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ヒキコモリ死霊術師はモテてみたい  作者: 藍澤李色
第三部:師匠クロイツァの試練編
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85.彼女が見つけたただ唯一の神様

 ミステル・シュバルツという名前の少女は、七年前に生まれた。


 それまでのミステルという名をした少女のことを、彼女は箱の中に押し込めた。箱の中がどれほど澱んで腐ってドロドロに溶けて酷い有様になっていても、彼女は気にしなかった。


 ミステルにとって、アローは神様だ。希望だ。憧れだ。聖域だ。


 綺麗で美しくて輝いた大切な宝物なのだ。だから自分の汚い部分は全て隠し通さなければならなかった。


 叔父と従兄弟に虐げられていた時の無力な自分を、いずれ金に変わる道具として育った自分を。


 一張羅の小綺麗な服をまとって、古びた荷馬車で連れ出された時、ミステルは今よりも最悪な場所に行くのなら、死のうと思った。


 もはや顔も覚えていない両親だったが、両親がいた頃の自分は、もう少しだけ幸せだった気がしたからだ。死んだら両親のところにいけるだろうと、漠然とそう考えた。


 だから古びた荷馬車に申し訳程度についていた聖霊の護符を、道すがらこっそりと外してしまった。


 これで森の魔獣を退けるものはない。自分も叔父も魔獣に襲われて死ぬだろう。


(きっと、父さんと母さんのところに行ける)


 それが、当時たった八歳だった少女が思いついた名案だった。


 だけど魔獣の赤い瞳が点々と暗い森の中で輝き始めた時、少女の淡い希望は、絶望に塗りつぶされた。


 こんな場所で死ぬ。大嫌いな叔父と一緒に、魔獣に噛み殺されて死ぬ。一瞬で死ぬわけがない。野良猫が蔵の隅で捕まえたネズミをいたぶって遊んでから喰らい尽くしたように、自分もこれからそういう風に殺されるのだ。


 ミステルは恐怖していた。恐怖で混乱していた。ほとんど本能のように「逃げなければならない」という考えに支配されて、危険も顧みずに馬車から飛び降りた。


 幸いにして、下は厚く降り積もった落ち葉が柔らかく、ミステルは目立った怪我をすることもなく、すぐに起き上がって森の中を走り始める。


「待て、ミステル!」


 叔父の声が聞こえる。それでも振り返らず走った。


それでも絶叫が木々の間を縫って聞こえてきた時、ミステルは一度だけ振り返ってしまった。


 叔父が魔獣に四肢を噛みちぎられた、断末魔の声。魔獣が喉笛に食らいつき、あらぬ方向へとぐらりと揺れる頭。その壮絶な死に顔は、遠目でもしっかりと見えた。その苦悶の形相をして息絶えた叔父の目と、ミステルの目があった。


「いや、いや……見ないで!」


 ただ闇雲に走って、走って。


 その先でミステルは、自分だけの神様に、希望に出会った。


 銀色の髪をした、紅い目の美しい少年が手を差し伸べてくれた。それがアローだ。初めて、ミステルを助けてくれた人。


 それからずっと、ミステルの神様はアローだ。フライアも、聖霊も信じない。


 どれほど神様に祈っても助けてくれなかったけれど、アローだけは違った。助けてくれた。受け入れてくれた。この手をきちんと取ってくれた。


 だから、アローのためにだったら何だってできる。人を呪うことも、自分を殺すことも、アローを失わないためなら、何だって。


 だから。


(だから、見ないでください)


 身勝手に人を死に追いやった自分を、呪い呪われて死してもなお隠してきた自分を。


(貴方だけは、何も知らずにいてください)



 ギイイィイィァァァァアァァァァ。


 それは悲鳴だったのか、それとも何かが軋む音だったのか。森の中に絶望をかきたてる音が響き渡る。


 アローは、気がつくと古びた荷馬車の前に立っていた。街道から少しずれた場所で横転している。


 それに魔獣が群がって、一人の男の身体を貪っていた。


 絶望の表情で濁った眼差しを投げるその男の顔には、確かに見覚えがある。


「ミステルの父親……じゃあないか。育て親、か?」


 幼いミステルを虐げていたあの男だ。男と、彼の息子らしき少年たちの雰囲気から察するに、ミステルは実の娘ではないだろう。


 血の繋がりのある家族でも、カタリナの時の例が示した通りにロクでもない親兄弟はいるものだが、ミステルとこの男はかけらも似ていない。息子たちもしかりだ。ミステルだけ母親似というのも不自然だ。こんな美人の母親似なら、もう少しくらいは大切に扱いそうなものだ。


