隠密の決意
エラン編
目を覚ましたエランは、手入れの行き届いた白い天井を認めて、自分がどこにいるのか一瞬理解できなかった。だが、意識を失う寸前の事が、脳裏に鮮明に思い出されて、腹筋を使って勢いよく起き上がった。
ジャラッ。
動きに合わせて鳴った重い金属音に、両手首を繋ぐ鎖に気付く。数瞬後、両足首も繋がれている事に気付く。
明らかに囚人としての拘束具だが、寝ているのは洗濯された清潔な白いシーツの上で、布団も被っている。
ちぐはぐな状況に、エランが自分の状態を把握できずにいると、右手にある扉が開いた。
「起きたか…」
ゆったりとした私服に身を包み、物理的な鋭さを伴っているような眼差しを向けてくる相手をエランは知っていた。
「…ヴァラムハウト侯爵閣下」
老いて少しばかり痩せはしたが、武人として鍛え上げられた体躯は20代のエランと比べて二回りほど大きく見える。
扉から数歩、ベッドに歩いてくるが十分な距離を保ったまま睨みつけ、ランディウスは腕を組む。
「何故、自分がここにいるか、わかるか」
「…いいえ」
あの時、ディリウスと対峙した瞬間、エランは死を覚悟した。
誰が何をして待ち構えていたのか分かっていたからこそ、ディリウスはあそこにいた。だから、裏切ったエランの事もわかっていたはずだ。だからこそ、容赦しないはずだ。
なのに、エランは生きてここにいる。
「『白銀の鷹』において、お前は死んだことになっておる。よって、『エラン』という男はこの世にもはや存在せん」
相も変わらず冷ややかなランディウスの声に、何故かエランはほっとした。
存在が消えたことに、か。死んだことになって『白銀の鷹』との縁が切れたから、か。
安堵したように力を抜くエランに、ランディウスの眼差しは鋭さを増す。
「ディリウスは、裏切られていない、と抜かしおった」
冷ややかなまま、何一つ変わらない声音と口調と表情で吐き捨てられた言葉を、エランは即座に理解できなかった。
「裏切り、というのは双方ともに一定以上の信頼が向いていて初めて成り立つものだから、初めから自分を信頼していなかったお前がどういう行動を起こそうと、それは裏切り足り得ない、と」
馬鹿馬鹿しい、と続きそうなほどの声音。
「だが、アイオン達が傷ついたのは事実で、お前が自分を恨んでいるのも事実。ならば、その存在を消してここから遠ざけた方が誰にたいしても良いだろう。・・・甘いにもほどがあるわ、あのバカが」
全くだ、と自身の立場を忘れて深くうなずき同意を示したエランを、ランディウスは一度睨むがため息をつく。エランの反応に怒気を向けるより、ディリウスにあきれる方が全うであると判断したからだ。
そして何より、厄介なのはディリウスが本気でそう思い、自分が甘い、という認識を一切持っていないことだ。
ディリウスは、本来は許してはならないラインを踏みこえたエランを、当然として許しているのだ。それを知って、理解して、エランはどうしようもなく困惑し、それが抜けた頃、顔を覆ってうずくまった。
自分の醜さに、ただただ絶望した。
エランの内心を知るはずもないのに、察しているかのようにしてランディウスは鋭い瞳をほんのわずか和らげる。はた目には、その変化はわからない。ランディウスの長男や今は亡きディリウスの祖父ならば分かったかもしれない。
「わしの息子、長男もそうだったがな、ああいう手合いは面倒だ。自分の甘さを自覚せず、相手のことばかりを考えて、それを当然として疑わない。そして、こうと決めれば全てをなげうってでも成し遂げようとし、結果として死んでも、それを後悔しない。・・・こちらの思いなど考えもしない」
ランディウスの愚痴のような言葉に、エランは深く納得した。
同時に、若干同情した。気苦労しただろうランディウスに。
「清廉さに似たその甘さは尊い。だが、過ぎれば周囲さえ巻き込んだ災厄になる。冷徹さをあわせ持つディリウスは、それを自覚せずとも抑制できているから良いがな」
そして、周囲にはその清廉さと甘さを受け止めるだけの器を要求される。器がなければ、さっきのエランのようにうちひしがれることになる。
人間が当たり前に持つ、負の感情の醜さに。
「その甘さに、貴様は生かされた」
エランは、頭から冷水を浴びせられたような気になった。
ディリウスの言動にあきれていたが、エランは皇族を殺そうとした反逆者であり、主を裏切った大罪人だ。
たとえ、その根本に、怨恨や怒りではない感情があったとしても。
「最初、故郷であるダランディアードに帰そうともしていたが、アイオンが止めた。当然だ。『白銀の鷹』には、あそこの出身が多数居る。そこに放り込むのは、情報を封鎖しても不安が残る」
そうだろうな、とエランは無意識に呟く。何より、ダランディアードの領主はザグリスだ。ディリウスにとっては宿敵(本人がそうとらえているかどうかは別として)である人間だ。その足元に、ディリウスと『白銀の鷹』に関して良く知っている存在を放置するわけにはいかない。
エラン達諜報員を束ねるアイオンが、その事に気づかないわけがない。ディリウスとて、気づかないわけではないだろうが、エランを優先して考えた結果の発言なのだろう。
「それで、侯爵の元に・・・?」
生かすと決めて、存在を消して、けれど、無闇に放置などできなくて。だから、全てを知っていて、信頼できるランディウスの元に送ったのだろう、とエランは当たりをつけた。
「わしが寄越せ、と言った」
予想外の返答に、エランは驚愕も露にランディウスを凝視した。
