79.戦女神は力になりたい
「まぁ、慌てるな。私はアローが人並みの青春を送っているとわかって大変気分がいい。今回は特別に助けてやったぞ。戦女神様が心配しているからなぁ!」
クロイツァは心底楽しそうに笑って、慌てるヒルダをなだめすかした。
弟子が崖から転落して笑える精神構造が、ヒルダにはよくわからない。とりあえずミステルが師匠の名を聞くなり、絶叫していた理由はわかった。
「あの、戦女神ではなく、ヒルダと呼んでください。私の名前はヒルデガルド・ティーへですので」
「ほう。そうだなぁ、お前の名前は覚えておこう。将来のためにも。……アローの嫁になるかもしれんしな?」
幸か不幸か、クロイツァのつぶやきの最後の方を、ヒルダは聞いていなかった。
助けた、と言ったので、もしかするとアローが店の近くに戻ってきてるのではと思って見回していたからだ。
「ところで、先ほど何か言いました?」
「言っておらん。バカ弟子はひとまず安全なところに放り込んだから、安心しろ」
若干、釈然としない気持ちに駆られながらも、ヒルダは追求しないことにした。クロイツァ相手にはつつけばつつくほど、やぶへびになる予感しかしない。
(本当に、この人の元でよくもあそこまでまともに育ったわね、アロー……)
もはや人類の神秘レベルだ。
「そうですか。でも、これで魔術回路の修復は……」
「しないぞ」
「しないの!?」
安全な場所に移動したというから試練も終わったのかと思えば、どうやらそうではないらしい。
「この程度の頑張りで、手軽に何かを得られると勘違いされては困る。これは序の口だ」
「序の口で崖から落ちますか!?」
十分すぎるほどに命の危機に直面している。普通に考えたら死ぬ。
「魔術回路の治療しないと、アローが早死にするかもしれないって言ってるのに、そのための手段で死んだら意味がないじゃないですか」
「そもそも、魔術回路の件は抜きでも普通にあいつはこのままなら長生きせんぞ。だから、せいぜい生き延びてもらうためにも、自力で力をつけて貰わねばならん」
「えっ?」
聞き捨てならない言葉に、ヒルダの動きが止まる。今、この傲岸不遜の大魔術師は、まるで世間話でもするようなノリで、非常に重大なことを言わなかったか。
「あんなに冥府の近くにいて、普通は長生きはせんだろ。だから、そういう点も含めてあいつにはもう少し死霊術の使い方を考えさせる」
「……ええ?」
ヒルダは困惑の声を上げることしかできないでいる。
わかってはいたはずだった。アローは基本的に、他人に心配をかけるようなことは言わない。隠しはしないが、聞かれるか、自然な流れで話題にならない限り口に出さない。
魔術回路の修復についてもそうだ。オステンワルドの城で、ヒルダの目の前でミステルを呼び出せないことが発覚していなければ、魔術が使えなくなったことすらなかなか言ってくれなかったかもしれない。
クロイツァは、アローが『死と生の境目が薄い』と評したが、ヒルダから見ると『自分の命に重さを感じていない』という風に映っている。
生きとし生けるものは絶対に死ぬ。死は何者にも平等である。それなのにミステルの死を受け入れなかったことが『間違い』だったと。アローは自分の死生観をそう述べていた。
だけど、厳密にはアローの死生観は平等ではない。アローは既に死んでいるミステルよりも、自分の命を軽く見ている。それはオステンワルドで、ミステルを助けるために何の迷いもなくリューゲに魂を差し出そうとしたことからも明らかだった。
それが『どうせ自分は長生きできないから、まともな死に方はできないから』というある種の諦念からきているのだとしたら、そんな哀しいことはない。
「まぁ、そんな悲壮な顔をするなよ、戦女神様。私だって可愛がって育てた弟子が、寿命などというつまらない理由で早死にされては困るのだ」
「あの……アローは私にとって、本当に大切な友達なんです。できれば力になりたいし、それに……アローだって、前ほどは簡単に命を捨てたりはしないと思うから」
少しずつ、少しずつでも、アローがグリューネに来て、ヒルダやテオ、ギルベルト、ハインツなどと出会って変わり始めているなら、その先を望むようになっているなら。
クロイツァはどこか愛おしいものを見つめるようなまなざしになって――しかしそれは一瞬で、完全に不遜さを取り戻した。
