皇太子の暗闘
ディリウスは、皇宮の片隅にある倉庫や使われていない離宮の区画に一人でいた。
時間は夜。新月の今日、ほのかな月明りすらない周囲は一歩先さえ判然としないほど深い闇に覆われている。
かすかな靴音だけが響いていたが、ディリウスが立ち止まったことで耳に痛いほどの静寂が広がる。
ゆっくりと瞬きを二度、三度と繰り返したディリウスは口元に笑みを浮かべる。自嘲するような、苦いものだった。
「…バカバカしい、と思わないか?」
ディリウスのみのはずの空間。問いの答えは当然返らない。
「オレは、別に何もいらなかったんだよ」
呟きと共にディリウスに白刃が迫る。
死角から投げられた暗器は、唐突に現れた淡い燐光を放つ半透明な壁によってはじかれて床に転がる。
それにわずかに動揺する気配を感じ取り、苦笑をにじませたディリウスは音もなく剣を抜く。
あまりにも静かな抜刀に、気配の主達が息をのんだのを知る。
「死にたい奴から来い」
冷ややかな呟きが、戦闘開始の合図だった。
無数に飛んでくる暗器の類を剣一本で叩き落とす。さっきの半透明な壁、魔力障壁はもう展開されない。出来ないのではなく、意図的にディリウスがしていないのだ。
動揺していた気配は全て鎮まり、的確にディリウスの急所を狙って武器は放たれている。
「的確すぎて、捌きやすいんだがな」
呆れたような呟きに、動きが変化する。
急所以外にも放たれるようになった暗器に、口元に笑みを浮かべたディリウスは一歩を大きく踏み込んで加速した。
一閃。
訓練の賜物か、悲鳴を上げることなく暗器使いが倒れる。血の匂いが蔓延し、足元に広がった血だまりに踏み込み、水音が響く。
暗闇で、何も見えないはずなのに、ディリウスが振るった白刃は寸分たがわず相手を切り払う。払う動作でまた一人。
一歩踏み込むごとに数を減らし、減らした分だけ振るわれた白刃が戻されるたびにまた減る。
瞬く間に、ディリウスを囲っていた刺客達はその数を減らし、すでに残っているのは二人だけ。
舞うように無駄なく軽やかに動いていたディリウスは、その動きを鈍らせ、二人の前に立ち止まる。
闇になれ、人影ぐらいは認識できても、その性別や年齢、表情までは悟れない。
そのはずだというのに、ディリウスは二人の内、腕から血を流している方と視線をひたりと合わせた。
「言っておくが、6年前の事も、半年前の事も、俺の責任ではないからな」
相手の感情の根源を見事に踏み抜いたディリウスに、二人分の殺気が突き刺さる。
それを意に介さず、ディリウスは努めて心を殺して言葉を紡ぐ。
「ダランディアード侵攻の責任はクランヴァールにあるし、半年前の都市破壊に関してはザグリス兄上の失策だ。オレが負わねばならない責任はかけらもない」
6年前、クランヴァールとの対立が決定的なものとなった侵攻戦、辺境ダランディアードを狙ったそれに対してザグリス率いる軍が勝利し、ザグリスの現領地となっている。
そして、半年前。
ザグリスが利き腕と両足を失うに至ったクランヴァールとの戦争も、舞台はダランディアードだった。
二度とも勝っているが、けして被害が出なかったわけではない。
街は瓦礫となり、市民の死傷者は百を軽く超えた。軍人に至っては、千を越えた。
結果として、6年前と半年前、二度共に故郷を離れざるを得なくなったり、戦争孤児や戦争未亡人が増加した。その救済策は未だに施行されていない。というか、考えているのかすら怪しい。
ディリウスは自分の父の政治家としての能力を把握しているので、考えていないだろうな、と諦めと共に確信している。
それに対して、怒りや不満や非難が皇家に向かうのは致し方ないし、この責任は負うべきだとディリウスも思っている。だが、この二人、いや、刺客達が自分を狙い殺そうとした理由については、ディリウスに責任はない。