「ミステルが……あいつが……俺を……」


 死体の口から怨みの言葉が漏れる。


 不本意な死に方をした魂では、そう珍しいことではない。一番最後に抱いた強烈な怨みの感情に支配されるのだ。


「君の場合は自業自得、自分がやってきたことがそのまま自分に返ってきただけに思えるが?」


「ミステルが……あいつが、聖霊の、護りを……あいつだけ、なぜ、あいつだけ……生き残って」


「安心しろ、もう死んでる。別の理由でだが。それともう一つ安心しろ。そもそも君の怨みは自分の蒔いたタネだが、もう死んでるから別に償わなくていいぞ。よかったな。個人的にはあと百万回魔獣にかじられてきていいくらいだ」


 死霊は答えない。


 魔獣が彼の頬肉にかじりつき、眼窩から彼の眼球がこぼれ落ちた。


「君に言いたいことは死ぬほどあるが、君がこうして恨みつらみを吐き出していると、ミステルが無駄に傷つくことになる。悪いが先にさっさと逝ってくれ……『死を記憶せよ』」


 ザッ、と音を立てて風が落ち葉を散らしていく。


 魔獣の姿は消え、怨念を吐き続けていた男の死体も、ポツポツと現れた紅い炎に包まれて消えていく。


 ガンドライドの中に取り込まれたまま、何度も魔獣にかじられるよりは煉獄に吹き飛ばされた方がマシだろう。


 煉獄が彼にとってもっと不本意な場所だとしても、さすがにそこまでは責任を持てない。


 ガンドライドの中で起こっている出来事は、全て死霊の怨念が、一緒に取り込まれた悪霊や魔獣から力を得て作り上げられた妄執だ。


 たとえここで助けたとしても、真実は変わらない。生き返るわけではない。たとえば、先ほど見たあの場面で幼いミステルを助けても、実際の彼女は救われることはない。


 この男はもう死んでいる。生きていた間のことは償わせられない。ミステルが、カタリナに協力して呪いをばらまいてしまったことを、もう償うことができないように。


 だから冥府に送ってしまうのが、この男にとっての救いだ。怨念が燃え尽きるまで煉獄の炎に焼かれるとしても、浄化されずに永遠に怨みに囚われるよりは、ずっと救われる。


「あっさり冥府送りにしていいの?」


 ガンドライドの少女は笑う。


「ここに置いておく方が有害だ」


「でも貴方の妹は、そうは思ってないみたい」


 すすり泣く声が聞こえる。


 いや、聞こえていた。男の吐き出した恨みごとのうらで、魔獣の咆哮の合間で。彼女はずっと泣いていた。


「ミステル」


 藍色の髪の少女は、アローのよく知る姿でそこに佇んでいる。顔を覆って、涙をとめどなく流しながら。


「見ないでくださいって……言いましたよね」


「ああ。でも、僕はお前ともっとちゃんと話すべきだった。お前のことを知らなくちゃいけなかった」


「知らなくていいです。何も見なくていいです。お兄様は私だけの神様なんです。だからそのまま、綺麗でいてください。私の聖域でいてください。そのためになら、私は誰に恨まれても憎まれても構わないんです」


 泣きながら、彼女は顔を上げる。その瞳はいつもの彼女とは違っていて、紅く光を放っている。


「だから、お兄様。私のことは救わないでください。何も見ずに、何も知らずに……いてください」


「いくらミステルの頼みでもそれはダメだ。知られたくないことを知ろうとしたのは謝ろう。でも、ひとつだけ信じてくれ。僕はお前を救いたい。だから、お前を救うためにお前の過去とも向きあおう。今度こそ、最後まで手を離さないために」


 ずっと、彼女の手を引いてきたつもりでいた。


 共にありたいと願った彼女の、手を離さないでいたつもりだった。


 だけどアローは、ミステルは自分がただ思考停止して引きこもっていただけの森のあの家を守るために、人を呪いすらしたことを知らなかった。


 アローが七年間無意味に立ち止まっていた間に、彼女は他でもないアローのために繋いでいたその手を離していたのだ。


 アローがミステルの神様だというのなら、彼女に神様を手ばなさせたのは誰なのか。それは自分ではないのか。ならば、償いは果たすべきだ。自分はまだ、生きているのだから。


「私はいいんです。お兄様のお役に立てるなら、それだけで。それだけじゃダメだっていうんなら、私を逝かせてください。貴方のその手で!」


 ミステルが手を掲げる。煉獄の炎が彼女の周りを囲む。


「わかった。全力で止めてみせるから、かかってこい。兄妹喧嘩は初めてだな、ミステル」


 アローも手を掲げた。目を閉じ、開く。森の景色が緋色に染まる。


 二人の死霊術師の間で、煉獄の炎がすべてを焼き尽くす。


『死と共に踊りなさい!』


『死を記憶せよ!』


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