88.いつもの彼女、また来る受難
青白い燐光は、空へと登っていく。
森を象っていた世界は姿を消して、やがてアローは目を開く。
「アロー!」
聞こえてきたのはヒルダの声で、それでアローは自分が草むらに寝転がっていたことを知る。
「ヒルダ……ということは、戻ってきたな」
起き上がる。硬い地面に寝ていたのに、身体がさほど痛くない。つまり、それほど長い時間は経っていない。ヒルダはすぐそばでアローの顔を覗き込んでいる。よく見ると後ろにリューゲもいた。やはり彼女は師匠によってガンドライドの中から弾かれていたのだろう。
「そっちは?」
「私たちの方は大丈夫」
確かに、ガンドライドらしき影はすでにない。ミステルがガンドライドの統率者を冥府送還したからだろう。
「どういうことなのか説明してほしいものね。黒妖精を弾きだすなんて、貴方の師匠はおかしいわ。それと、貴方の妹もどうなっているの?」
リューゲが呆れ半分、興味半分といった様子でアローを見つめる。彼女の言葉で、アローはハッとしてミステルの遺灰を探す。瓶はそこにある。しかし声はすぐうしろから聞こえた。
「そうだ。ミステルは」
「はい、ここにおります」
振り返ると、ミステルふわりと姿を現したところだった。
「ミステル!?」
彼女が普通に姿を現したことに、アローよりもむしろヒルダが驚きの声をあげる。事情を知らないのだから、当然といえば当然か。
「ミステルが出てこれたってことは、アローの魔術回路が治ったってこと?」
「いや、残念ながらそちらの方はさっぱりだ。だが、ミステルが外に出られたのは良かったな」
ミステルとの契約形式が変化したことで、ミステルは媒介なしでも存在が可能になったということだ。ガンドライドの内部世界だけだったら困りものだと考えてはいたが、これで懸念の一つはなくなった。アローが死なない限りは、問題なく外に出られるようになっているはずだ。
「これからはますます主様のために尽力いたしましょう!」
ミステルは得意げに胸を張る。その隣でリューゲが白けた顔で、アローとミステルとを交互に見やった。
「この娘と契約として一緒くたに扱われるのはかなり心外だわ……」
「安心しろ、君とは契約様式が違う……というか、リューゲは契約期間が僕が死ぬまでになっているからいるだけで、契約内容自体はもうすでに達成しているからな」
「別にご不満ならいいのですよ? 主様をお守りするのは私の役目ですし、あなたはただそこにいるだけではありませんか。私の方がお役に立てますから!」
「別にそれでもいいけど、契約対価をもらってないわ。対価によってこの世界に繋がれているんだから、離れようがないわよ。役に立つ必要だってないし? 貴方の大切なお兄様の目玉をえぐってもいいなら考えるけれど?」
「主様、この女は敵です。排除しましょう」
「落ち着け。黒妖精を倒すのは魔術回路が無事でも無理だ」
「ああ、この感じ懐かしいわ……ミステルが帰ってきたって実感するわ。やっぱ声だけとは臨場感が違うわね」
「臨場感、とは……」
怒り狂うミステルと、聞き流すリューゲ。確かにこんな場面は久しぶりに見た。
(しかし、主様という呼びは何というか……不可思議な気持ちにさせられるな)
子供の頃からずっと「お兄様」呼びだっただけに、何ともむずがゆい。
今までも血は繋がっていなければ、親に引き取られたというわけでもなく、厳密には全く兄妹ではなかった。だから、今の方が関係性を考えると、呼び方としては正しいのだが。
「その主様という呼びはやめないか、ミステ……ミストルティン」
「ミステルでいいですよ。あだ名ということで。あと、私も少なからず背筋にむずむずきていたところですので、今まで通りでいいですか?」
「よろしく頼む」
二人のやり取りを聞き、いまだ状況を把握できていないヒルダが首をかしげる。
「つまり、どういうことなのよ」
「さっきまでガンドライドの内部に取り込まれていたんだ。ややこしいので端折って話すと……、ミステルとの契約をより強いものにして、それでミステルに魔法を使ってもらって撃退した、といったところだな」
「私が内側から吹き飛ばしてやりました!」
渾身のドヤ顔を決めるミステルに、ヒルダも肩の力が抜けたようだ。はぁ、と大きく息を吐く。
「まぁ、何にしても無事で良かったわ。またオステンワルドの時みたいになったらどうしようって思ったもの」
「ああ、心配するな。せいぜい魂が片腕の半分くらい削れたくらいだぞ」
「大丈夫じゃないわね!?」
「大丈夫だ。自然に回復する範囲内に留めた。努力の結果だな」
