86.間違いだらけの兄妹の本当
煉獄の炎が森を焼いている。
「どうして知らないでいてくださらないんですか!」
膨れ上がった悪霊の怨念が木をなぎ倒し、地を焼き尽くし、そして悲鳴に似た音で空気を切り裂く。
「どうして、どうして、どうして、貴方は!」
「そうだな。お前が怒るのは正しい。誰にだって知られたくないことくらいはある。それはお前が自分で乗り越えなければいけないものだったかもしれない」
ミステルが降らせた火の雨を、アローが呼び出した煉獄の炎が相殺していく。
力押しでミステルを『逝かせる』ことは簡単だ。アローにはその力がある。だが、それではミステルの後悔と嘆きは癒えない。向き合ったことにはならない。
「お前は僕の家族だ。ただ一人の妹だ。だから助けたい。それだけだ」
「お兄様はそうでしょうね。でも、私は違います」
ミステルの足元からいくつもの血塗れの手が生えて、這って、のたうつ。
その足が彼女の細い足首に絡みついていることにも、気づいていないようだった。
(ミステルを説得するには、まず頭を冷やしてもらうしかなさそうだ)
このガンドライドには不慮の死を遂げた者の魂しかない。つまり、どれもこれも恨みつらみがたっぷり凝縮された連中ばかりだ。
アローはまだ生きている人間だし、元々死霊を問答無用で支配下におく力があるからこんなに冷静でいられる。
しかし無防備な霊体のミステルは、どうしても影響を受けてしまう。
「私は……本当はお兄様のことを、家族だなんて思ってなかった。ずっと、ずっと慕っておりました。でも……お兄様は私の神様だから、手を汚した私ではふさわしくないから……」
ミステルが嘆く度に、煉獄の炎は荒れ狂い、アローへと襲いかかる。それをアローが相殺する。いたちごっこだ。
(だけど本気でやったら、それこそミステルごと冥府送還してしまう。僕の消耗も激しくなるし……案外難題だぞ、これは)
口で何を言おうと、今のミステルでは話半分にしか聞いてもらえないだろう。
『死を記憶せよ』
ひとまず、ミステルの足元に群がっている死霊たちを送還して、数をある程度減らす。
ガンドライドの中に取り込まれつつあることで、ミステルが冷静さを欠いているのなら、これ以上数を増やしてはいけない。
「どうして、私を攻撃なさらないのですか。お兄様のお力なら、私を冥府に送ることくらい容易いはず。お兄様がその気なら、私は抵抗だってしません」
「送還するつもりがないからに決まっているだろう」
抵抗しない、と言いつつも、ミステルの周りからは続々と死霊が溢れ出している。その一つ一つを地道に送還しながら、アローはミステルへと駆け寄っていく。
「来ないでください! 近づかないでください! 早く私を殺してください!」
「殺して、も何ももう死んでいるだろう」
煉獄の炎と炎がそこかしこでぶつかりあって、火の粉を散らして消えていく。
降り注ぐ火の粉はアローの肌を焦がしたが、構わなかった。現実の傷ではない。多少は生身の方も影響を受けているかもしれないが、こんなものはかすり傷だ。
「ミステル、お前は僕のことを神様だなんて言うけどな。神様なんてろくなものじゃないぞ。人の望みなんてろくにききやしない。現に、僕はミステルの望みをかなえられなかっただろう。その程度のものだ」
飛んできた死霊を寸前でどうにか避けて、アローは駆ける。
「いいんです! お兄様はそこにいてくれるだけでいいんです! 私が勝手に信じたいだけなんです、それだけで、貴方に勝手な理想を押し付けてる人間で……」
「わかった、わかったが、そんなのは別に珍しいことじゃない。僕だってミステルが何をやっているのか全然知らずに、のん気に森に引きこもっていたんだ。大して変わらないだろう」
嘆きとともに飛んできた死霊を、手で払い落とした。何の防御もなしに死霊を受けたので、指先半分が消えてしまった。
(悠長にしてられないな、これは)
ある程度までなら、魂はすり減っても回復する。しかし、程度が大きくなれば寿命を削るのと同義だ。魔力のように自然治癒で全回復は望めない。
ミステルを止める方法は、二つ。彼女を冥府に送還してしまうか、彼女自身が我に返って攻撃を止めるか、だ。アローとしては後者を選びたい。
ミステルが本当にもう眠りたいのだというのなら、アローには引き留める権利はない。妹の願いを聞き届けて冥府に送るのが兄としてできることだろう。
彼女自身が受けた呪いの浄化を待つにしても、使い魔の契約を白紙に戻すことは不可能ではない。ミステルはアローが代償と引き換えに契約したのではなく、自ら望んでアローと契約しているからだ。恐らくお互いにそれほど代償の支払いをしなくても契約解除はできる。
それがミステルの望みならば、喜んで聞く。それが彼女が自分を慕ってくれていることに甘えてきた自分が、彼女に贈れる唯一のものだからだ。