「よし、では第二の試練と行こうではないか。今度は……そうだな。さすがに魔術なしでは厳しかろう。助っ人を許可しよう。戦女神様も手伝えるかもしれんな」
「本当ですか!? って、いい加減名前で呼んでいただきたいのですけど」
「細かいことは気にするな。まぁ、アローに会いに行ってみろ。あの……何だったか? やたら女に好かれてる司祭。あいつが今の実質上の後見人らしいからな。あいつのところにぶちこんどいたぞ」
女に好かれている、アローの後見人になれる立場の司祭というと、該当する人間はただ一人しかいない。ハインツが女を口説いている情景が脳裏をよぎり、ヒルダは心なしかげんなりとした。どうにもハインツは苦手なのだ。
「う……あの人ですか。わかりました。ありがとうございます」
それでも、アローの力になれるというのなら、ハインツに会うことなど些細な問題だ。
ヒルダはクロイツァに礼をすると、魂の言伝屋を飛び出した。まずは大教会へ。不在かもしれないが、彼の行く場所なんてたかがしれている。
そんな少女騎士の姿を見送りながら、クロイツァはくつくつと笑いをかみ殺していた。
「おっと……アローをガンドライドに狙わせていることは言い忘れたなぁ。ガンドライドは死霊の集合体……ふふふっ、戦女神にとってもこれは修行かもしれんぞ、くくく」
もちろん、アローに会うために通りを駆けている最中のヒルダが、それを知るよしもない。
■
一方その頃、アローは寝台の上で呆然と立ち尽くしていた。
森で魔獣に追いかけ回され、体中土と埃と枯葉まみれだ。そんな状態で、高級そうな布団の上に突き落とされた。慌てて立ち上がって、状況を確認して、静止。
「…………」
「…………あー、アロー君」
「…………お楽しみのところを邪魔したな?」
「あー。うん、そういう気づかいはいらないからとりあえず降りようか」
そこにいたのは、青薔薇館の娼婦バルバラと、司祭ハインツ・カーテ。ハインツはバルバラの薄く透けた服を脱がそうと肩紐に手をかけているところであった。
いくらアローが鈍くても、情事にいたる寸前だったことはわかる。
「すまない……少しばかり、師匠に無茶ぶりをされていてな」
粛々とベッドから降り、丁寧に土埃や枯葉を払いつつ答えると、さすがにことに及ぶ気はなくなったらしいハインツが、ため息混じりに部屋の備付の椅子に腰かけた。
「君のお師匠様、ね。大魔術師、クロイツァ」
「そうだ。迷惑をかけたな」
「あら、私は構わないわよ? お姉さんが手取り足取り教えてあげましょうか?」
バルバラがウフフフと微笑み、ハインツが「いやいや」と何故かアローの代わりに否定した。
「どうした、ハインツ。今まで散々女性との逢瀬を目撃されまくっているのに、何をそこまでドン引きしているんだ」
「いやいや、普通にお楽しみの直前に知り合いの男子が空から降ってきたら、萎えるだろう」
「それもそうだな」
すみやかに納得した。アローは男女の営みについてはよくわからないが、ヒルダやミステルと楽しく会話している時にハインツが泥まみれで落ちてきたら萎える。
「えー、つまんなぁい」
『何がつまらないのですか、というか、お兄様をこんな悪魔の巣窟に落とすだなんて、お師匠様は何を考えているのです!?』
憤慨するミステルを、瓶を撫でてなだめすかし、アローは思案した。ハインツの元に落とされたのが、単に「娼館に落とせば面白いから」という理由だけではないと感じたからだ。師匠のことだから、アローとハインツが面識をもっていること知っているだろう。
《おい、バカ弟子、聞こえているか?》
言ってる側から、師匠クロイツァの声が部屋に響き渡る。
「聞こえている」
《崖で転落死ではつまらないからなぁ。もう少し頑張ってもらわねば困る》
「……善処はする。それで、次はどうするんだ?」
《それについてだが、喜べ。さすがにあんまりだと思ったのでお前に慈悲をやろう。そうだな、三人まで仲間をつれてきてもいいぞ?》
「仲間……か」
手を借りられることを素直に喜べない。恐らく、ヒルダなら協力してくれるだろうが、それは彼女も危ないことに巻き込むということだ。
何より、人の手助けを借りていい、ということは、先ほどまで以上の無茶を強いられるということに他ならない。
《さぁて、お前が誰を連れてくるか楽しみだなぁ?》