ミステルに続きアローも謎のドヤ顔を決めたが、ヒルダにぺちんと軽く頭をひっぱたかれてしまった。
「危ない橋を渡らない努力をして! っていうか、ミステルも何か言ってよ」
「ヒルダ、今回に関しては私はそういう立場にないので、意見することは差し控えさせていただきます」
「どういうこと!?」
ヒルダはますます困惑する。
アローとミステルは顔を見合わせ、苦笑いをした。まさかミステルがやったとは言えない。
その辺を話し始めると、ガンドライドの内部に囚われていた間のことを全て説明する羽目になる。
そうなると、オステンワルドの一件以来どうにも心配性をこじらせつつあるヒルダを、ますます心配させることは容易に想像がついた。
というわけで、主従は目配せをしあって、この一件は秘匿することにしたのである。
ヒルダは納得いかなさそうな顔だが、深くは追求しなかった。こういうところは空気を読んでくれるのがありがたい。
「アロー君、無事のようだね」
もう危険はないと判断したのだろう。ハインツがテオを伴ってやってきた。
「まぁまぁ無事だ。ミステルも復活したしな。魔術回路はまだだが――」
「ミステルさぁぁぁん!!」
アローの言葉が終わらない内に、テオがものすごい勢いでミステルに駆け寄っていく。そして彼女に抱きつこうとして、見事にからぶってそのまま顔面から地面を滑っていく。何というか、哀れだ。
「テオ、ミステルにはまだ実体はないからな。それとどさくさに紛れて僕のミステルに抱きつこうとするな。実体があったら抱きつく前に吹き飛ばしてたぞ……ミステルが」
「あ、いいですね、お兄様。その『僕のミステル』ってところもう一度お願いします」
「僕のミステル」
「はい、ありがとうございます。わかりましたか、ジャリガキ。私は基本的にお兄様のものですので、ジャリガキは眼中にありません。あと、天変地異が起こって私は貴方に懸想するなどという異常事態が起こったとしても、私はお兄様と本当の意味で一蓮托生となっていますので、もれなく舅としてお兄様が付いてきますので覚悟してからかかってきてください」
擦り傷と鼻血まみれになった顔をさすりながら、テオが怨念のような声で「はい」と呟いた。
「じゃあ、俺はアローさんにたくさん恩を売ればいいんですね」
しかし、全然こりていなかった。
「そういうことは借金を返してからいえ」
「はい、すみませんでした! 今回の働きで少しばかりの減額をなにとぞ!」
「もう貴族とか騎士の誇りとかかけらもないわね……」
ヒルダが若干引き気味にそう述べたが、テオはめげずに「それほどでも」と開き直った。全く褒めていないというのに、このしぶとさはある意味称賛に値する。
「君を狙っていたガンドライドは消滅した、ということは今回の条件はこれで達成されたということだね」
ハインツは余った聖霊符を懐にしまいつつ、衣を整えた。白い司祭服には汚れひとつついていない、遠隔で聖霊魔法を放つだけで埃一つを浴びていないのだから、本当にわけがわからない。
「ああ、そうだな。君は帰っていいぞ。どうせ仕事があるのだろう。主に青薔薇館の視察やら教会の裏手での密会などが」
「アロー君、君は私に対しては若干当たりが強いね? ……否定はしないが」
「否定できないという時点で、当たりが強い理由を正当に把握してくれ」
とはいっても、仮にも大教会の高位司祭をいつまでも連れ回すわけにはいかないのは事実だった。
ハインツだって何も男女の営みばかりに時間を割いているわけではないだろう。あるいは、青薔薇館のことを踏まえると、ある程度は奔放な女性関係も計算の内なのかもしれない。
「ここでの立ち話はお勧めできないね。王都の門が閉まる前に、帰ることをおすすめするよ」
「そうねぇ。私も明日は非番じゃないし……」
ヒルダもやれやれといった様子で立ち上がる。
「これでアローのお師匠様が納得してくれるといいね」
《――ほう、この程度で私が納得すると思ったか?》
その声は、突然だった。周囲の景色が変わる。日が傾き始めた頃合いの街道の景色が、どんどん黒く塗りつぶされていく。
「師匠、他の皆はあまり巻き込むなと――」
《ミステルを救う機会をくれてやったんだから感謝をしてほしいのだがなぁ。ははははは》
アローの言葉を遮るようにして、クロイツァは笑う。一行の周囲はどんどん黒く染まっていき、もはや風景は欠片もわからない。
《さぁ、アーロイス・シュヴァルツ。我が不肖の弟子よ。今度の試練は小手先だけではどうにもならんぞ?》