だけどミステルは泣いている。ずっと、ずっと。ただ、自分の間違いをアローに知られたくなくて――ただ、アローに嫌われたくなくて、泣いている。
「お兄様、もうやめてください。私を早く殺してください」
「だから、もう死んでいるので殺しようがない。それと、ミステル、お前は重要なことを忘れている。間違いがどうのというのなら、僕だって間違いまくっている。師匠がバカ弟子と連呼するわけだ」
死霊が暴れ狂う煉獄の炎に包まれた森の中で、アローはまだ無事な方の左手を掲げる。
『死を記憶せよ』『死を記憶せよ』『死を記憶せよ』
呪文を重ねがけして呼び込んだ死霊を帯状にして、アローはミステルの身体を掴みあげた。多少乱暴な方法だが、地面から群がってくる死霊から引き離すのがまず先決だ。
もちろん、死霊を多く呼ぶ分だけ、地道に一つずつ倒すよりも魂を消耗することになる。こればかりは仕方がない。
宙づり状態になっている妹の元にようやくの思いで駆け寄ると、アローはため息まじりにその場にあぐらをかいた。
「ミステル、話をしよう」
「話すことなんて……ありません。お兄様に全て知られてしまったから……私は、もう貴方のおそばにいることはできません」
「全て知った、って、僕がさっきぞんざいに冥府送りにしたお前の父親っぽいけど何か違う誰かとのことか?」
その言葉に、嘆いてばかりだったミステルが一瞬だけきょとんとした顔になった。
「………………叔父です」
「そうか。叔父だったか。僕のかわいいミステルの親にしてはいまいちさえないおっさんだと思ったが、叔父か」
「………………叔父です」
何故か確認するように、ミステルはもう一度繰り返した。
「それで、そのお前をいじめた自業自得で逆恨みしていたおっさんについては、僕が煉獄送りにしてしまったわけだが、迷惑だったか?」
「…………いえ」
「よし、少し冷静になったな?」
「そういう問題では…………」
とはいいつつも、ミステルの目はすでに紅くはなく、いつもの美しい青い目に戻っている。ガンドライドの死霊と引き離されたからだろう。
「ミステル。実は僕も、お前にずっと言えなかったことがある」
「お兄様が?」
「僕が最初お前を助けたのは、ただ寂しかったからだ。家族が欲しかったからだ。もっと言えば、あの頃僕は都に行くことを禁止されたばかりで、心底いじけていたからだ」
「えっ?」
ミステルがますますきょとんとした顔になった。それはそうだろう。彼女は今までアローのことを、自分の命の恩人として慕って来てくれたのだから。それがこんなどうでもいい理由で救われたとなると、戸惑いだってするだろう。
「こんなこと、僕だってお前にだけは知られたくなかったよ。だって僕は、いつだってお前が誇らしく思えるような兄でありたかったんだから」
ミステルがアローを慕うほどに、言いだせることではなくなってしまった。本当はあの時側にいてくれる、友達や家族になってくれる人なら誰でもよかったなんて、そんなこと。彼女の好意への裏切りみたいなものだったから。
「僕は神様でもなんでもない。ハインツを見てみろ。現実の女神さまだってえこひいきをするんだぞ。人間の僕が、そんな完璧超人のはずないだろう。だから間違った。お前の好意に甘えて、格好悪いところを見せたくなくて、尊敬される兄のままでいたくて、お前のために本当は何をするべきだったのかを考えなかったからだ」
アローはパチン、と指を鳴らす。それを合図にして死霊はミステルへの拘束を解き、彼女はアローの腕の中へと落ちてくる。
「おっと……」
右が手首から先を失っているだけに、少し危なげなかったが、どうにか受け止めた。元より魂なので、大した重みはない。
「で、初めての兄妹喧嘩の感想は?」
「今、それを聞きますか?」
「今後聞く機会があるかわからない」
「最悪の気分です。恥ずかしいところをたくさん見せました」
「そうか。僕もだいぶ恥をかいたからおあいこだ」
「でもこのお姫様抱っこについては正直な感想を申しますと最高です」
「割と満喫しているな」
「今後機会があるかわかりませんので」
ミステルは、泣きそうな顔で笑う。
「お兄様は酷い人です。私はお兄様のことを、本当はお兄様だなんて思っていたことはありませんでした。ずっとずっと、お慕いしていました。それなのに、お兄様は私のことは妹だっておっしゃるんです」
「うーん、僕なりに一番の特別なんだが、ダメなのか?」
彼女はそっと首を横に振って。
「いいですよ、今はそれで……たとえ、いつか貴方が他の誰かに恋をする日が来たとしても。ただし、私の目にかなう人以外は許しませんけど」
「え? は? 恋?」
突然恋の話をされるとは思わず慌てふためいたアローに、ミステルは微笑んだ。
「お兄様、いえ――アロー様。私に『名前』をください」




