94.ドルイドの巫女と『普通』の祈り
「私にはもう、名前がない」
薄紅の髪をさらさらと風に揺らして、少女は答えた。
「なら、一緒に決めるか?」
「一緒に?」
「初対面で僕が勝手に決めるのは、ちょっとな」
ミステルにはさらっとつけたが、さすがに今やっと素顔をみたばかりの少女に勝手に名前をつけるのははばかられる。
少女は少しだけ、きょとんとした顔になった。
「一緒に……」
今度は、少しだけ困った顔。
「いや、僕が悪かった。無茶振りだったな。そうだなあ、こちらの聖霊にはあまり詳しくはないんだが……たしか火に関する祭りがあったな」
記憶に遠い文献の記述を思い出す。
「ああ、あれだ。春先の魔女の火祭り。ベルベーンだ。君のことはそう呼ぼう。略してベルだな」
「ベル……」
「気に入らないなら他を考える」
薄紅色の髪をした少女は、微笑む。初めて笑った。
「それでいい」
「なら決まりだ。僕と一緒に行こう。君が何も呪わなくても済むように、僕が呪いを討ち滅ぼそう。まあ、僕自身のついでみたいなもので悪いんだが」
「……それでいい」
もう一度同じことをつぶやいて、少女ベルはアローの手を取った。
「私に呪わなくていい世界を教えて」
「ああ。それについては心配しなくてもいい」
この世界はどこもかしこも死が満ちあふれていて、誰も何も死んでいない場所など、どこにも存在しない。
それでもアローは森から出て、多くのことを知った。
おびただしい量の死をながら、それでも人は生きている。生きていける。その世界は呪われてなんかいない。死が必ずしも呪いを生むわけではない。
「期待していてくれ。なにせ僕は大魔術師クロイツァの唯一の弟子、稀代の死霊術師なんだからな!……まぁ、今はちょっと魔術がろくに使えないが、何とかなるだろう」
師匠クロイツァが、アローの出した答えを是とするかはわからない。あの人の反応を予測するのは直弟子のアローでも難しい。
「何とかなるさ。僕はこれでなかなかしぶとい。簡単には死なない。死ねない理由もできたことだし。君を、連れていくことはできる」
「そのことなら……」
ベルははっきりとした眼差しでアローを見つめる。恐らく、新しく名前を決めたことで魂が強固になったのだろう。
「それについては私が貴方を手伝えるかもしれない」
「は?」
さらっととんでもないことを言われて、さすがのアローも聞き返す。
何せ、オステンワルドからこのかた、魔術回路の修復のことで、途方にくれる日々を送ってきたのだ。
それが、いきなり治せると言われても戸惑いが深い。
「すべては無理。少しだけ。むしろ、私が手伝わないととここから出られないと思う。ここはウィッカーマンの中だから」
「んん、あー……そうか」
アローは単純に、中に入り込みさえすればどうにかなると考えていた。
別にアローの考えが特別甘かったわけではない。例えば、アローがベルをウィッカーマンの核として破壊すれば、呪詛の根源を失って崩壊する。すんなりと黒き森に戻れたはずだ。
だけどアローはもう、彼女をこのまま外に連れて行くと決めている。今更消滅させたりはしない。もう名前も与えてしまった。
「頼む。さすがにこのままウィッカーマンの中に居座るわけにはいかない」
「はい」
短く返事をして、ベルは手を掲げるを
「私はドルイドの巫女。魔力は樹々の枝葉。求められれば答えましょう。檻に込めるは血潮を焼く炎。咎を焼き祈りを焼き天に届けましょう」
彼女の体を力伸びた無数の枝葉が覆っていく。それはまるで緑のドレスをまとっているかのようで。
「求めましょう、答えましょう。私が殺した私の神に誓って」
彼女の伸ばした手から細い枯れ枝が伸びて、それに炎の紅が伝っていく。
まるで空に血潮が伸びていくように。
「これを魔術回路の代わりにする」
「ドルイドの魔術は木と炎なのか」
「本来は樹々と大地、そして水。私は生贄の巫女なので」
「なるほど……」
第三者が彼女を利用して、彼女の村の神を殺し、恐らく力を奪い取った。
だが、彼女はいずれにしてもウィッカーマンの中で焼き殺される運命だったのだ。神への捧げ物として。どうあがいても呪われていた。
彼女と彼女を捧げ物にした村人ににとっては、それは呪いではなく祝福として認識されていたのかもしれないが。
「戻る前に……少しだけ、本当の気持ちを言ってもいい?」
ベルが空に広がる紅い枝を見つめ、ぽつりと呟いた。
「うん?何だ?」
「本当は、死にたくなかった。殺されたくなかった。神様はどうして私を選んだのだろう。どうせ死ぬのならみんなと一緒に死にたかった……」
「そうだな……死にたくは、ないよな」
「咎を受けた人と、森で狩った獣と、いっしょに詰め込まれて……焼かれて、熱くて、怖くて、みんなが暴れて、怖くて……」
ベルは恐らく、ミステルとそう年も変わらない。いくら信仰が根付いていても、あの木の人形に罪人といっしょに詰め込まれて焼き殺されるのが恐ろしくないわけがなかった。
「怖くていいんだ。死にたくなくても、いいんだ。それはおかしいことじゃない」
(僕も、多分、それでよかったんだ)
