96.大魔術師と不肖の弟子
「ひとまず、アローの魔術回路については治してもらえる手筈が整ったみたいだし、私たちは明日は普通に仕事だから帰るね」
ヒルダは渋々といった様子で帰り支度を始めた。きっと、きちんと治療してもらえるのか確認したかったのだろう。
何せクロイツァはあの性格だ。彼女が若干疑わしく思うのもわからないではない。
一方、テオは別の意味で帰るのを渋っていた。
「うう、今日はこんなに大変だったのに、また明日も鍛錬と雑用ですよ……はぁぁ」
深いため息。しかしヒルダはそんな彼を軽く小突いた。
「ぼやかないの。いくらグリューネが割と平和って言っても、事件や事故で夜中に駆り出されることだってあるのよ。見習いじゃなくなったらそういう仕事もやるんだからね?」
「はぁい……」
テオはがっくりとしながらうなずく。
「テオ、見習いじゃなくなるのか?」
「ああ、アローにはまだ言ってなかったっけ。オステンワルドの功績で、この子昇級決まったのよ。来月から正式に騎士ね」
どうやらヒルダはオステンワルドでの一件をきちんと報告にまとめたようだ。竜鋼の剣のこともあったし、書かないわけにもいかなかったのだろう。
スヴァルトの血を引くリリエや、リューゲの手を借りてしまった手前、常闇竜のことを何もかも正直に書くわけにはいかなかったはずだ。真面目なヒルダのことだから、どうごまかすか苦心したに違いない。
「でも弓の技術だけでこの歳で正騎士昇格って結構凄いんですよ!というか、ぶっちゃけこの国あんまり弓兵重視してないで俺が初めてです。褒めてください」
「すごいな、おめでとう」
「素直に返されると何かムズムズしますね?」
「かわいそうに、すっかり雑に扱われることに慣れきって」
「誰のせいっすか?」
「はいはい、帰るわよ。もうとっくに寮の門限すぎてるんだから」
「あっ、まだミステルさんに俺の魅力を伝えるのが済んでないんです」
「いいからいいから」
淡々とテオを引きずっていくヒルダを見送る。
「さて、私もそろそろ教会に戻ろう。何せ仕事を放り出してきてしまったものだからね」
ハインツも少しばかり泥に汚れてしまった法衣を払いながら答える。
「おや、ここで『どうせ女のところに行くつもりだろう』とは言わないのだね?」
「僕だってそこまでボケているわけでもない。青薔薇館がただ女遊びするためだけの店とは思っていない。……どうかとは思っているが」
「教会だって色々しがらみが多いのさ。呪殺事件のことで君もよくわかっていることだろう。まあ、できれば私としてはもう少し君に日常を満喫してほしいものだ。では、失礼しよう」
「ああ」
去っていくハインツの背を見送って、アローは思う。
(あともう少し、日常を……か)
つまり、ハインツなりにしがらみに影響しない範囲で忠告をしてくれたということだ。
この日常はいつか消える。このまま王都でのんびりとお店をやりながら、四季の移ろいを眺めてずっと過ごしていくことなど、できはしないのだ。
呪われているというのは、そういうことなのだから。
「よう、馬鹿弟子。しけた顔をしやがって」
振り向くとそこに、クロイツァが立っていた。年齢不詳、性別不詳、何もかもがわからないアローの師匠だ。
今は美女の姿になっているが、次もこの姿で会う保証はない。
「お久しぶりです、大師匠クロイツァ様」
以前店に押しかけてきた時は、ミステルはまだ、遺灰の中から出てこられなかった。
姿だけは生前と変わらないミステルに、クロイツァは存外に優しく微笑みかけた。
「師匠には聞きたいことがたくさんある」
「おう、答えてやる義理はないぞ」
アローの言葉を即座に否定して、しかし何故かクロイツァは楽しげだった。機嫌がいい。機嫌がいいということは、恐らくアローが気にかけていることのいくつかは的を射ていたのだろう。
「わざわざ仲間が帰るのを待っていたな?」
「そりゃぁ、もう夜も遅いのに引き止めちゃ戦女神様とちびっ子が可哀想だろう。司祭様はこれ以上しがらみは増やしたくないだろうしなぁ。アッハハハハハ」