「最初、アイオンの領地に、と考えていたようだが。実際に貴様を知らん輩のところに放り込むわけにはいかんからな」
もっともだ、とエランは再び無意識に呟く。本人としては、ただうなずいただけのつもりだった。
「そろそろ、アリスとイルフィを帰してやらねばならんと思っていたところだ。いつまでも爺のわがままで引き留めて家族と引き離しておくわけにはいくまい」
散々、わがままで引き留めていた人間が言ったところで真実味はないのだが、エランはそのことを知らない。
「わしの息子共もその子供も凡庸ばかり。もう少し領地が狭ければ、十分に領主としてやっていけただろうが、そうもいかん。優れた者ならば、血のつながりなどどうでもよい。才あり、民を思う者であれば、孤児であろうが罪人であろうが構わん」
ひた、と見据えられて、エランはまさかと瞠目する。
有り得ない、と思いつつ、震える唇を開く。
「おれを、後継者に、なさる…?」
「これより受ける教育で、わしが納得できる結果を出せば、な」
肯定の言葉に、有り得ない、と今度は声に出して呟く。
エランの困惑をつぶさに観察し、ランディウスはおもむろに語りだす。まるで、子供に寝物語を聞かせるように。
「わしの長男は、惚れた女が貧民街に暮らす娼婦であったが故に身分も責任も家族も全てを捨てて出奔しおった。このクーヴェルンからでさえも」
クーヴェルンはヴァラムハウト侯爵領のことだ。
侯爵家の継嗣が、全てを捨てて故郷からも姿を消す、などまず考えられない。
「無論、行方は追っていたし、居場所を突き止めて定期的な監視もしておった。離れた土地に住む息子達が平穏に幸福を生きているのであれば、それでいいとも思った。だが、せめて、ここに呼ぶべきであったな」
苦い物を含んだ言葉に、後悔を多分に感じさせる声音に、エランは瞳を瞬かせてランディウスを見つめる。
そこで初めて、エランは気付いた。
何度も会っているはずなのに、何度もその瞳を見たはずなのに。
ランディウスの瞳が、エラン自身と、そして、エランの父と同じ紫紺であることに。
「そうであれば、息子を―――ダルシアとその嫁を失い、孫を大逆の罪人に落とすことはなかっただろう」
ひゅ、と喉をひきつらせたような呼気を零す以外、反応が出来ないエランを冷徹に見つめ、ランディウスは淡々と告げる。
「今日、この時より、ダルシア=リーダイン・ヴァラムハウトを名乗り、勉学武芸に励め。猶予は5年。その間に、自らの才と力を示し、わしを認めさせてみせよ。叶わぬ時は、分かるであろう」
それは命令であり、決定事項。
貴族が養子をとることは珍しくはなく、養子が後を継いだ例はいくらでもある。
生まれ育ちを揶揄する者はいるだろうが、ヴァラムハウト侯爵家の名がエランを守る。
口を閉ざし、じっと見つめてくるランディウスに、エランはどういえばいいのかわからなかった。
大逆の罪人である自分を、指折りの大貴族の跡取りに、など正気の沙汰ではない。たとえ、刃を向けられた被害者本人が、その罪を否定していても。
「…オレは、ディル様を憎んでいました」
ふいに、意識せずに零れたのはエランの本心。
心の奥深くに根差した、深層心理。
一度、零れたそれはもう止まらなかった。
「オレ達を、故郷を、守ってくれなかったディル様を、憎んでいました。けれど、憎んだ時にはもう為人を知っていて、在り方を知っていて、姿勢を、眼差しの先を、言葉の確かさを、知っていて…」
エランがディリウスを憎むようになったのは皇族であると知った時だ。
生きる為に、働く必要があった。そして、選んだ傭兵の仕事で、見込みがあると見出され、『白銀の鷹』に入団した。しばらくして、アイオンの麾下に付いて諜報員として活動し始めついにはディリウスの存在を知るまでに信頼された。その身分を教えられたのは、さらに後だったが。
ボードン子爵家との関わり、『白銀の鷹』という精鋭の手駒の存在、ディリウス自身の技量など、それらを知って怒りがわいた。ディリウスにぶつけたように、それだけの力がありながら、と。
同郷で、幼馴染のリルスは援軍を頼まずプライドを優先したザグリスに不快と怒りを抱いていた。エランも同じで、そこにディリウスの情報が加わり、負の感情が募っていった。
同時に、エランの中に存在していた『白銀の鷹』団長ディルという存在への敬愛は、けして陰らずより大きくなっていっていた。
エランは、分かっていた。
ディリウスが言ったように、ディリウスには何の非もない事を。
どうしようもなかったのだという事を。そして、それを知りながらもどうにかしようと手を尽くしていた事を。
それでも、抱えた感情は鎮まらなかった。
「向ければ、さすがに許されないと分かっていました。死を覚悟していました。普通、自分を殺そうとした人間を許すわけないじゃないですか。なのに、なのに―――あの方は、ディル様は、どうしてっ」
言葉の続かないエランの内側で、様々な感情が渦巻いて荒れ狂っている。
握りしめた拳が震えているのを見て、ランディウスは静かに背を向け、部屋から出て行った。
数瞬の後、漏れ聞こえたのは嗚咽。
何に対する涙か、それを問う必要はなく、ランディウスは人払いをして去っていった。
三日後、再び訪れたランディウスに、エランは自ら望んで左目を抉りだしてもらった。
隻眼で見据えてきたエランに、ランディウスは初めて笑みを浮かべた。酷く獰猛な、獲物を見据える獣のような笑みを。
それを毅然と見返すエランの隻眼には、ただ決意だけがみなぎっていた。
今度こそ裏切らない、という確固たる決意が。




