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誕生期

   人に近しき神 〜 アイヌ・ラックル伝 〜



   第 一 章  〜 誕生期〜




 これは、今より遠い遠い昔のお話。まだ、旦那様が人とよく似た神アイヌ・ラックルと呼ばれていた頃のお話でございます。



 その当時、大地分断つ創造神モシリ・カラ・カムイ様のお手によって、地上が天と地、海と陸に分かれ、

 生命芽吹かし女神イカッ・カラ・カムイ様のお手によって、陸に木々が、海に魚々が生まれたばかりの頃のこと。

 遍く全て見通す梟神コタン・コロ・カムイ様が地の底より這い出し魔神たちに目を光らせ、

 遍く全て切裂く狼神レェプ・カムイ様が地の底より這い出し魔神たちに牙を光らせていた頃のこと。

 生命抱く大地アイヌモシリに、それはそれは、美しくご立派な一本のハルニレの大樹がそびえ立っておりました。

 その大樹は、かつてはコタン・コロ・カムイ様が宿り木としてお住まいになられていたと言う由緒正しき大樹でございまして、それ故でございましょうか、コタン・コロ・カムイ様がお住まいを変えられてからしばらく、いつしか、その木に一人の精霊がお住まいになっていたのでございます。

 ああ、いえ、“住んでいる”というのとは違いますわね。だって、あのお方はハルニレの大樹そのものなのでございますから。

 あの方は、原初のハルニレの木の魂が人型を成したモノ。アイヌモシリ最古の精霊であり、我が愛しき旦那様のお母上となられるお方なのでございます。

 そのお方――チキサニ姫様は、さすが旦那様のお母上と申しますか、それはたいそう見目麗しいお方でございました。

 膝まで伸ばした、ふんわりと長いハルニレの葉と同じ色をした碧の髪に、はかなく白い、まるで雪で造り上げたかのような肢体。

 顔立ちかんばせはあの方の純真さを顕すかのように幼さを残しており、しかし、その双眸は彼女が幼いだけではない“強さ”を持っていることを顕すかのように、紅く煌めいておりました。

 生まれ出でてより、ときに奏でる、あの方のお心がそのまま形を成したようなその歌声は、風に乗ってアイヌモシリにいる全てのモノの心を、夜闇を引き連れ忍び寄る魔神たちの心すらをも癒やすほどでございました。

 地上の木々も、海中の魚々も、創造の四柱の神々も、およそアイヌモシリに住まう全ての者たちが彼女を愛し、大事にしておりました。

 いえ、アイヌモシリに住まうモノだけではございません。

 六天の神々も、地底の魔神たちも、あの方の存在を知った全ての者たちは彼女を愛さずにはいられず、大切に思わずにはいられませんでした。

 故、天地の神々全てに“何神たりとも、ハルニレの精霊(チキサニ姫)に触れるべからず”という御布令が、天の神王、地の魔王の名の下に出されたのでございます。

 ですから、本来ならばチキサニ姫様は、皆の愛に見守られ、大事に大事に、それはもう大事に扱われ、幾年月までアイヌモシリと共に在り、この地上に愛と慈しみを振りまき続けていくはずでございました。

 ――が、

 どこの世界、いつの時代にも命に従わず『上の命令ムシするオレ様格好良い!』とか勘違いしている困ったおばかちゃんがいるものでございまして……。

 ええ、つまり、この世界、この時代にも、そんな困った大馬鹿――もとい、大神が存在していたのでございます。


 

 その日は、朝から雲一つない青空の広がった、久方ぶりの気持ちの良い一日でありました。

 長々と降り続けていた雪は止み、柔らかな日差しが地に降り積もった雪を、じわり、じわりと溶かしていく、春の匂いを感じる一日。

 雪の降る間は、大樹の中で眠っておられたチキサニ姫様も、暖かな陽気に導かれて地上に降り立ち、春の訪れを歓ぶ歌を奏でられたり、仲のよろしかった日輪の六女神が末娘――日輪かかげる末姫神トカプ・チュプ・カムイ様と久しぶりの再会を喜び合い、語り合われたりしておりました。

 晴れの日々であれば、六姉妹が順繰りにお役目につくと言うこともあり、お二人は六日毎に出会うことが出来たのでございますが、此度は長々と続いた雪のせいで実に一月ぶりの再会。つもる話は降り積もった雪よりも多く、しかし、二人が会える時間はわずか、日が出でて日が入づるまでの半日のみしかなく。

 まだまだ語ること、語りたいことはいっぱいあるのにもかかわらず、いつの間にやら、太陽はそのお姿の半ば以上を西の山間に隠れさせていて……。

 二人が待ちわびていた楽しい一時は、あっという間に終わってしまいました。

 別れを残念に思いながら、トカプ・チュプ・カムイ様と「また六日後に」と再会の約束を交わされたチキサニ姫様は、ハルニレの大樹のてっぺんに舞い降り、トカプチュプ様のお姿が完全に見えなくなるまでお見送りになりました。

 太陽神がお隠れになり、代わりに夜闇照らす月男神クンネ・チュプ・カムイ様がお姿をあらわしますと、すぐさま夜のとばりが降り、色とりどり、あざやかに煌めく星々が夜空を埋め尽くしたのでございます。

 いつもでございましたら、トカプ・チュプ・カムイ様とお別れになられた後は、すぐに大樹の内にお戻りになってお休みなさるところなのですが、

 上を見上げてみれば、そこには大小様々な宝石を散りばめた満天の星空が広がっているのでございます。

 このような星空は、アイヌモシリでもそうそう見られるものではない貴重なもの。

 これを見ずに大樹に戻るのはもったいないと、チキサニ姫様は大樹のてっぺんに座り込んで、語り合うように煌めく星々を眺めることにしたのでございます。それが、ご自身の運命を激変させる選択であるともお気づきにならずに。

