84.誰も知らない彼女の箱庭
「大きなことを言ったはいいが、ここから先は行き当たりばったりだな」
周りの様子はほとんどわからない。暗いばかりだ。そもそも、肉体を伴わない空間の中なのだから、感触はある意味では単なる思い違いだ。
それでも、少しずつ地面を歩いているような感覚は、わかってきた。普通の土を固めたかのような田舎道。その感触を確かめるように歩いていると、辺りは寂れた村の様子へと変わっていった。
「ぐずぐずするな、お前は役立たずなんだから」
吐き捨てるように言う男。
まだ幼い少女は、小さな身体には重すぎる薪の束を抱えてよたよたと歩いていく。
藍色の髪の、女の子。
(ミステル?)
それは、出会った当初よりも少し幼いミステルの姿に思えた。
「もう少し育ったら、お前なんて都に売り払ってやる。女なんて仕事の役に立ちゃしねえんだ」
少女が小石につまずいて転ぶ。抱えていた薪がばらばらと道に散らばる。しかし男は一度振り向いただけで、彼女を助けようとはしなかった。
「のろま。きちんと全部ひろえよ」
少女は無言で薪を拾う。表情もなく、淡々と。
(これは、僕に会う前のミステルの記憶か?)
幼いミステルには、アローの姿が見えていないようだった。薪を拾い集めて、再びよたよたと歩いていく。
アローが知っているミステルは、自分にべったりと懐いて、アローのためにだったらなんだって厭わない献身的な少女だ。
初めて会った時からそうだった。アローのためだけに全てを差し出すことを、ただのひとかけらも厭わなかった。
家の前にたどり着いた少女が再び薪を落とした。今度はつまずいたからではない。
家から出てきた少年たちが、少女を突き飛ばしたからだ。
「さっさと拾えよ、役立たずのゴクツブシ」
ゲラゲラと笑う少年たちに目もくれず、少女は黙々と薪を拾う。
「跡が残るようなことはすんなよ。そいつは、見た目はいいんだ。傷がついたら売り物にならなくなる」
男の声が家の中から聞こえてくる。少年たちは興ざめしたのか、口々に文句をつけながら家に戻っていった。
少女は黙々と、ただ黙々と薪を拾う。
「ミステル……」
届かないと知りながらも、手を伸ばす。
しかし、一瞬にして景色は燃え上がる。
森の中、悲鳴が響く。
盗賊に荷物を奪われて、森をさまよった末に狼に噛みちぎられた商人の末期の声。
奥に入りすぎて帰り道を見失い、息絶えた狩人の屍肉を貪る猛禽。
口べらしに森に捨てられた子供の肉を貪る魔獣。
また一人、足を悪くした祖母を森に捨てて泣きながら走り去っていく男の姿。
すすり泣く声、救いを求める声、怒り狂う声、神に祈る声。
それらをすべて噛み砕いて飲み込む、ケダモノたちの咀嚼の音。
「理不尽でしょう」
ガンドライドはうっすらと微笑んだ。
いつからそこにいたのか。もしかすると最初からずっとアローのすぐ隣にいたのかもしれない。
「誰もそう。死にたくなんてなかった。絶望して森に入った人ですらそう。死にたくなんてなかった。死にたくなんてなかったのよ」
「……だろうな」
「貴方が気安く召喚して使役してきた死霊たちは、皆こうして死んでいった。理不尽でしょう」
「死は理不尽で、平等だ」
「貴方がそれを言うの?」
笑い声。嗤い声。嘲い声。
それが森全体を揺らすように、こだまする。
足元にはいくつもの手が転がっている。傷だらけの手が、皺だらけの手が、指のなくなった手が、爪の剥がれた手が、骨のむき出しになった手が……。
「貴方が何気なく使役してきた魂が、どんな死に方をしたか考えたことがあって?」
「いや、ないな。死は終わりだ。その一つ一つの『生前』は、その死を受け止めた者の中にのみ存在する」
「哲学ね。そう。貴方の世界には師匠と義妹しかいなかった。だから義妹だけが貴方の中に存在していた。だから間違えのよね。間違えたのだわ」
ガンドライドの弾むような声に合わせて、幾重にも重なった笑い声が響く。
折り重なった手首がザワザワとうごめく。
「そうだな。認めよう。僕は間違った。ミステルを駆り立てたのも、死においやったのも、安寧を与えなかったのも僕だ」