いつもいつも、黒き森の奥で思っていた。何故生まれたのか、この森の中でただ静かに生き延びて死ぬまで、そのまま。都に行くことを禁止されてからは、尚更そう思ってきた。
だからこそ、アローはミステルを割り切って送ることができなくなってしまったのだから。彼女だけが無条件でアローを肯定してくれていたからだ。
普通の人間とともに生きられない自分は、生きていても許されるのか、ずっと考え続けてきた。
だけどきっと、もっと単純でよかったのだ。
死にたくない。生きていたい。居場所が欲しい。何もおかしいことじゃない。
ヒルダがいつか「アローは普通だ」と言った理由が、ようやくしっかりと納得できた気がした。
「一緒に戻ろう。僕は君と同じように呪われているけれど、それでも仲間がいるんだ。……ちゃんと、いるんだ」
血潮のように伸びる紅い枝へと、アローも手を伸ばす。『普通』に生きることを許されなかった。それでも抱えていた祈りはとてもありふれた『普通』のものだった。
「さぁ、こんな木の檻は壊してやろう。――『死を記憶せよ』」
紅い枝が一瞬にして燃え落ちて、世界がゆったりと闇に溶けていく。
おびただしい死臭に満ちていたその場所に残されたのは、嗅いだことのない花の香りだった。
「お兄様!」
異変に気付いたのだろう。ミステルとヒルダが駆けてくるのが見える。
どうやらウィッカーマンの中から出ると同時に、中に篭っていた悪霊も霧散したようだ。
(ベルを連れ出して、内部崩壊した、といったところかな)
とはいえ、正直ありがたい。もう疲れ切ってクタクタだ。
ウィッカーマンの残骸は全て灰となって、地面に座り込んだアローの周りに降り積もっている。
「アロー、怪我はない?」
「大丈夫だ。まぁ、だいぶ疲れたが……そういえば、ベルはどこだ?」
「ベル?」
へたり込んでいたアローに手を貸しながら、ヒルダが首をかしげる。
「何かよくわからないけど……その、杖?みたいなの、何?」
「杖?杖は置いてきたはず……何だこれ?」
気づくとアローは一振りの杖を抱えていた。
恐らく樫の木だと思われる木の杖。ところどころから枝葉が伸び、先端が枝を編み込んで複雑な形になっている。そこに随分と石が小さくなってしまった竜鋼の首飾りがまとわりついていた。
「何だこの杖?」
思わずヒルダに聞き返すと、彼女は呆れたようにため息をついた。
「いや、私に聞かれても。……っていうか、今まさに私が聞いてたんだけど。何かいい匂いするね。花みたいな」
「この杖の魔力によるもののようです。樫に見えますけど、香木でしょうかね?」
ミステルも興味深くしげしげと見つめ、そして。
「……しかし、何やら女の気配を感じるのですが」
さすがというべきなのか、アロー一筋の使い魔は杖に向かって敵意を放つ。対するアローは、ようやく納得がいって、杖を手に取った。
「そうか、この杖はベルか」
「「だからベルって誰なのよ」ですか」
いまだ状況を飲み込めない女性陣が声を合わせる。
「ウィッカーマンの核だな。生贄にされた女の子だ。中で会った。せっかくだから連れてきたんだが」
こつん、と杖を指で叩くと声がした。
《お初にお目にかかります、ベルベーンでございます。ベルとお呼びください》
ヒルダは思わず杖に向かって「あ、どうも」と律儀に頭をさげる。ウィッカーマン中身なのだから、この杖も死霊から生まれたようなものだと思うのだが、木製だとあまり怖くないのだろう。
一方、ミステルはすこぶる不機嫌となった。
「お兄様、私と契約しておきながら、黒妖精だけでは飽き足らずさらに女の使い魔を増やすとはどういう了見です?」
《使い魔ではない。私はドルイドの巫女。アローは私の呪いがとけるまで同行させてくれると言った。杖になったのは私なりに力を貸しやすい形を考慮した結果》
「あああ、またお兄様は本当にそうやってモテなくていいところでタラシこむんですっ」
《アローの使い魔は騒々しい》
「わきまえてくださいね。お兄様のお供は私ですし、もし仮に! たとえ万が一! ゆくゆくお兄様に良いお相手ができることがあっても! この私が厳重な審査をいたしますので! 合格できない悪い虫は徹底排除ですので!」
《小うるさい》
「お兄様、この杖はお焚き上げしてください!」
「いやいや、ミステル。苦労してウィッカーマンを消滅させたんだ。勘弁してくれ。一応彼女とは色々利害の一致もあって連れてきたんだ」
怒り狂うミステルをなだめつつ、しかしアローは微妙に釈然としていなかった。モテとかなんとか言われたが、アローは別にモテるようなことはしていない。
アローの中でモテる行為とは、主にナンパのことである。自分が何の気なしに声をかけているのは、モテに含まれていない。ちなみにナンパはいまだに成功したためしはない。
「ヒルダ。ミステルは何か勘違いしてないか?モテる場面じゃないよな?というか、タラシって何だ?」
絶妙にわかっていない、ある意味通常運転のアローを前に、ヒルダは複雑表情で彼の両肩に手を置いた。
「アローはそのままでいいわ。多分、無理してモテようとか考えない方がいいわ……」
「何故だ……」
どんどん周りに女子(ただし主に人外)が増えている事実に気づかないまま、アローは釈然としない顔で呟いたのだった。