 あちらの赤い星が瞬いたかと思えば、それに応えるかのようにこちらの青い星がきらきらと光をこぼす。

 幻想的で、神秘的。

 いつまでも続く星々の語らいを、飽きることなく楽しげに眺めていたチキサニ姫様は――、

 「…♪…♪…♪…――?」

 ふと、一部だけぽっかりと黒い穴が空いていることに気づかれました。

 先ほどまではなかった、黒い穴。

 よくよく見れば、それは大きな雲のようなのですが、しかし、雲にしては何かが違うような……。

 「???」

 今まで見たことのないその『雲』に、興味を持たれてしまったチキサニ姫様は、よりよく見ようとその場から立ち上がり、じぃっと、目をこらして見つめられました。

 「……………………」

 そして、

 「――――!?」

 お気づきになってしまったのです。その雲の隙間から、ひょっこりと顔を覗かせる|大入道(、、、)の姿に。

 それは、本来はこの場にいてはいけない存在。

 神々の王で在らせられる六天統べし大空神カントコロカムイ様がご子息にして、六天で最も恐れられた荒神――猛し狂いし雷天神カンナカムイ様だったのでございます。

 カンナカムイ様と言えば、ここではない別の世界――旦那様が天意授ける導神サマイクル・カムイと呼ばれていた世界において、|お忍びで(、、、、)、天上界より地上世界をのぞき見しに来たおり、旦那様の従兄弟にあたりますオキクルミ様がお治めなさっておりました村の人間たちが、|お忍びで(、、、、)! いらした――大事なことなので二回申し上げましたわ――カンナカムイ様に気づかず、仕事に没頭していることに腹を立て、雷の雨を降らせて村を滅ぼしてしまわれたという、理不尽の塊のような乱暴者でございます。

 今回も、お父上に在らせられますカントコロカムイ様より「行くなよ? 絶対に行くなよ?」と念を押されたにもかかわらず、天界の波止場につながれた神揺籃シンターを勝手に持ち出し、噂のチキサニ姫様と|お近づき(、、、、)になろうと地上までやってきてしまわれたのです。

 接触禁止のお触れなど、重々承知の上で。

 おそらく、バレなきゃ問題ねぇ! とでも思っていやがるのですわ、あのハゲおやじ様わ。

 黒々とした暗雲に覆われたシンターの上から、お目当てでありましたチキサニ姫様を見つけたカンナカムイ様は、

 「…! …! …! …!」

 自分を見上げるチキサニ姫様の美しさに興奮しきり。言葉を発することすら出来ず、出るのは荒い鼻息ばかり。……ちょっと、いえ、かなりキモいぐらい興奮していますわね、このおっさん。

 茹でたタコのように真っ赤に染まった顔に、ハートマークのお目々でいたいけな少女を鼻息荒く見つめるヤンキー風おやじ。

 普通であれば、こんなおっさんに見つめられたら怖くなってすぐさま逃げ出すか、キモッ……。と一言呟いて不快げに顔をしかめるところなのでございますが、しかし、チキサニ姫様は常人、常神とは違った、たいそう広く純粋な心を持っていらしたお方ですので、そんなキモおやじにもにっこりと優しくほほ笑まれたのでございます。ほほ笑んでしまったのでございます。

 「―――――――――――――――――――っ!!!!」

 すでに暴走寸前まで興奮なさっていたカンナカムイ様にとって、この|ほほ笑み(一撃)はセイフティロック解除の最終スイッチ。一気に上り詰めてしまいやがったカンナカムイ様は――

 「チッキィッスワニッ! ちゅわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっん!!!!!!!」

 と、チキサニ姫様めがけて急降下しやがったのですっ!!!!

 逃げてぇ! お義母様、逃げてぇぇっ!!

 と、思わず叫んでしまいましたが、しかし当然ながらあちらとは違う世界におります私の声など届くはずもなく、

 「――――っ!?」

 驚きに目を丸くなさっていた|ハルニレの大樹(チキサニ姫様)に|天の大雷(カンナカムイ様)が直撃!

 チキサニ姫様のか細いお身体はカンナカムイ様がまといし雷に蹂躙され、裂け、燃え上がってしまったのでございます。

 カンナカムイ様の尋常ならざる興奮のせいもあり、チキサニ姫様のお身体はそれはそれは激しく燃え上がり、その猛々しい雷炎は、地上を覆っていた夜のとばりさえも燃やしてしまい、まだまだ夜の闇が続くはずだった地上を、昼のように明るく照らしたのでございます。

 突然、地上に太陽が落ちてきたかのような光と轟音。

 それは、一日のお勤めを終え、深い眠りについていた四柱の神々をたたき起こすには十分すぎるものでございました。

 すわ、魔神どもの総攻撃か!?

 と、四柱の神々は慌てて仮住まいの洞穴を飛び出されたのでございます。

 さて、自分の方へと駆けてくる四柱の神々に気づかれた、この大惨事を引き起こした当神ことカンナカムイ様はと言えば、

 やべっ!

 と、いそぎ慌ててシンターに飛び乗ると、脇目もふらずにとっとと逃げ出しやがったのでございます! 

 か弱き乙女にしこたま乱暴狼藉を働いておきながら、責任取ることなく我が身可愛さに逃げ出すとは、まさに外道の所業! まさしく女の敵そのもの!! ほんっと最低ですわ、あのおっさん!

