第7話「あばばばばば」
「さて、飯時にはそろそろ良いかな」
「帰ろうか」
「ええ」
足を宿に向ける。家々からは炊事の煙が上がり、味噌汁や魚を焼くような匂いが漂っていた。
そういえば、朝から歩きどおしで、結局休んでいる暇もなく、意識すれば疲労と空腹がどっとやってきた。
少々重くなった足を前に前にと出して宿にたどり着けば、食事が出来ているという。荷物を部屋に放り込んで、そういえば、とクロに提案する。
「そういえば、クロと相部屋、ってなっていたからコンと部屋変えてもらおうか」
「私はあるじさまの刀ですから、構わないのですが」
「いや、そうもいかないでしょ」
どう見ても幼いとはいえ、本人が言うには年頃の娘である。同じ部屋ではこちらが何とはなしに困る。
「むぅ。仕方ないです」
などとクロは渋々、といった様子だったが、先に席についていたコンにもその旨を伝えれば快諾してもらえた。当然。
外は日も落ちていたが、食堂には魔道具のものであろう灯りが点けられていて、真っ暗、という事はなかった。
「さーってご飯ご飯」
卓について待っていれば、そう時を置かずして女将が食事を持ってくる。
「飯と汁は出るけど、ほかに食べたいもんがあったら他で買ってきな」
というもので、飯櫃に一杯の白米とお椀に盛られた大根の葉の味噌汁、そして沢庵といったものが夕飯だった。
飯がまずい、などという事もなく、質素ながら実に旨いものだ。思わず空腹も相まって、話す合間もなく掻き込んでしまう。
その点、クロなどは上品なもので、箸先以外が濡れることもなく、茶碗を空にすると箸を置いた。
「ロウ殿もクロ殿も意外と少食だな」
「いや、コンが食べ過ぎなのだと思うけれど」
茶碗に三杯ばかりのご飯を、空腹とはいえ一気に掻き込んだせいで、少々胃が重いと思ったのだが、コンはさらに食べ進めていく。
今何杯目だろう。軽く五杯は超えている気がする。
「潜り屋は体が資本だからな。これでも足りないくらいだ」
締めの一杯にお湯をかけて、コンはさらりと流し込む。実に健啖だ。五合は入る飯櫃は宿に泊まっている全員分かな、と思っていたのだが、すっかり空になっていた。
「風呂に入ればまた腹も落ち着くだろう。そうなると蕎麦が恋しくてな」
まだ食う気か。若干呆れ気味な目を向けても、コンはその理由も解らず首を傾げた。
「さて、飯の後は風呂だ。風呂屋に案内してやろう」
という言葉に従って、石鹸や手拭いを持って行けば、銭湯とそう変わらない風呂屋がそこにはあった。
番台のおばあちゃんに八文払って風呂に入れば、湯気がふわりと木の香りを運んできた。
「あー、生き返るー」
「なんだ坊主、若えのに年寄り臭いな」
熱い湯船に浸かって思わず漏れた声を、横に座っていた職人然としたおじさんに茶化される。思わず苦笑して誤魔化した。
しかし、本当に怒涛の一日だった。何が何やらわからないままクロと出会い、森を抜け、平原を駆け抜け、桜国に入り、コンと出会い、ミカと出会い。
狼との一戦なぞ、初めての実戦だろう。おそらく。
「何がどうなっているのやら」
それが解るとすれば、それこそ神様だろうか。そういえば頼りない神様が身近にいるけれど。
湯船は熱く、とても百は入っていられそうになかったので、体を温めた後は速やかに退散する。
風呂上りにはやはり牛乳、と思ったのだが、どうにも牛乳を飲む文化はないらしい。それもそうか。
「ああ、ロウ殿、待たせたかな」
「あるじさま……足元が、まわってます……」
夜風に当たって涼んでいたら、随分と時間が経った頃にコンとクロが風呂屋から出てくる。
「いやいや、そんなにまってな……」
「どうした?」
ポニーテールから水気を含んだ髪を下ろして、風呂から出て軽く上気した頬をしたコンは、何と言うか、色っぽかった。
そういえば、すっかり目に入っていなかったが、彼女も普通に、おそらくは同年代の女性なのである。
少々気恥ずかしくなって目を逸らせば、湯あたりしたか真っ赤になったクロがそこに居る。
「何でもない。ほら、クロ、大丈夫?」
「だいじょうぶじゃないです」
風呂屋で冷や水を貰ってコンに飲ませ、頭に軽く絞った手拭いを乗せる。
「うー、すみません」
「のぼせるまで我慢してたら駄目だよ」
「まだ大丈夫だと思ったのですけれど、思ったより……」
暫くそうしていたところで、どうにも歩けそうにないので背負って行くことにした。
やはり同性の方が良いだろうとコンに背負ってもらおうとしたら、頑なに反対するものだから、結局、僕が背負っていくことになる。
「よっ、と」
「私はそんなに信用できないだろうか」
そのやり取りに微妙にコンがへこんでいるが、まぁ、今日会ったばかりだし、クロも人見知りのきらいがあるみたいだし。
そうは思ったが、ぺたりと耳を下げて、力なげに垂らされた尻尾がそれはそれで面白かったので放っておいた。
「あるじさま、それはどうかと……まぁ、良いですけれど」
やっぱりこの契約の糸、というものは中々に厄介である。
背負ったクロは思いの外軽く、風呂上りということもあってか温かかった。だらん、とくっついた体は柔らかく、ちょっとこちらが恥ずかしい。
彼女は微妙にコンに対抗意識があるというか、それよりもどちらかと言えば子供の独占欲に似たものを感じる。
「はい、到着っと」
「……」
宿まで背負って行って、部屋の布団に寝かせようと、クロを背中から下ろそうとしたら、彼女は首から手を話さず離れようとしない。
「……どうしたの?」
「あるじさま、いい匂いがします」
風呂上がりの石鹸の匂いだろうか。いやしかし、それを今言うか。彼女の口ぶりに何故か熱がこもっているような気がして、少々どきりとする。
「いやいや、何を言っているの」
「少し、少しだけ……」
少しだけ、何だというのだろう? と思っていた矢先、彼女を背負って少々はだけていた首筋にちくりとした痛みを感じた。
「つっ!?」
何が起きたかと目を向ければ、クロが噛みついている。がっぷりとそれはもう。
そういう愛情表現はどうかと思う。と軽口を叩こうとしたところで、膝が折れる。
「あばばばばば」
どうにも、彼女が噛みついているそこから力が抜けるようで、目の前に星が散ったかと思った次の瞬間には、意識がもう飛んでいた。