82.二人の始まり、ある種の終り
ゴボゴボと音がする。
「お兄様」
その合間に聞こえる、ミステルの声。
目を開く。そこは暗闇の世界。天も地も全てが黒く塗りつぶされた場所。
「お兄様、ご無事ですか?」
もう一度、ミステルの声。
声のした方へ顔を向けると、ミステルがそこにたたずんでいた。
「ミステル?」
ミステルの姿が見えることに一瞬喜びかけて、すぐにそんな場合ではないと気がつく。
「……引きずり込まれたな」
ここは恐らく、ガンドライドの『中身』だ。死霊、悪霊、魔獣の集合体を繋ぐ、ある種の共有空間のようなもの。
だから、瓶から出られないはずのミステルが、そこに存在していられる。彼女は死霊だからだ。
(僕も地上では今頃抜け殻か?)
ヒルダたちが気づいたらまた心配をかけそうだが、仕方がない。師匠が仕組んだことに、アローが対抗できる術はなかった。
(仲間を連れてきていいとか言いつつ、最初から僕と分断させる前提だったんじゃないか)
もしかすると、森の段階で引きずり込むつもりだったのかもしれない。それならば、アローはクロイツァの予想に反して善戦したとも言える。
「お兄様、我々はガンドライドの中に取り込まれてしまったということですか」
「そのようだ。そしてこれは師匠が仕組んだことだな。ただで出られるとは思わない方が良さそうだぞ」
「あの方の策略ですか……」
「割と酷い目にあう覚悟はしといた方がいいぞ。……ミステル、ちょっといいか?」
「はい?」
きょとんとするミステルの手を取った。普通に触れられる。つまり、アローも今はミステルと同等の魂のみの存在ということだ。
一方、アローの手を握りながらミステルは頬を赤らめる。
「お兄様、急にそんな大胆な……」
「別に大胆ではないと思うが。ミステルに触れられるということは、どうやら僕の肉体の方は置き去りになっているようだな」
「あっ、そちらの確認でしたか」
「どちらだ」
あからさまにがっかりする義妹の心情をつゆ知らず、アローは首を傾げた。
「最初からこうするつもりでしたなら、お師匠様はどうしてわざんざ仲間を引き連れてこいなどとおっしゃったのでしょうね」
「僕が誰なら連れてこられるのかも含めて、試すつもりだったのかもな」
そういう意味では、高位の司祭であるハインツを動かしたのは、結果的に言えば良かったのかもしれない。アローがハインツを通して教会の後ろ盾を得ていることについては、クロイツァは当然のように知っているだろう。何せ森からハインツの所に飛ばしたのだから。
あそこでハインツが、魔術を使えなくなっているアローを不要とするか否か、師匠はそれが知りたかったのかもしれない。
「……ひとまず、ここからどうやって逃げ出すかを考えるか」
「魂で存在している、ということは魔力は使えるのでしょうか」
「そうだなぁ。魔術回路がダメになってるのが肉体だとすると、使えることになるが……調子にのってあんまり乱発すると魂が削れるな。それこそ寿命半分どころじゃない」
「…………極力使わないでくださいね。何があるかわかりませんから、絶対に、とは言いませんけれど」
むぅ、とむくれた顔をしながら、ミステルは少し先を歩きはじめた。暗闇の中、どちらへむかっているのかもわからない。
「お兄様のことは私が全力でお守りいたします。大丈夫です。私は死霊ですから多少魔力を使っても寿命は縮みません」
「普通に消滅の危機に陥るからやめておいてくれ」
「いいえ、いざとなったら刺し違えてでも……きゃあああぁ!?」
ミステルがすっとんきょうな悲鳴をあげる。真っ暗で何もないと思ったその空間に、無数の半ば腐り落ちた手が雑草のようにいくつも生えている。そのひとつが彼女の足を掴んでいたのだ。
『死を記憶せよ』
アローの呪文によって、うぞうぞと動きまわっていたその手が一掃される。そのかわりに暗闇を割いて現れたのは鬱蒼と茂る森の木々だった。様子から見て、黒き森の景色を写し取ったものだろう。
「お兄様……言った側から魔術を使って……」
「この程度でごりごり削れるほど僕の魂は貧弱じゃないから安心してくれていいぞ。……というか、ミステル、やっぱり危ないからお前は後ろに下がっていた方がいいぞ」
「今のは! いきなりだったので! 少し驚いた! だけですので!」
力強く強調しながら、ミステルは気を取り直してアローの先を歩いていく。
(何か、少しだけ昔を思い出すな、これ)
アローは七年間、森に引きこもっていた。その前だって、たまに師匠が気まぐれに王都に連れて行ってくれたくらいで、物心ついてからの記憶のほとんどを森で過ごしている。