 逃走したカンナカムイ様と入れ替わるようにして、燃え盛るハルニレの大樹の元へと駆けつけた四柱の神々は、予想だにしなかった出来事に、

 「――――っ!?」

 と、イカッ・カラ・カムイ様は息を呑まれ、

 「……………」

 と、モシリ・カラ・カムイ様は茫然自失となり、

 「〜〜〜〜〜〜っ」

 と、レェプ・カムイ様は怒りに牙を剥き、

 「――――」

 と、コタン・コロ・カムイ様はすぅ――っと、目を細められました

 四神四様ながら、そろって言葉を無くされてしまった四柱の神々。

 憤怒や動揺でまっ白になった頭と心にとらわれ、燃え盛るハルニレを、ただ、黙って見上げていた四柱の神々でしたが、

「……………!」

 いち早く正気を取り戻されたモシリ・カラ・カムイ様は、「やっ!? こりゃいかんわ!」と、残りの三柱に「しっかりせんか、お主ら!」と渇を入れ、火を消そうとチキサニ姫様を飲み込む雷炎に挑みかかられたのでございます。

 「ほいっさぁ!」

 と気合いの声を上げられたモシリ・カラ・カムイ様、山を裂いて地下深くに眠っていた大量の冷たい水を引っ張り上げると、ハルニレの大樹まで大地を割って水を導かれました。

 高き山の上から、巨岩をも呑み込む勢いで流れ落ちてくる水。その水にしたたかに、激しくたたかれた大樹を焼く雷炎は――



 しかし、いっかなその勢いを弱めることはありませんでした。



 「なんじゃと!?」

 驚愕し、目を剥かれるモシリ・カラ・カムイ様。

 「どかれよ、モシリ殿」

 そう仰って、モシリ・カラ・カムイ様を押し退けるように前に進み出られたコタン・コロ・カムイ様。並み居る魔神どもを吹き飛ばし、海面を荒れ狂う嵐のように変えるその羽ばたきを、何度も何度も振り続けました。ハルニレの大樹を根こそぎ吹き飛ばすかのような強風に煽られた雷炎は――



 それでも、いっかなその勢いを弱めることはありませんでした。



 「なっ!? これほどとは」

 驚嘆し、舌を巻かれるコタン・コロ・カムイ様。その後ろより、疾風と共に前に躍り出られたのは――

 ガゥルルルルッ

 唸り、雷炎を威嚇するように牙を剥かれるレェプ・カムイ様。

 「ッウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」

 天へ向かって咆哮を発されると、ハルニレの大樹の周りを疾走はしり出されました。一蹴りごとに疾風かぜを起こしながら、残像すらかすむ勢いで回り続けられるレェプ・カムイ様。その疾走りは巨大なつむじ風を巻き起こし、燃え盛る雷炎ごとハルニレの大樹を呑み込みました。

 つむじ風は、そのうちにある大気を吸い込み呑み込み、雷炎から空気を奪っていかれます。

 さしもの雷炎も、大気が無ければ燃え盛ることは出来ず、

 徐々に、徐々に、その身を細く、小さくされていき――――



 ついに、種火のように小さくなって、|ハルニレの大樹(チキサニ姫様)を解放なされたのでございました。


 

 やっと、雷炎から解放されたチキサニ姫様。…………ですが、時、すでに遅く

 火が消し止められたそこにはもう、あの美しく、可愛らしかったチキサニ姫様のお姿はなく、人型の大きな炭が一つ、あるだけでございました。

 かつてはチキサニ姫様の右目であったところに、かつてはチキサニ姫様の下腹であったところに、半ばからへし折れ砕けた左肘の向こう、半ばから爆ぜて吹飛んだ右足の奥に、チキサニ姫様を苦しめた雷炎の残り火が煌、煌、と、まるで命の鼓動のように今もなお燻り続けておりました。

 モシリ・カラ・カムイ様も、

 イカッ・カラ・カムイ様も、

 コタン・コロ・カムイ様も、

 レェプ・カムイ様も、

 唐突すぎるこの別れを受け止めきれず、ただ、ただ、茫然と立ち尽くしておりました。

 葉擦れの音一つ無く、魚の跳ねる音もなく、空虚なアイヌモシリにあるのは、ちり、ちり、と微かに、しかし、確かに、形を失っていくチキサニ姫様のお身体の音。

 鼓動のように明滅しておりました雷炎の残り火も、四柱が見つめる中、徐々に、徐々に、弱々しく力を無くしていき、

 キンッ! と、澄んだ甲高い音を立て、最初にチキサニ姫様の右足だったものが砕け、まっ白な砂のようにきめ細かな灰へと変わってしまいました。

 右足に呼応するかのように、肘から先を喪っていた左腕も音を立てて砕け、左腕の次は左肩、そして、左胸が砕け、欠けすぎて均衡を無くしてしまった身体は、ついに――

 


 ひときわ大きな音を立てて、チキサニ姫様のお身体のいたる所がへし折れ砕け、灰の山へと変わってしまわれたのでございます。



 ひときわ大きな声を上げて、幼女のようにわんわんと泣かれるイカッ・カラ・カムイ様。残りのお三方も、声を上げることを必死に堪えながらも、あふれ出す涙を止めることは出来ませんでした。

 チキサニ姫様の死を悲しんでいるのか、しんと静まり返っていた木々も大きくざわめき、魚々も耐えきれないというようにのたうち、水面を激しく打ち鳴らしました。

 アイヌモシリの全てが、悲しみに張り裂けんばかりの声を上げ続けておりました。

 幾時間、幾日とそうされていらしたでしょうか、声も枯れ果て、泣き疲れた頃、四柱の神々は、ふと、それまでのものとは違う“音”が混じっていることに気づかれました。


 それは、喪失に嘆く泣血ではなく、


 それは、降誕を告げる神の産声!!


