この世をなんと考える? それは、修羅道よ、 その2、
この世の中のことをなんと考えたらいいのだろうか?
毎日報じられる、強盗殺人、子供殺し、親殺し、テロ事件。内乱や民族紛争。
汚職や賄賂、不正支出、不倫、裏切り、誹謗中傷。いじめ、介護自殺、痴呆症。
過労自殺に、難病、障害、うつ病、下流老人、引きこもり。医療過誤、近隣トラブル。
偽装食品、うそのもうけ話、詐欺。オレオレ詐欺。悪質訪問販売。
まさに不幸のオンパレードですよね。?
どこにもいい話なんてありません。
でも?
よく考えて下さい。
いいえ、
よく考えるまでもなく?
それが世の中というものでしょ?
それが世の中の真相でしょ?
まさに人間とは苦しむために生まれてきた?
とでも、、いうしかないような人生絵図ですよね?
「生まれ落ちたことが、すべての不幸の始まりだ、」
と、、、いった賢者がいましたが。
確かにこんな汚濁の世の中に生まれたことが、諸悪の❓始源でしょう。
人間の一生とは何でしょうか?
まず生まれた時からその「不幸ループ地獄」?は始まるのです。
生まれ持って重度の障害児として人生を授かる子もいますよね。
その子に何の罪もありません。
でもたまたま?その子が障害児だったという回り合わせ?だったというのでしょうか?
もちろん。その両親の罪でもありませんね。
両親とも健康で、不摂生もせずに、胎児に影響するようなことは何もしなくっても、
障害児が生まれることもあるからです。
これはもう、原因は不明としか言えないのです。
なぜ?この両親だったのか?
なぜ?この子だったのか?
それは永遠にわからないのです。
受け入れるしかない。
「神よ。このことはあなたの配意・神慮だったのですか?
もしそうであるなら、私は黙って受け入れます」
そういうしかないのです。
この例が示すように
人生はこのように人知を超えた「不条理」「不公平」「不可知」
のものとして、、まずその始まりから、私たちの前に、立ちはだかるのです。
さて、では幸いに?五体満足で生まれた子供はどうでしょうか?
それは直ちにその生まれ落ちた両親の環境に全面的に依拠する。
と断言できますね。
例えば、、大金持ちで名家で知的な両親のもとに生まれた子と、
母親はアル中で父親は刑務所に入獄中で、極貧の家に生まれた子と、
その二人の子が共に、健常児であったとしても、
この二人の子供に待ち構えている人生が同じというわけにはいかないでしょう。
生まれ落ちた両親がどうだったか。
そこからすでに子供の人生航路は
全く正反対?という船出ということです。
でも?
じゃあなぜあの子は恵まれた両親のもとに生まれ
この子は極貧の無知な両親のもとに生まれたのか?
その差を、だれが合理的に説明できますか?
誰にもできませんよね?
ただ、、偶然だった、、とでもいうしかないでしょ?
ここでも人生は「不条理」で「不公平」です。
「人間は生まれながらに平等である」
という、言葉がむなしく聞こえるのは私だけでしょうか?
人間は生まれながらに平等なんかじゃやない。
生まれた時から、不平等で不公平そのもじゃないか。
体格だって
容貌だって
知能も
人種も
別に私が望んでそのように生まれたわけでもないですよね?
生まれて物心ついたら
自分は日本人だった
知能はそこそこだった
容貌もそこそこだった
ということでしょ?