屍の手をひとつ掴む。それを、中空へとほうりなげる。
『死を記憶せよ』
屍肉でできた手が、紅く美しく燃え上がり、それは真紅の羽根を持つ鳥となって森の中へと消えていく。
「綺麗な送り方をするのね」
「皮肉か」
「本心よ」
ガンドライドの少女はふわりと飛び上がって、木の上に乗った。枝に腰掛けてゆらゆらと足を揺らす。
「森の中で狼や魔獣に噛み砕かれて死んだ私たちを、全て救うなんて無理でしょう。全てをひとつひとつ、ああやって送ってあげるつもりなの?」
「全員にあれをやったら、僕の魂はすり減ってなくなるな」
「緩慢な自殺ね。それではクロイツァは満足しないのではなくて?」
「全てを救うとは言ったが、全部を丁寧に救ってやるとは言っていない。浄化はしてやるが」
「聖霊魔法は使えない、スヴァルトの助力を得られない、今の貴方が? 無謀だわ」
「ああ、そういえばリューゲがいないな」
おおかた、クロイツァが選り分けたのだろう。黒妖精ほどの力がある魂に入り込まれたら、ガンドライドなど内部崩壊待った無しだ。
リューゲ本人はさぞ不本意だろう。人間の魔術師に弾かれるなど、黒妖精の誇りがだいぶ傷ついたに違いない。
「いや、待てよ。そもそも師匠は人間なのだろうか。君はどう思う?」
「ガンドライドにそんなことを聞いてくる愚か者は初めてだわ、クロイツァの弟子。私の知ることじゃないわ。殺すわよ」
「君は見た目の割に物騒だ」
「私を丸太で潰した上に魔法道具でひき肉にしてくれたのはどこの誰だったかしらね?」
「何だそれは、エグいな」
「貴方がやったことでしょう」
ガンドライドが、心底引いた顔をしたが、そんなことを言われてもあれ以外に方法がなかったのだから仕方がない。
「僕一人でどうにかできないなら仲間を集めるしかない。そして、この世界で仲間になれる可能性があるのはミステルだ。だからミステルを真っ先に救う」
「貴方には学習能力がないのかしら?」
「僕が真っ先に向き合うべきなのが誰なのか、火を見るよりも明らかだという話だ」
あの森で出会う前に、ミステルに何があったのかをアローは知らない。
ミステルは決して話すことはなかった。今にして思えば、不自然なほどに。純粋に話したくなかったのだろう。あれがミステルの家族なのだとしたら、愛情を受けて育ったとはとても言えない。
だけどアローは気付かなかった。アロー自身が両親や、家族といったものを知らず、いささか常識から外れた方法で育てられたからだ。物心つく前までは死霊によって、師匠に拾われてからは言わずもがなだった。
クロイツァは決して甘くはなかったが、アローにずいぶん良くしてくれたとは思う。ただ、それが世間の家族の姿とはかけ離れていたことだけは疑いようもない。
「知らないことは知ればいい」
「相手が知られたくないことだとしても?」
「それは時も場合によるが、実際、僕は何も知らずに失敗した」
何も知らずに彼女の手を取った。何も知らずに彼女の手を引いた。いつの間にか彼女は一人で手を離して、一人で孤独に死を選んだ。
ただ、自分の手を取ってくれたアローに報いるために、ミステルという少女は死んだ。死んでなお、その魂を捧げた。
「僕は何も知らずにミステルの献身を利用していた。だからミステルが僕にしてくれたように、僕も魂をかけてミステルに報いてみせよう」
「ふぅん……」
ガンドライドは興味なさそうに鼻を鳴らすと、辺りを埋め尽くしていた死体の残骸が、まるで波が引くように去っていった。
「自分の一番知られたくないことを、自分が一番知られたくない人に知られることで、彼女は救われるも思う?」
「わからない。それでも僕は、今度は絶対に手を離さない。誰も呪わせない。必ず連れて帰る」
そう告げた瞬間、森の中に魔獣の咆哮が響き渡る。
ガンドライドは笑っていない。
馬のいななく声、馬車が横転して砕ける音。さけび声。泣き声。
「さぁ、救えるものなら救ってみなさい、クロイツァの弟子。人間は生死の間際が、一番綺麗で醜くて滑稽なのよ」