 その声がいずこから聞こえてくるのか、四柱の神々は方々に目をやり耳を澄まして声の主の居場所を探され、

 ほどなくして、レェプ・カムイ様とコタン・コロ・カムイ様の二柱の神々が、同時にその声の主の居場所に気づかれ、そちらに顔を向けられました。

 それは――チキサニ姫様だった灰山のその奥。いまだ燃え尽きることなく燻っておりました雷炎の残り火。

 コタン・コロ・カムイ様が、そっと、小さく翼を動かされ、生み出した風で灰を覗かれますと――


 

 「おぎゃあああああああああああああああああああああああああ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!!!!」



 と、落雷のごとき大音声の産声が、夜明け前のアイヌモシリに響き渡ったのでございました。

 「おお」「ぇ?」「……」「うぉん」

 灰山から生まれてきた赤子を目にした四柱の神々は、予想だにしなかった事態に揃って目を丸くなさり、

 「「「「〜〜〜〜っ!!!!」」」」

 そして、その|赤子の意味すること(、、、、、、、、、)にお気づきになった四柱の神々は、揃って憤怒に目を剥かれたのでございました。

 母親そっくりの色白の雪肌に、ハルニレの実のような紅い瞳。そして、全身にまとった父親譲りの雷炎。

 つまり、この赤子はチキサニ姫様とカンナ・カムイ様の間に生まれた赤子であり、この事態を引き起こした張本人こそ、禁を破ったカンナ・カムイ様そのひとであるということ。

 四柱の神々が覚えた怒りは凄まじく、もし、この場にカンナカムイ様がいらっしゃっていたならば、その御身は四柱の怒火に六度は焼かれ、灰も残さぬほど燃やし尽くされていたであろう、そう思わせるほどの激憤でございました。

 わなわなと怒りに震えられていたコタン・コロ・カムイ様は、ぎんっ! と、鋭く細めた視線を天に向けられると、翼を大きく広げられ――

 「待たれよ、コタンの」

 今にも飛び立とうとしたところを、イカッ・カラ・カムイ様の、怒りを押し殺しすぎて感情全てを殺したかのような抑揚のない声によって、引き留められてしまったのでございます。

 「そなた、どこにいくつもりか? よもや、あの愚神カンナのもとではあるまいな?」

 「……」

 そのまさかだ。と、無言で頷かれるコタン・コロ・カムイ様。

 ヤツに報いを。死をも超えた苦痛を持って罰する。と、決意をあらわに、元々鋭く、鋭利な刃物を思わせる目をさらにすーっと細められるコタン・コロ・カムイ様。――と言うかですわね、完っ全無敵にキレてますわね、これ。だって、悪さした妹を折檻して半殺し――当人的にはほぼ瀕死と言っても良いでしょう――にしたときと同じ顔してますもの。

 そんなぶち切れ状態のコタン・コロ・カムイ様に対し、愚かな。とでも仰るかのように、苛立ちの混じった盛大な嘆息をもらされるイカッ・カラ・カムイ様。

 「今、そなたがすべきことはそのようなことではない。そなたが向かうべき先はあの愚神のもとではなく」

 イカッ・カラ・カムイ様は感情を抑え込まれたお顔を、今も泣き続ける赤子へと向け、



 「あの、赤子を救える神のもとじゃ」



 かすかにも予想していなかった――と言うより、おそらくは怒りの炎が頭の中から赤子の存在を一瞬で焼き尽くしてしまったのだと思いますが――イカッ・カラ・カムイ様のお言葉に「…………救う、ですか?」と鋭く細められた双眸をゆるめられるコタン・コロ・カムイ様。

 「赤子を救うとは、いかなる事じゃ?」

 隣で話を聞いていたモシリ・カラ・カムイ様も、思わず二柱の間に割って入られるように質問を投げ入れ、レェプ・カムイ様も「?」と小首をかしげられました。

 わかってない三柱の神々の反応に『これだから、男どもは……ッ』と、イカッ・カラ・カムイ様は苦虫を噛み潰したように表情をゆがめられ、

 「そなたら、よもや赤子が一人勝手に育っていくものと思っているのではあるまいな?」

 と、軽く――と言うには、いささか以上に険しい目つきで三柱を睨まれました。

 その目から揃って目をそらされる三柱の神々。どうも、お思いになさっていたようですわね、この殿方ご一同は。モシリ・カラ・カムイ様やレェプ・カムイ様はともかくとして、育児をなさっていたこともあるコタン・コロ・カムイ様までこの反応、ですか。そうですか。

 「いかなカムイであろうと、赤子が一人で育つわけが無かろう! あの赤子には、誰か養ってくれるものが必要なのじゃ! 早・急・に!」

 このうつけどもがっ! とイカッ・カラ・カムイ様に大喝され、首をすくめられる三柱。

 「…………じゃ、じゃったらの? お主が、養えば良いじゃろ?」

 と、すくめた首をおそるおそる伸ばしながら、うかつすぎることを仰るモシリ・カラ・カムイ様に、



 「出来たらしておるわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」


 

 堪えていたモノが完全にぶち切れてしまわれました。

 「出来たらやっておる! 出来たらとっくにやっとるんじゃ! それが出来んから言っておるんじゃろうがっ!!」

 このどたわけめが! と、抑えつけていた、此処にはいないどこぞの雷神様への分も――と言うか、大半がそっちだと思われますが――乗っけた怒りを男衆三柱にたたき付けられるイカッ・カラ・カムイ様。

 「我が娘の子じゃぞ! 我が愛し子が残した忘れ形見ぞ! そんなもの、わらわが育てたいに決まっておろうが!! じゃがな! 抱くことはおろか、触れることすら出来ぬものをいったいどうやって育てろと言うのじゃ!!」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 一言も、言葉を返すことが出来ない三柱の神々。ただ、ただ、目を伏せることしかできません。

 一度切れてしまった感情はもう押し止めることなど出来ず、なんでじゃ! なんでじゃぁ! と、再びわんわんと幼子のように泣きわめかれるイカッ・カラ・カムイ様。

 その泣き声に触発されたのかどうか、まるで同調するかのように赤子はより大きな声で泣き、身にまとう雷炎もより強く、遠くに四方八方に飛ばしては、地表を、樹木を、黒く焼き焦がしていきました。そして――

 雷が一条、イカッ・カラ・カムイ様の足下へ!