師匠がいて、自分がいて、ミステルが来てからは師匠といるよりも彼女と過ごすことが増えた。
クロイツァはあの性格だ。本格的に旅に出る前も、アローがある程度力の制御を覚えてからは、時折ふらりと数日いなくなることはあった。
その間は、アローはひたすらミステルと一緒にこうやって森を歩いていたのだ。それは食料を得るためであったり、薪を得るためであったり、ミステルに死霊術や黒魔術を教えるためであったりもした。
ミステルはアローと一緒に森を歩く時間がお気に入りで、危ないと言っているのに先に立って歩く。アローが一緒なら、死霊術一つで魔獣も森の狼や熊なども全て片がつくと知っていたからだ。
森の中だけが世界だった。お互いだけが世界だった。
魔獣が跋扈する光もろくに差さないあの森の中が、二人の聖域で箱庭だった。
他の人間たちは聖霊魔法の護符をもって、神に祈りを捧げながら街道を必死に走り抜けるこの森の中が、二人にとっては遊び場だったのだ。
『ずるいわよねぇ……』
見知らぬ少女の声が、どこからともなく響く。
ミステルがとっさに身構えたが、少女は姿を現さない。
「ガンドライドの『親玉』だったか。君の名前はなんだ?」
『教えないわ、クロイツァの弟子。私は大勢の中の一つ。たまたま意思が強く残っていたから統率者として選ばれただけ。他の奴らと大差はないわ。名前なんて無意味。私は私達でガンドライドなのだもの』
クスクスクス、と笑う声。
嘲笑は次第に大きくなる。大勢になる。少女の声。少年の声。男の声。女の声。老婆の声。老爺の声。赤子の泣き声。全てが混ざり合って溶け合って森全体を奮わせる。
『その内貴方たちもこうなるの。大勢の中のひとつ。ひとつの中の大勢。不条理に死んだ数多の魂のひとつよ』
「そうなる前に私がこの森ごと吹き飛ばして見せます」
ミステルが手を掲げる。
「さあ、『死と共に踊り――』」
しかし、彼女の呪文は不自然に途切れた。
「ミステル、どうした?」
彼女は虚空を見つめて、呆然と立ち尽くしている。掲げていた手が力なく下りて、そのままペタンとその場に座り込んだ。
「……どうして?」
震える声で彼女が呟く。
「ミステル、何があったんだ?」
アローの問いに、彼女は答えない。ただいやいやをするように、耳をふさいでうずくまる。
『…………テル』
男の声が、聞こえた。
『ミステル……何故お前が…………』
「いや…………来ないで!」
ミステルが震えながら叫ぶ。
『…………お前が。俺を、置いて…………お前だけが…………』
「おい、ミステル……逃げ――」
アローはミステルに手を伸べる。状況はよくわからないが、とにかくここにいるのは彼女にとってまずい。
しかし、ミステルはアローの手を振り払った。
初めて出会ったあの日から、アローが手を差し出したら必ずついてきた彼女が。アローのために呪いを手にして死に、死してなお、アローと共にあり続けることを望んだ。そこまでしてアローと共にあることだけを望み続けてきたミステルが、初めて。
「お兄様…………見ないで」
「ミステル……?」
「お兄様、私を見ないでください、近づかないでください! 知らないでいてください! 私は……貴方にだけは――」
地面から伸びた黒い男の腕が、彼女の身体を絡め取る。
「……っ、『死を記憶せよ』!」
アローが放った死霊術は、形になることなく消えた。そして、ミステルの姿は地に沈んでいく。
「どうして……、どうして死霊術が使えないんだ! さっきは使えたのに」
《それは、お前が何もわかっていないからだ》
答えたのは、師匠クロイツァの声だった。
後ろを振り返ると、白いドレスに赤いリボンを胸に結んだ少女がうっすらと微笑んでいる。この世界は、ガンドライドの内面世界。森で不条理に息絶えて行ったものたちの。
アローは思い出した。
ミステルを拾ったのは、森の街道近くだ。金を惜しんだのか、聖霊の護りもろくに持たずに荷馬車を引いていた職人の男が、魔獣に襲われていた。ミステルは辛くも逃げおおせ、そしてたまたまその近くで魔術の練習がてら狩りをしていたアローに見つけられて、助かった。彼女をそこまで連れてきたはずの、父親らしき男は助からなかった。
それがアローとミステルの出会いだ。そこから始まった。
そう。ミステルの親は森に殺された。森の魔獣に骨ひとつも残さずに食い尽くされた。
「まさか……」
《なぁ、アロー、お前はミステルの何を知っている? 何を知っていた?》
あの時、ミステルを呼んだのは。ミステルを地に引きずりこんだのは。
クロイツァの声で、ガンドライドの少女は笑った。
《――お前はミステルを救えるかい?》