クロイツァは夜の街中で近所迷惑な笑い声をあげる。アローはため息まじりに店を開けた。アローの家はここだし、師匠にこれ以上外で騒がれても困る。
「お茶くらい出す」
「ん?気にするな。お前んちのお茶はもう飲んだ。薬用効果を出すならもう少し配合を変えろ。味を良くするなら薬草は減らせ」
「勝手に家に上がられていた上に、お茶にダメ出しされるとは思わなかった」
そういえば、ヒルダが駆けつけた時にクロイツァに教えてもらったと言っていたか。アローがガンドライドに追いかけ回されていた間、悠長に人の家でお茶をしていたらしい。
お茶は不評なようなので、ヒルダやテオが来た時にたまに出す蜂蜜酒を出した。
「おお、蜂蜜酒か。お前にしては気がきく」
クロイツァは杯を片手にニヤニヤと笑う。
「それで、元気にしていたか?不肖の弟子よ」
「散々に叩きのめした末にそれを言うのか。見てのとおり、魔術回路以外は問題ない」
「そりゃぁそうだ。回路以外は私が先に治してやっただろう」
「……は?」
アローが思わず聞き返すと、クロイツァはますますおかしそうにくつくつと笑い出す。
「オステンワルドでお前が飲まされた薬、あれは誰が作ったと思ってるんだ。私だよ、私」
「なっ……、どうりでやたらと師匠の薬の再現率が高すぎると……」
オステンワルドで熱が下がるまで毎日飲まされた魔法薬。師匠の作った薬と同じものだとは思っていたが、まさか師匠のお手製だとまでは思っていなかった。
冷静に考えてみれば、大魔術師クロイツァの秘薬と同じものが、魔術の発展がイマイチなオステンワルドにいくつと存在するわけがない。オステンワルドの一件は全て師匠が覗き見していたということだ。
「あの舌が消し飛びそうなくらい絶望的に苦い薬ですか……あれを飲ませてたんですか?」
ミステルも生前に何度か薬を飲まされたことがあるだけに、あの壮絶な味を知っている。霊体なのに心なしか顔が青い。
「仕方がないだろう。あのまま放置してたら、お前、死んでたぞ?手塩にかけて育てた弟子が、あっさり死んだらさすがの私もだいぶへこむぞ」
「師匠がへこむというのは割と新発見だ」
「冗談じゃない。お前は私をどんな人でなしと思っているんだ?私が口出しすることではないから放っておいたが、ミステルが死んだ時だって私は少しくらいは落ち込んだぞ?直弟子ではなくても、可愛い私の養女だからな」
「クロイツァ様……私のことは、私の責任ですので」
おずおずと口を出したミステルに、クロイツァは首を横に振った。
「いや、このボケナスは自分の弟子の教育を間違った。そして救い方も間違った。こうなる前に全て止めようと思えば止められた」
それは、まぎれもない事実だった。ミステルの盲信をそのまま受け取って、アローは森に引きこもるばかりで彼女が都で何をしているのかに無関心だったのだ。その結果がカタリナの起こした呪殺事件だ。
アローは気付けたはずだった。ミステルが呪殺に加担するのを止められたはずだった。
「私はお前に一から十まで道を用意してやることはない。もうお前は独り立ちできる歳だ。だからミステルのことはお前に任せ、そしてお前は間違った。それだけのことだ。そして致命的な間違いは人の命をたやすく奪う」
「それは散々思い知らされた」
「そうか。なら、今後はせいぜい気をつけろ。今生きているお前の仲間は、死んでもミステルみたいに都合よく使い魔にはならん。ミステル自身が優れた魔術の資質を持っていて、かつお前を信頼していたからできたことだ。死んだ仲間は戻ってこない」
死は断絶。死は何もかもを引き離す。それをアローはきちんと認識しなければならなかった。
クロイツァの言っていることは全て、アローには全く否定できない。
アローが引きこもって思考停止してきたことの代償だ。この身で受け止めるしかないのだ。
「それで不肖の弟子、アーロイスよ。お前にもう一度真実を知る機会を与えてやろう」