 「――がうっ!」

 「ぎゃわっ!?」

 危ういところでレェプ・カムイ様がイカッ・カラ・カムイ様の襟首をくわえて、その小柄な体躯を振り回すように引っ張り、雷から回避させて下さいました。

 間一髪、雷を回避させたレェプ・カムイ様は、『此処にいては危険だ』と、そのままずる…、ずる…、とイカッ・カラ・カムイ様を引きずり、赤子から遠ざけようとなさいます。

 「いやじゃ! いやじゃぁぁぁっ!!」と泣きわめき、だだっ子のように抵抗なさるイカッ・カラ・カムイ様でしたが、レェプ・カムイ様のお力にかなうはずもなく、赤子へと伸ばした手もむなしく、ずるずると遠ざけられてしまいました。

 二柱を追うように、コタン・コロ・カムイ様とモシリ・カラ・カムイ様も赤子の雷が届かない場所へ、一先ず退却と、安全と思われるところまでお逃げなされました。

 創造の四柱ともあろう重き神々が、たかが赤子の雷になにを。と、嘲る方々もおられるかもしれませんが、しかし、それはいささか短慮が過ぎるというもの。

 たかが赤子の雷と侮ることなかれ。かの赤子は、六天最強の荒神――猛し狂いし雷天神カンナカムイ様の御子、雷天神の嬰児ポン・カンナカムイの雷なのです。父に及ばずといえど、その威力は推して知るべし。神々といえど、その雷に打たれれば焼けて焦げて滅びる運命を与えられてしまうことでしょう。

 数ある神々の中でも特別、力ある重き神々――創造の四柱の方々ですら、赤子の雷を受けてはただですむわけもなく、おそらく、再生するまでに数百の年を必要とするほどの痛手を負われることとなるでしょう。

 故、赤子がこの雷を纏っている限り、重き神々といえど近づくことが出来ないのでございます。

 赤子の泣く声が耳に届かぬほどに遠ざかり、雷が跳ね回る軌跡もおぼろにしか見えぬほどにまで遠ざかられた四柱の神々は、なんとか落ち着かれたイカッ・カラ・カムイ様を中心に、額をつきあわせて『さて、どうするか』と議論を交わし始めました。

 『あの赤子に触れることの出来る、救える神を連れてくる』

 と、そうは申しましても、それに該当する神というのはなかなかいるものではありません。

 四柱とも、頭の隅から隅まで懸命に探しておりますが、なかなか該当する神を見つけることが出来ませんでした。

 そうして、うんうん唸ることしばし――――、

 コタン・コロ・カムイ様が手を挙げられ、


 「やはり、カンナカムイに責任を取らせるべきではないかと」


 と、目を細めてそう仰いました。まだ、折檻することをあきらめておられないのでしょうか?

 私と同じことをお思いになられたようで、イカッ・カラ・カムイ様は、じとり、と非難の眼差しをコタン・コロ・カムイ様に向けられました。

 コタン・コロ・カムイ様はその非難を首を振って否定されると、

 「確かに、アレを蹴り潰したい気持ちはありますが、それとこの案は別物です。アレならば、赤子に触れることが出来ます。アレは雷そのものなのですから。それに、アレは赤子の父親なのですから、親としての責務を果たさせるべきかと」

 と、ご提案なさいました。

 確かに、親が子を育てることは至極当然のこと。そこには神も人も違いはございません。ですが――

 「ダメじゃ」

 一言。イカッ・カラ・カムイ様はコタン・コロ・カムイ様の案を却下されました。

 「そなたの言うことは、まあ、おおむね間違ってはおらんがな。しかし、一つ根本的なことを間違っておる」

 根本的、とは? と、目で問われるコタン・コロ・カムイ様に、イカッ・カラ・カムイ様は小さく息を吐かれると、

 「そもそも、アレに子育てなど出来るわけがなかろう。重き神の育児など、そなたですらしくじるほどの難事じゃぞ?」

 うっ!? と、言葉に詰まるコタン・コロ・カムイ様。…………それを言われると、胸が痛くなりますわね。

 「ともかく、あれ以外の神に引き受けてもらわねばならん」

 他に案は? と、視線を巡らせるイカッ・カラ・カムイ様。

 ――と、

 |うぉん! (我に意見あり!)と鳴かれるレェプ・カムイ様。

 「誰じゃ?」

 と、イカッ・カラ・カムイ様が問えば、レェプ・カムイ様は、先ほどモシリ・カラ・カムイ様が創り出された川へと顔を向けられました。

 おお、ワッカウシの嬢ちゃんか! と、手を打たれるモシリ・カラ・カムイ様。

 確かに、水を司られる生命運ぶ流水女神ワッカウシ・カムイ様ならば、雷は効かないでしょう。水は、電気を通すだけで裡に残されることはありませんから。

 それはよい。と頷かれるモシリ・カラ・カムイ様とコタン・コロ・カムイ様。ですが、イカッ・カラ・カムイ様はと言えば……

 「…………」

 言葉無く、眉根を寄せて悩まれているご様子。

 おん? と、何か気がかりが? と小首かしげて問いかけられるレェプ・カムイ様。

 「うむ、いやな? あやつなら雷は効かんじゃろうが…………蒸発、しちまいやせんか、とな?」

 言われ、…………あ。とばかりに口を開かれるレェプ・カムイ様。

 イカッ・カラ・カムイ様が抱かれたその懸念は、至極ごもっともなことでございます。何故なら、先ほどチキサニ姫様を苦しめた炎によって、川の水は全て鎮火せずに蒸発させられてしまったのですから。