「貴方が…」
腕から血を流している方、おそらくは男が痛みの所為か精神的なものか苦しげに言葉を詰まらせる。
二歩、近づいて立ち止まったディリウスは無言で男の言葉を待つ。
「貴方が動いていれば、オレ達の故郷は…っ!」
ダランディアード出身であることを示すような言葉に、ディリウスはただただ無の表情で見下ろすだけ。何も浮かべず、何も思わない。
言うべきは、先に言った。
「それだけの頭脳があれば、それだけの腕があれば、『白銀の鷹』がいれば、街を皆を救えたはずだ!」
ディリウスが動いていればダランディアードを救えた。
男にとっては、それが真実だ。そして、純然たる事実でもある。
だが、ディリウスは動かなかった。
正確には、動けなかった、が半分と残りはどうでもよかった、だ。
「初陣を済ませてもいないガキにすがらなきゃ辺境一つ守れない国軍を恨め」
6年前、ディリウスは11歳だった。初陣はその2年後だ。
皇族であるが故に責められるのならまだしも、ディリウスの言うように11歳の子供にすら劣る国軍の不甲斐なさを責められるのは非常に腹立たしい。
「そもそも、『白銀の鷹』を設立したのは8年前だ。2年で名は上がり始めていたが、わざわざ国が助力を要請するほど地位は高くなかったし、当時から今に至るまで、少数精鋭だ。焼け石に水程度だろうよ」
ディリウスの存在なくして『白銀の鷹』の本領は発揮されない。
自惚れではなく、事実としてディリウスは知っている。
国が、ディリウスの存在を軽視し続ける限り、『白銀の鷹』への要請は通らない。ディリウス本人が望まない限りは。
少数精鋭である『白銀の鷹』が忠誠を誓うのはただ一人であり、全ての決定権はただ一人にある。
それがディリウスであることは最早言うに及ばず、だ。
「何より、自分の故郷を護る為に立ち上がらなかったヘタレに言われたくねぇよ」
男はディリウスより5歳は年かさだろう。当時、戦えなかったとは到底思えない。
ディリウスにしてみれば、軍人ではなかったとか、武器を持ったことが無かったとかは理由にならない。
戦おうと思えば戦えたし、鍛錬をしたことが無かったのはそうしてまで守ろうとする意思がなかったということだ。
「国軍に力が無かった。クランヴァールとの警戒地域でありながら住民の危機感が欠落していた。辺境軍の対処が遅れた。…これらをとって、どこをどう見れば俺の責任になるんだ」
うんざりと言わんばかりの言い様に、それは確かに、と思ったのか男が奥歯をかみしめる。
ギリギリと鈍く響く音に、ディリウスは何とも思わない。
同情はしない。していたらきりがないから。
怒りはない。抱く理由がないから。
楽しさはない。戦闘や弱者をいたぶることに悦楽を見出す狂人ではないから。
心で、ディリウスは繰り返す。まるで、言い聞かせるように。
「皇族なれば国土国民を守るは最低限の義務であり責務である。なるほど。確かにその通りだ。だがな、それなら、どうして俺だけが責められなくてはいけない? 当時、命を下したのは父上で、軍を率いていたのはザグリス兄上で、俺は当時皇宮にいた。それとて、皇の許しなくして皇宮を出られるわけがないんだから…」
「実際は抜け出して、ボードン子爵領にいた、か…?」
ディリウスの言葉を遮ったのは、沈黙していたもう一人。
太腿をディリウスが意図して弾いた暗器に貫かれている。声の様子から、女であることがわかるが若い以外に年齢的には判別できない。顔の右半分を覆うようにしている大きな眼帯の所為だろう。
女の言葉に、ディリウスの白皙の美貌にうっすらとした笑みが浮かぶ。