私は作られた存在、
誰かに作られた被造物、
私は自分の創造者なんかじゃやない。
これが人生の真相でしょう。
生まれた国や、生まれた時代、生まれた人種、生まれた両親によって
既に、
とんでもない不平等そのものだからです。
「人間は生まれながらに平等である」
なんて、きれいごとは、現実には通用しないのです。
現実は
「不平等」「不公平」そのものだからです。
さてそうして
この子供たちは生まれながらの不平等を、理由もわからずに、合理的な回答も得られずに、
背負わされて生きてゆくことになるわけです。
その生きる道とは、
あるいはその子の生まれ持った資質とか性格、成育歴。生活環境、交友関係、社会情勢
などの複雑な要素で
どっちにでも、それから、つぎからと、転がってゆくのです。
生まれた時に、両親を選べなかったように、理由もわからずに
あるいは不遇の、あるいは恵まれたところに生まれ落ちたわけですが、
でもそれからの人生はもっと不条理で不公平ですよ。
恵まれた両親のもとに生まれたからと言って一生そうであるはずもなくて
一夜にして破産。家族崩壊だってあるでしょうし、
極貧の両親のもとに生まれた子も、何らかの才覚で、あるいは僥倖で
一代にして成功者になりあがることも可能ですよね。
本人の努力もあったでしょう、でも人生は努力だけではない、
いくら血のにじむ努力をしても、一生浮かばれない人がほとんどだからです。
極貧から身を起こして成功者になるなんてほんのわずかですよ。
あとはほとんどが野垂れ死にです。
それが人生の真相ですよ。
そうして
冒頭にも列挙したように
人生航路には実に様々な
罠や
落とし穴
策略
謀略
が待ち受けていて
いきなり足をすくわれたり
刑罰を食らったり
不慮の事故死したり
突然の末期がん宣告を受けたり
人生とは、全く不条理そのものなのです。
何も、何一つ悪いことをしてないのに、ある日袋をかぶされて連れ去られて北朝鮮に拉致される人だっているのです。まったく無辜の民がこうして突然の不幸のどん底に落ちるなんて
残念ながら、、私たちの人生においては
まあ、よくあることでもあるのですね。
例えば、
善人の鏡みたいな人で、人々のために尽くした人で
自分は貧乏で、、ただ他人に尽くした人ですよ。
それが、、
晩年、突如、原因不明の難病に罹られて
のたうち回り激痛にさいなまれて,苦しくって、悶死した人を、私は知っています。
この人は何も悪いことはしてません。
それどころか善事を尽くして表彰も何度も、受けた人ですよ。
それがこの死にざまですよ。
私は深い、疑惑にかられました。
かと思えば
悪人で
こすっからくて
他人を蹴落として
ケチで
そういうやつが富栄えていたりもするんですよね。
そして、病気もせずに元気で、80年も生きてある日、、コロリ往生ですよ。
これってどうなってるんですか?
「いったい神は何をお考えなんだろうか?」
「この世に神はおられるのだろうか?」と。
私は深い疑念に囚われたのです。
人生は
全く不条理で
不公平で
不可解です。
でも?
それが人生なのだよ、と。
最近になってある種のサトリ?
に至ったというのが私の結論?近況ですよ。
それは、、おそらくは、
たぶん?
もっと高い次元の目で見れば
辻褄はあっているんじゃないか?
我らのような、肉の子の、低次元の人知では
それは
不合理で
不公平で
不条理
でしか無いのだけれども、、
もっと高い次元の
我らの及びもつかないような高次元では
きっと?
ちゃんと?
辻褄があってるんだろう。
そこでは
多分
一切は
合理的で
公平で
道理があってるんだろう、
ただ肉の子の人知では
それがわからない?
だけなんだろう。
そう私は思うようになったのです。
まあ
体のいい、逃げ?でしかない、
と言われればそうですが、
でも?
そうでも考えなきゃあ、
こんな不条理だらけの
不公平だらけの
人生ってやってられませんものね。
私たちは
生まれたのもあなた任せ?
生かされてるのもあなた任せ?
そうして死ぬのもあなた任せですよ。
どれ一つとして
自己決定権など皆無ですよ。
そういう被造物としての自己存在として、
結局、ただ、
「それが神のご配意なのなら、、、、そのようになれ」
というしかないのでしょうね。
それが人生の本当の、真相なのでしょうね。
悲しくもあり
ある種の安堵でもあり?
それが
人生なるものの
奥義❓なのだと考えるしかない
のでしょうね。
それが
肉の子の悲しい限界点?
なのだということなのでしょうね。
「白露の朝日に溶けるつかの間に神与えたもう命なりけり」
秋山河 宗風連 自詠