 あの雷炎と赤子の雷炎では、秘めたる力には大きな差がございます。とは言え、その起源は同質――共にカンナカムイ様由来のものでございます。ワッカウシ様が耐えられぬ可能性は十分にあり得ることでございましょう。

 ダメ、か。と気落ちされるように頭を垂れられるレェプ・カムイ様。

 「……他には、ないか?」

 問われ、三度頭をひねられる皆様方。

 しばしの時が流れ、やがて…………

 ぺちりっ! と、ご自身の額をたたかれるモシリ・カラ・カムイ様。思いつかれたようでございます。

 「誰じゃ、モシリの?」

 問われ、うむ。と一つ頷かれると

 「アトゥイコロんとこの嬢ちゃんならどうじゃ?」

 モシリ・カラ・カムイ様は伸ばしたおひげを撫でながら、そうご提案なさいました。

 大海征し十二神アトゥイ・コロ・カムイ様。その名の示すとおり、十二柱の|レプンカムイ(海原の王者)様で構成される、海を司り、豊漁を授けられる神々でございまして、その一番下の末姫神様は気性は優しく、しかし、秘めたる巫力は十二柱随一と言われているお方なのでございます。

 「あの娘っ子は頑丈じゃからな、雷はもちろん、熱も問題にせんじゃろ。気性も、ついでに器量も良しとくれば、何の問題もなかろう?」

 おおー。と、感心されるコタン・コロ・カムイ様とレェプ・カムイ様。そして、

 確かに、それならば……。と、納得されるイカッ・カラ・カムイ様でございました。  ――が、

 「いや、やはりあの娘御もダメじゃ」

 と、直ぐさま思い直し、またまた却下されてしまいました。

 むっ。と、少々気分を害されたようで、眉根をしかめられるモシリ・カラ・カムイ様。

 「何故じゃ?」

 と、ややトゲの生えかけた声音で問われますと、イカッ・カラ・カムイ様は困ったように頭をかきかき掻かれながら、

 「いやな、そなたの申すとおり、あの娘御には問題はないんじゃ。ないん、じゃがぁ、な? ……………あそこの兄姉が、許すと思うか?」

 ――あっ!

 と三柱そろって声を上げ、直ぐさまイカッ・カラ・カムイ様の言葉に深く納得なさいました。

 アトゥイ・コロ・カムイの皆様はご家族大変に仲が良く、特に末の姫神を大切に大切に、もう過保護すぎるくらい大切に扱っております。その娘に万が一――いえ、億が一にも傷つく可能性があるとなれば、あの方々が許可するとは到底思えません。例え、ご本神がやりたいと仰ったとしても、でございます。

 「ぬぅぅ……じゃったらどうする? ――ちゅうかじゃな、お主も却下ばかりしておらんでちっとは案をひねり出したらどうなんじゃ?」

 確かに、否定ばかりで自分からはなにも案を提示していないのは、あまりよろしい行いとは言えません。

 そうさなぁ……。と、一言つぶやき、イカッ・カラ・カムイ様は、下を見て、上を見て、また下を見て、と答えを探されるように視線をさまよわせながら思索にふけられ――、

 幾度目かの視線の上下運動の後、

 「……あやつなら」

 上がりかけた夜のとばりの向こう――群青の空を見上げたまま、ぽつり、そう言葉をこぼされました。

 イカッ・カラ・カムイ様が思いつかれた神の名を聞いた三柱の神々は、

 ……あの娘なら、大丈夫、か?

 と一抹以上には不安は覚えながらも、

 「あやつなら大丈夫じゃ」

 何せ、他の神々とは思い入れからして違うからの。というイカッ・カラ・カムイ様の強い言葉に納得なされました。

 こうして助力を願う相手が決まりますと、出発の挨拶もそこそこにコタン・コロ・カムイ様は力強く羽ばたかれ、急ぎ六天目指して飛び立たれたのでございます。



 そうして――――――待つこと六日。


 

 東の空の向こうから、先導するコタン・コロ・カムイ様を追い抜きそうな速度で、一柱の女神がアイヌモシリの地に降臨なさったのでございます。

 降り立った女神は、緋色の厚地織を身にまとい、右手に|荷物(、、)をぶら下げた煌々と黄金色に光る双眸をした気高き女神――日輪かかげる末姫神トカプ・チュプ・カムイ様そのひとでございまして、全身から猛炎の如き気迫が噴き荒れておりました。

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 その発する威に気圧される三柱の神々でしたが、このまま黙っているわけには参りません。三柱の神々を代表し、モシリ・カラ・カムイ様が

 「あの、トカプ「赤子は?」

 何かを問われようとされたのでございますが、それを中途でバッサリ切り落とすかのように逆に詰問なさったトカプ・チュプ・カムイ様。

 トカプチュプ様よりもモシリカラ様の方が位は上なのですから、本来ならばこのような礼を失した振る舞いは叱責されるべきことであり、そもそも普段のトカプチュプ様でしたらこのような振る舞い自体なさいませんが、やはり親友たるチキサニ姫様の赤子の窮地とあってはとても心穏やかに振る舞うことなど出来ないのでございましょう。