「良く知ってるじゃないか。なら、知ってるだろう? 当時、ボードン子爵は騎士団を率いて前線に向かったが、ザグリス兄上の命によって後方待機を命じられ、命令違反覚悟で動いたからダランディアードは全壊滅を免れた。証拠に、お前らは生き残っている」
「だから許せと…?」
被せ気味に震える声を出した女に、ディリウスは沈黙を返す。
続きを待つような静寂に、女の瞳に爛々とした憎悪が宿り、震える唇が開いた。
「力があるのに安全地帯でのうのうと戦況を見やり、無力な民を守る義務を怠った皇族! 貴様が跪いて許しを請うのが筋だろう! 貴様だけを責めるのは筋違いかもしれない。だが、先にも貴様が言った通り、義務と責任を負いながらそれを放棄して戦おうとしなかった貴様が悪くないなどとどうして言える?!」
「リルス!!」
激昂のままに言い募る女に、男が焦りをにじませた声を上げる。
女・リルスの名を呼ぶ男は、ディリウスの顔色を窺う。
男は知っている。
ディリウスは面倒事が嫌いであることが起因してか、寛容で大抵の事は黙認する鷹揚さがある。その代わり、『大抵の事』から逸脱した瞬間、一切の手加減と情を切り捨てて対処する。その『大抵の事』の基準を知る者は少ない。男にもわからない。だが、一つだけ確信しているのは、例え相手がエディオスであろうとも容赦しないであろうということだ。
親友ですら対象となり得るディリウスの琴線に、リルスの言葉が触れてしまったら…。
男が伺った先で、ディリウスは笑みを浮かべていた。
変わらない、うっすらとした酷薄な笑みを。
ぞっ、と背筋に怖気が走ったのは男もリルスも同じだった。
「言えるじゃないか」
淡々とした声音で放たれた言葉を、二人は理解できなかった。何の意図をもって放たれたのか、全くわからなかった。
そんな二人を放置して、ディリウスはさらに言葉を続ける。
「もっと早く訴えればよかったんだ。まぁ、下手な相手に訴えれば即斬首だが。それでも、それだけの頭があるんなら、訴える相手を選ぶことなんていくらでもできただろ。ヴァラムハウト侯爵やボードン子爵、ログマンディル子爵とかな。―――誰だって言われないことは知り様がない。身分なんざ知った事か。本当に耐えがたいんだったら、命がけで声を上げろ。そういった気概のある奴が好きな酔狂者は世の中一定数はいるもんだ」
酷薄な笑みのその意味を、男は理解した。
口が、耳が、目が、手が、足が、十全に動くにもかかわらず自らの感情をぶつけようともせず、それを晴らす為に暗殺という安易かつ最たる悪手に手を出したことへの、侮蔑だ。
「憎悪で技量を、憤怒で人脈を、悲嘆で協力者を、積み上げてここまで来たのは褒めてやる。だがな、面倒事を巻き起こして、厄介事に巻き込みやがったこと、絶対に忘れねぇからな」
侮蔑を浮かべたまま、ディリウスは一歩を踏み込んだ。
夜目が利くディリウスにとってはすでに明白な事実だった。だが、わずかなりと距離をあけてディリウスを見ていた男には不明の事実だった。距離を詰めたことで、それが分かった。
酷薄な笑みに侮蔑を浮かべ、男とリルスを見下ろすディリウスの瞳はわずかに揺れている。
緑青の瞳が、器用にももう一つの感情を浮かべて男の瞳を射抜いた。
「…裏切りは許されない。だからこそ、ヴァラムハウト侯爵は怒り狂った。アイオンは嘆き、俺に頭を下げた。バージェスは憤り、ひたすら自身を痛めつけている。クラネアは沈黙し、自室にこもったまま。アリスとイルフィは驚愕し、痛み泣いた。こんなにも、お前は想われていた。その事だけは、知っていてくれ。―――エラン」
囁くように名を呼ばれた次の瞬間、男・エランはもう一つの感情が『悲しみ』であることに気付いた。
瞬きの後、それを打ち消したディリウスによって、意識を刈り取られた。
昏倒する二人を見下ろして、口元に自嘲の笑みを浮かべ、頬を滑って零れ落ちるものに気付かないふりをした。