかのように、視線を合わせなかった。しかしただ一人、六歳くらいの男の子が、俺のほうについてきた。

 俺は足を速める。冷たい石の上を歩くひたひたという足音が、ついてきた。

「〇〇くん! 〇〇くん!」

 と、男の子は高くよく通る声で云った。〇〇は聞き覚えのないカタカナ語だった。おかしい、絶対におかしい。俺は男の子を無視し、脱衣所に向かった。男の子は白く細い手を伸ばし、俺に触ってきた。ぬるりとする感触だった。

 ああ!

 俺の恐ろしさは頂点に達した。

 足早に、浴室を出る。

 すると、脱衣所でも恐怖が待ち構えていた。脱衣所では、団体客は皆揃って真っ白な服を着ているのだ。

 精神病院か、囚人か、宗教団体か。とにかく、普通の団体客ではない。俺は確信した。

 脱衣所の出口には、三十代くらいとみられる若い女性が立っていた。この団体客の管理者だろうか。男湯に女性がいて裸を見られる不安よりも、安堵のほうが圧倒的に勝った。

「すみません」

 俺はタオルだけを体に巻き付けてその女性に近づいた。

「本日って、何か、貸し切りでしたっけ?」

 尋ねると、女性は静かに、そして小さく呟き、うつむいた。

「どんな団体さんですか?」

 とは、とても聞けなかった。代わりに俺は、その女性の姿を観察した。このスーパー銭湯のスタッフではない。着ている服が違う。スタッフはベージュの作務衣だが、女性は黒い浴衣のようなものを着ていた。そしてその袖口には、見慣れない文様が付いていた。

 やはり、宗教施設か何かだろうか。俺はごくりと生唾を飲み下し、急いで服を着た。

 脱衣所を出る直前、ガラガラと音が聞こえた。

「〇〇くん! 〇〇くん!」

 先ほどの男の子が出てきたのだ。

 俺はぎょっとして振り返ると、生気のない客たちの、落ちくぼんだ目を視てしまった。

「う、あ……」

 絶句し、後退する俺。すると、弾かれたように動き出したのは、俺の横に居た例の女性も同じだった。

「すみません!」

 彼女は急に、俺にそう云った。

「え? 何なんですか?」

「こちらを!」

 女性は浴衣の袂から、青い小瓶を取り出し、素早く、力強くその瓶を開けた。そして新しい服に着替えた俺の背中に、それも、先ほど男の子の手が触ったあたりに、さっと小瓶の液体を振りかけたのだ。

「え! ちょっと、何なんですか?」

「これで大丈夫です。おかえりください」

「これ! 何なんですか!」

 俺は強く、責めるように訊いただが、女性は答えなかった。そして俺の背中をとん、と押して、脱衣所の扉を閉めた。

 どくんどくんと心臓の男が聞こえる。俺には再びその扉を開く勇気はなく、もやもやとした気持ちを抱えながら会計を済ませ、施設を出た。

 原付に乗る前、俺はさきほど男の子に触られた部分を指で探った。ひんやりとした謎の液体の感触はまだそこにあったが、液体自体は嘘のように乾いていた。臭いをかぐと、おだやかな白梅の匂いだった。香水だろうか……俺は考えるのをやめようとした。しかし、原付で走っている間、今度はあの男の子が発した言葉が気になって仕方がなくなった。

 家に帰ると午前三時半を回っていた。俺は非常に迷ったが、男の子の発した〇〇という言葉をスマートフォンで検索した。

 その聞きなれない言葉は、外国の地名だった。そして、その土地では一週間ほど前に大規模な交通事故があり、邦人を含む何人もの犠牲者が出たことを知った。事故の悲惨さを伝える写真はおぞましく、がれきの中から、白い手が伸びているものがあった。

 その手に見覚えがあったかどうか、記憶を確かめることは、とてもできなかった。

 俺はとにかくすべてを忘れたい気持ちで、スマートフォンの履歴を削除し、服を着替えると、ベッドに入った。

 これが、俺が体験した、湯冷めしそうな一日の顛末だ。


 END


お読みいただきありがとうございました。

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