 「赤子は何処です!」

 抱いた焦燥感をそのまま言葉にのせられ、再度詰問なさったトカプ・チュプ・カムイ様。

 「…………」

 その迫力にすっかり飲まれながら、モシリ・カラ・カムイ様はそれでもなんとか居場所を指で指ししめ

 「――っ!!」

 ――すやいやな、トカプ・チュプ・カムイ様は、礼の一言も惜しんで全力で駆け出されて行きました。

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 「…………」

 残された四柱の神々は、そろって点になった目を急速に小さくなっていく背中に向けられ……………

 「「「「――――っ!!」」」」

 やはり、そろって同時に我に返り、もはやすっかり見えなくなったその背中を追いかけられました。

 木々の間を駆け抜け、川を幾本も飛び越えて、やっと四柱がトカプチュプ様に追いついた頃。トカプチュプ様は赤子を前に、



 手にしていた|荷物(、、)に怒りの鉄拳を炸裂させておりました。



 「「「「…………」」」」

 またまた目を点にして、茫然とする四柱の前で、

 トカプチュプ様の手加減ゼロの拳を受けた|荷物(、、)は、高く高く宙を舞い上がり――けたたましい音を立てて地に落下いたしました。

 ぴく、ぴく、とひくつく|荷物(、、)をむんずと掴み、引きずりながら赤子へと歩み寄られるトカプチュプ様。

 近づいてくるその妖しげな人影に、赤子は光を失いかけた、うつろな目を向けました。

 「……………ぁぅ」

 人影を映したうつろな眼差しに、わずか怯えの色が宿り――ですが、赤子は満足に泣き声一つあげることが出来ませんでした。

 しかし、それは当然のこと。赤子が生まれ落ちてよりすでに六日が過ぎ去っております。その間、何も飲まず食わずで過ごされていれば、いくら人の子よりは遙かに丈夫な神の子と言えども憔悴は避けられません。お可哀想に、赤子はすでに泣くことすらままならないほどに弱っていたのでございます。

 とは申しましても、弱り果ててなお、赤子の雷炎は健在。放たれる距離こそ随分と短くなったものの、その威力はいささかも衰えた様子は見られません。いえ、と言うよりは、赤子は身を守る本能からか、距離を犠牲にすることで威力を保っておられるようでございます。

 自分へと、ゆっくりと近づいてくる異様な人影に、

 「………ぅ、〜〜〜〜」

 と怯え、かすれきった泣き声を上げながら、



 ――――!!!!!! 



 しかし、その弱々しい泣き声とは裏腹な、肚の底を震えさせる力強い雷を人影めがけて落とされたのでございました。

 直撃すれば重き神とて黒こげにしてしまう凶悪な雷。その雷が足下に落ちたのにもかかわらず、

 「……」

 人影は一瞥をくれただけで眉一つ動かしませんでした。歩みを止めることも遅らせることもなく、変わらぬ歩みで赤子へと近寄られていかれます。

 「あ〜、う、ああああああ」

 抱いた怯えが赤子に力を与えたのか、今度ははっきりと聞こえるくらいには大きな泣き声を上げ、再び人影めがけて雷を発しました。

 今度は足下を穿つなどと言う威嚇などではございません。その雷は人影を焼き尽くさんとばかりにその胸元めがけて一直線に伸びていき――、

 どぉん! と、人影を――彼女が手にしていた荷物カンナカムイを撃ち貫きました。

 カンナカムイ様を貫いた雷は、そのまま彼の中で溶けて解れて消えていき――何の結果も生み出すことなく消滅してしまいました。

 「…………」

 初めて見る『何も起こらなかった』という結果に、赤子はきょとんとし、

 「あ、ああ、ああ、ああああ!」

 次いで恐怖に狂い、激しい雷の雨を人影めがけて降らせました。

 ――ですが、

 |雷の化身(カンナカムイ様)を盾に掲げ上げる人影――トカプ・チュプ・カムイ様には届かず、その雷は全て|盾(、)の裡に取り込まれて消え失せてしまいました。

 死にもの狂いで発し続ける雷は歩みを遅らせることすらかなわず、

雷を放つ力が尽き果てた時には、

 「……」

 手を伸ばせば触れられてしまうほどにまで近く、人影に近寄られてしまっていたのでございます。

 生まれ落ちてわずか六日とはいえど、人生で初めて経験する、|すぐ傍らに自分以外の他者がいる(、、、、、、、、、、、、、、、)という事態に、赤子は心底より怯え、しかし、もう這いずる力も泣き声一つもらす力すら残ってはおらず。

 赤子に出来るのは、ただ、怯えた眼差しを人影に向けることだけ。

 力尽き果て、もう一切の抵抗が出来ぬと見て取ったトカプチュプ様は、用済みとなりましたカンナカムイ様をその辺に放り捨てられると、

 おもむろに懐に手を入れられ――



 ふわり。



 懐より取り出されたご自身の物と同じ緋色の厚地織で、赤子を優しく包まれたのでございます。

 そのまま、そっと、赤子を抱き上げられたトカプチュプ様。

 その手から逃げようとするも指一つ動かせず、怯えた目を向けるしか抵抗できない赤子。

 その眼差しを向けられたトカプチュプ様の胸中は、ただ、ただ、赤子への憐れみしかありませんでした。

 人も、神も、生まれ落ちたときには常に、傍らには母親という他者が存在しておりました。生まれ落ちると同時に、母を喪ってしまった者はいらっしゃるでしょうが、しかし、かの雷天神の嬰児ポン・カンナカムイのように|生まれ落ちるより前に(、、、、、、、、、、)母を喪っていると言うことはございません。

 母に抱かれることはもちろん、母の温もりすらも知らない赤子。

 生まれたときにはすでに、孤独ひとりで在り続けるしかなかった赤子が、ただ、ただ、哀れだったのでございます。

 「よく、頑張りましたね」

 常ならば煌々とかがやく酷暑の太陽の如き双眸を、命を育む春の夕暮れのようにやわらかくゆるませ、赤子にほほ笑みかけられるトカプチュプ様。

 トカプチュプ様は、赤子をいたわるように頭を撫で、愛を注ぎ入れるようにそっと抱きしめられると――

 

 「……ぁ、ふわ」


 赤子は生まれ出でて初めて、安堵に相貌を崩されたのでございます。そして、その温もりにすがるように、弱りきった身体を預けられ――

 ふっと、命尽きたかのように、その身から力の全てを失われました。

 「〜、〜、〜、〜!?」

 思わず慌てふためくトカプチュプ様でしたが、

 すー。と、赤子が立てる、か細いながらも確かな吐息に、ほ〜っと安堵の息を吐かれました。

 「イカッカラ様。赤子に乳を与えたい」

 赤子をあやしながら、イカッ・カラ・カムイ様にそう願いを告げられるトカプチュプ様。いささか以上に礼の欠けた振る舞いではございますが、そこに目くじらを立てられるイカッ・カラ・カムイ様ではございません。

 「うむ、任せよ!」

 と仰るやいなや、厚司織の前をはだけさせ――って何なさってますの、イカッカラ様!?

 「イカッカラ様?」

 トカプチュプ様も怪訝そうに眉を寄せられました。赤子をあやす手は止めてはおりませんが。

 「? いや、じゃからな? 赤子に乳を与えようと」

 「いやいや。出んじゃろお前さん」

 モシリカラ様、突っ込まれるのはよろしいのですが、胸元凝視するのはおやめ下さい。かなりやばい犯罪臭がただよっておりますので。

 「なっ!? ば、バカにするでない! 出るわ!! もうびゅーびゅー出るわ!!」 

 「いや、無理じゃろ」

 「無理です」

 「お身体の年齢的に難しいかと」

 「(こくこく)」

 モシリカラ様、トカプチュプ様、コタンコロ様、そしてレェプ様と、即座に四柱全員に否定され、イカッカラ様は

 「…………」

 衝撃の重さに耐えきれず、その場に頽れてしまわれました。

 「……そ…な。…………からだ、からだか? この、からだのせい、か?」

 頽れたまま、茫然とつぶやきを地面へとこぼされるイカッカラ様。

 「なぜ。何故じゃ! 何故、わらわはこの身体を選んでしまったのじゃ!?」

 胸中を吹き荒れる激しい後悔を、言葉と両の手にのせて地面にたたき付けられるイカッ・カラ・カムイ様。その点に関しましては、私も常々不思議に思っているところでございました。

 私たちカムイは、本来の世界である神々住まう六天カムイモシリとこの生命抱く大地アイヌモシリとでは違う姿をとっております。これは全て、強大すぎるカムイの力が地上に悪影響を及ぼさぬよう、力を封じる衣――厚司織をまとって地に降り立つが為。選んだ厚司織が大鹿を摸した物であれば大鹿に、大熊をもした物であれば大熊となって地に降り立つのでございます。

 そして、イカッ・カラ・カムイ様が選ばれた厚司織は――

 十に届くかどうかと言う、童女を摸した物。

 故、本来ならば『すーぱーもでる』もかくやと言う二〇代半ばのような豪奢な美人が、今は思わず頭を撫でたくなる愛らしい童女の姿へと変わっているのでございます。本当に、何故その姿を選ばれたのでしょうか?

 とにもかくにも、その姿では赤子に乳を与えるなど出来るわけもなく――と言うよりも、出来たとしてもそのようなある意味恐ろしい光景、見たくありませんわ――、イカッカラ様は赤子に乳を与えられる動物を、「せめて」とチキサニ姫様の灰を使って生み出されました。

 狐に狼、カワウソにウサギ、リスにアザラシと、「これだけ居れば、赤子の好みにあった乳もあるじゃろ?」と、多種多様な動物たちを生み出されました。やはりご自身で乳を上げられないのがご不満なのか「わらわが出せれば、必要なかったんじゃがな」と、ちょっぴり唇をとがらせながら。

 「モシリ様、赤子に住み処を与えたい」

 トカプチュプ様の次なる願いを、モシリ・カラ・カムイ様は「うむ」と快く引き受けて下さいました。

 「なら、やはり使う物は――これじゃろ」

 そう仰いますと、モシリカラ様はやはりチキサニ姫様の灰を手に取り、大地にばらまかれました。

 地に舞い降りた灰は、直ぐさま立派なチキサニの若木に変わり、青々とした茅へと変わりました。そして、若木は独りでに丸太へと切り分かれて赤子が暮らすための屋敷の骨組みに、茅はやはり独りでに束ねられて骨組みを覆い、赤子を雨風から護る壁や屋根へと変わったのでございます。

 そして、最後に――

 「…………」

 トカプチュプ様は、六日経ってなお、まだ燻り続けている雷炎の残り火を拾い上げると、右手に赤子、左手に雷炎、右側にレェプ様、左側にコタンコロ様を従えて屋敷へとお入りになり、チキサニ姫様の灰が敷き詰められた囲炉裏に、雷炎の残り火を埋められたのでございます。

 「我が親愛なる友よ。安心して欲しい。あなたの遺児は、今日まで得た私の全てを注ぎ込み、あなたの名に恥じぬ立派な男の子に育て上げて見せよう」

 チキサニ姫様の形見と言っても良い囲炉裏を前に、トカプチュプ様は今は亡き親友に向けて誓いの言葉を捧げられました。

 そして、

 屋敷の最奥にございます神境窓カムイプヤラへと向かい、

 「我が愛しき太陽の姉妹たちよ。しばしの間、我が名をあなた方の元へと預けよう。今日より私は、この子の育ての姉――

 

 

 神を養育せし姉神イレシュ・サポを名乗る」



 こうして、この日、四柱の神々に見守られ、アイヌの地に後のアイヌラックルとなる赤子と、その養い姉で在らせられますイレシュ・サポ様が誕生したのでございました。




                        誕生期 了。 少年期に続く。


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